鉄と鋼の話2 補記1  19世紀中頃のヨーロッパ製鉄


当時鉄の種類には、おおまかに言って、錬鉄(可鍛鉄、軟鉄)、鋼、鋳鉄(銑鉄)の3つがありました。
もっとも古くから知られていたのは錬鉄です。長い間、簡単な木炭炉で鉄鉱石を直接還元して作られていましたが、15世紀以後、いったん高炉で製造した銑鉄から間接的に精錬されるようになりました。精錬には当初木炭炉が使用されたのですが、やがて石炭反射炉を用いるパドル法に替わりました。木炭で精錬した鉄より質は劣りますが、生産効率がずっとよかったからです(オーストリアやドイツでは、昔ながらの木炭炉で小規模ながら質のよい錬鉄を作り続けました)。錬鉄は、比較的軟らかく粘りがあって鍛造容易な鉄です。19世紀半ばのイギリスでは、建築用構造材や鉄道レール、ボイラー材、造船材など幅広い分野で使用されました。

鋼は、硬い強靭な鉄です。錬鉄ほどではありませんが鍛接性を有します。作り方は錬鉄と同じで、錬鉄が出来るか鋼が出来るかは、長い間、原料となる鉄鉱石によってほぼ決まっていました。ある種の鉄鉱石からはより硬く強靭な鉄が出来、自然鋼(スタール、スチール)と呼ばれて、普通の鉄(アイゼン、アイアン)とまったく別のものと考えられました。オーストリアのシュタイエルマルクやケルンテン、スウェーデンのダネモラ、インドなどがその著名な産地です(脚注1)。鋼は焼き入れ・焼きなましが可能であり、鋭利な刃物や弾性が必要なバネには、なくてならない素材でした。
また自然鋼とは別に、錬鉄に特殊な処理を加えて表面を鋼化させる技法が、ドイツやスエーデン、イギリスなどで経験的に知られていました。この種の鋼をセメンテッド(硬化した)スチールと呼びます。その技法は長い間、他国に対し厳重に秘匿されていました。フランスが科学的な解明を与え、滲炭法として公表したのは18世紀になってからのことです。鋼は半熔状または固体で得られました。
熔けた鋼が出現するのは18世紀半ば、イギリスの時計職人ハンツマンを嚆矢とします(脚注2)。彼はