別子鉱山の歴史

 

新居浜港住友工場全景(開坑250年記念・昭和15年)武田耕雪作

 

年   代 出 来 事
寛永13年  1636 (〜寛永20年頃) 立川銅山開坑
貞享 4年  1687   三嶋村祇太夫、別子銅山を試掘
元禄 3年  1690 足谷(別子)銅山を検分、銅山請負稼行出願
元禄 4年  1691 5.9 別子銅山請負稼行認可、 8.1 採鉱開始、  10.12 製錬に着手
元禄 5年  1962 立川銅請負稼行
元禄 7年  1694 別子大火災 132人焼死
元禄 8年  1695 別子大和、立川大黒の両間歩内で抜合い
元禄 9年  1696 5か年継続稼行出願、許可
元禄11年  1698 この年、別子産銅量、明治以前の最高を記録
享保 6年  1721 「予州別子銅山へ家法之品書」制定、代官石原新十郎支配下の伊予幕領が松山藩御預り所となる
享保12年  1727 立川銅山、京都糸割符仲間から大坂屋永次郎に譲渡
享保15年  1730 水抜き普請と探鉱の助成として拝借米9000石出願、許可
元文 3年  1738 立川銅山稼人 170人離山騒動
寛延元年   1748 別子火災、下財小屋など多数焼失
宝暦 5年  1755 別子・立川御用銅定高72万斤となる。普請料銀300貫目拝借、以後増銅の褒美銀15貫目を支給される
宝暦12年  1762 泉屋吉左衛門による別子・立川両銅山一手稼行出願、許可
明和 5年  1768 風水害発生、被害甚大   手当銀75貫目増額、翌年から計90貫目支給
安永 5年  1776 寛永水抜完成
天明 5年  1785 稼人騒動、流行病頻発、別子本鋪内に大涌水発生
天明 6年  1786 幕府から涌水手当銀200貫目拝借、以後幕府・松山藩から再三融資を受ける
寛政 2年  1790 別子開坑100年記念祭挙行、 幕府余銅売上げを命ず
寛政11年  1799 地売り銅売上げ開始、御用銅4万斤増額
寛政12年  1800 銅山改革、支配人更迭、勘定仕法や掛板の制定
文化元年   1804 阿波藩からの訴えにより、幕府、銅水被害を調査、 風水害発生、被害甚大
文化 3年  1806 災害復旧のため手当金8000両拝借、以後同様の名目でたびたび融資を受ける
文政 8年  1825 別子本鋪内に大涌水発生、翌年から地売銅売上げ中断
文政 9年  1826 この年以降、欠損を出すなど経営不安定
天保11年  1840 別子開坑150年祭挙行
天保14年  1843 別子銅山休山願を松山藩・銅座に提出、御用銅値段100斤に付、銀172匁に引き上げ、再値上げを出願
弘化 2年  1845 御用銅値段214匁余に引き上げ(翌年から純利益を計上)
安政元年  1854 安政の大地震により三角水没、翌年4月の地震も水没に拍車
元治元年  1864 別子地売銅値段697匁余に引き上げ、幕府、代銀を金(1両60匁)で支払うと通達
慶応元年  1865 御用銅値段756匁余に引き上げ
慶応 2年  1866  幕府、長崎御用銅の廃止を通達、以後別子銅は地売銅として銅座買上げになる
慶応4年/明治元年 立川精銅場竣工、小足谷疎水道の開鑿開始
明治 2年  1869 立川精銅場操業開始、 黒色火薬の採鉱実験成功
明治 4年  1871 広瀬支配人、工部省鉱山掛として生野鉱山に出仕、御雇外人コワニェに指導を受ける
明治 5年  1872 別子改革実施、 坑外に鉱石運搬用の鉄軌道敷設
明治 6年  1873 フランス人技師雇用の件につき、リリエンタール商会と仮契約調印、6月ルイ・ラロックを紹介される、 月給・等級制の採用、この年別子鉱山と称するようになる
明治 7年  1874 ラロック赴任、 産銅100万斤(600トン)を突破
明治 9年  1876 わが国初の沈殿銅試作に成功、 東延斜坑の開鑿に着手
明治12年  1879 別子鉱山職制・規則各制定、 産銅150万斤を突破
明治15年  1882 第一通洞開鑿に着手(ダイナマイト本格使用)、立川精銅場でコークス混用実用化
明治17年  1884 小足谷疎水道貫通
明治18年  1885 弟地(筏津)坑の採鉱・製錬事業起業に着手
明治19年  1886 第一通洞貫通
明治23年  1890 別子開坑200年祭挙行、 産銅300万斤突破
明治24年  1891 複式高架索道竣工(端出場−石カ山丈間)、 立川精銅場の丁銅吹きを全廃し新居浜製錬所でKS銅製出
明治26年  1893 別子鉱山鉄道下部線(下部鉄道)新居浜−端出場間竣工、上部線角石原−石ケ山丈間竣工、新居浜製錬所本格稼動、 産銅400万斤突破
明治27年  1894 この年石炭・コークスの消費量合計が木炭消費量を上回る
明治28年  1895 産銅500万斤(3000トン)突破
明治30年  1897 四阪島製錬所建設に着手(明治37年竣工)
明治32年  1899 台風による大水害、死者513人、施設に壊滅的な打撃、 産銅600万斤突破
明治33年  1900 新居浜製錬所大煙突竣工、 綿火薬と黒色火薬を併用、陸軍製桜印ダイナマイト採用
明治34年  1901 採鉱課機械工場に小型発電機設置、電灯使用開始(ランプ、カンテラに代わる)
明治36年  1903 第一通洞の照明を石油灯から電灯に
明治38年  1905 四阪島製錬所、本格操業開始、 四阪島対岸から煙害の声起こる、 東平選鉱場完成
明治40年  1907 別子山中で暴動発生( 同年、足尾、生野でもストライキ、暴動発生)
明治41年  1908 坑内労働8時間、坑外労働12時間に、 日浦通洞の開鑿に着手
明治42年  1909 四阪島製錬所煙害問題につき、尾道会議開催(協議不成立)
明治43年  1910 四阪島製錬所の煙害に関し、第一回の賠償契約設立
明治44年  1911 日浦通洞開通、東延斜坑復旧、別子鉄道上部線廃止、大立坑の開鑿に着手
大正 2年  1913 坑内作業用種油灯に代え、アセチレン灯使用
大正 3年  1914 四阪島製錬所六本煙突完成(大正6年使用停止)
大正 4年  1915 大立坑、第四通洞準に到達、第四通洞貫通、 女子鉱夫の雇用廃止、 別子式削岩機、外国製にとってかわる
大正 5年  1916 採鉱本部を東延から東平に移転、筏津坑の探鉱に着手
大正 8年  1919 実働8時間制(坑口8時間制)実施
大正 9年  1920 四阪島製錬所、別子特有の当吹き法廃止、錬銅工程はすべて転炉に、 9番坑道準以下でシュリンケージ採鉱法を実施
大正10年  1921 人員整理実施
大正14年  1925 初めてダイヤモンド試錐と電気探鉱実施、労働組合員ら71人解雇
大正15年/昭和元年 2月、別子争議団、石ケ山丈貯水池・水路と大保木発電所水路破壊、争議解決、3月組合解散
昭和 2年  1927   2月東斜坑完成、7月別子鉱業所、住友別子鉱山鰍ニして独立
昭和 7年  1932 10月、東延斜坑で火災発生、 40日間にわたり採選鉱操業休止、消火後東延斜坑廃止
昭和 8年  1933 翌年にかけて、東京大学の協力を得て別子鉱山の地質調査実施、探鉱計画立案
昭和 9年  1934 別子鉱山産全鉱石を浮遊選鉱に、これに伴い四阪島製錬所は全鉱石を焼結ののち溶鉱炉に装入
昭和10年  1935 東平−端出場間の索道完成、探鉱通洞開鑿に着手(昭和17年貫通)、新立坑の開鑿に着手(昭和15年完成)
昭和11年  1936 ほぼ全面的に削岩機に切り替え、手掘りほとんどなくなる
昭和14年  1939 四阪島製錬所煙害問題、完全解決
昭和15年  1940 新居浜で別子開坑250年記念式典挙行、 新立坑完成
昭和16年  1941 筏津新坑完成
昭和20年  1945 8月終戦により生産休止、住友鉱業鰍ヘ制限会社の指定を受ける
昭和21年  1946 住友鉱業梶A井華鉱業鰍ノ社名変更(この前後、住友系各社の社名変更相次ぐ)、別子復興運動始まる
昭和22年  1947 坑内大火災発生(鎮火まで1カ月、殉職4人)、 別子復起業認可
昭和23年  1948 別子鉱山復興(下部開発)起業に着手
昭和25年  1950 井華鉱業葛熨ョ部門をもって別子鉱業株ュ足、 定年、全社的に坑内50歳、坑外55歳に統一、 職階制実施、 別子鉄道電化完成、 この年までにタングステンカーバイトビット(イゲタロイ)に切り替え
昭和27年  1952 別子鉱業梶A住友金属鉱山鰍ノ社名変更
昭和28年  1953 四阪島製錬所、半生鉱吹き操業開始、 別子鉱山、ローダー、ジャンボ導入などにより機械化掘進システムの定着を図る
昭和29年  1954 別子鉱山上部・中部開発起業に着手、 四阪島、生鉱吹きに全面転換
昭和30年  1955 別子鉱山復帰起業完成
昭和33年  1958 筏津下部開発起業に着手
昭和35年  1960 大斜坑の開鑿に着手(38年計画変更)、 坑内庸員制度実施
昭和36年  1961 30番中坑道準で富鉱帯に着脈
昭和38年  1963 筏津下部開発起業完成、第二次下部開発起業に着手、 新居浜精銅工場、電気銅月産能力5800トン
昭和39年  1964 第一生産部(別子鉱山)を中心とした機構改革実施、組織規定制定
昭和40年  1965 四阪島製錬所、溶錬能力日量380トン、 坑内勤務者の定年、53歳に延長、 シールド枠採鉱法実用化
昭和42年  1967 四阪島製錬所、溶錬能力日量500トン、 新居浜精銅工場、電気銅月産能力7000トン
昭和43年  1968 別子鉱山、東平坑休止
昭和44年  1969 大斜坑完成
昭和45年  1970 退職年金制度制定、 中部坑終掘
昭和46年  1971 四阪島製錬所、溶鉱炉3炉吹きを1炉に、転炉3炉稼動を1炉に
昭和47年  1972 7月、別子鉱山操業終結に関する協議成立、 基安坑終掘、 9月30日下部坑操業終掘、 10月30日住友家家長住友吉左衛門、別子鉱山を訪れ別れを告げる
昭和48年  1973 3月31日別子鉱山、筏津坑終掘、この日をもって別子閉山、5月8日閉山報告祭挙行
昭和49年  1974 別子鉱山、採石事業開始(昭和51年9月廃止)
昭和50年  1975 別子銅山記念館開館、 別子鉄道港線廃止
昭和51年  1976 四阪島製錬所、銅製錬の操業終結
昭和52年  1977 別子鉄道廃止

備考:以降も東予製錬所は製錬、電気銅の生産を続ける。平成2年(1990)は、別子開坑300年記念式典が挙行された。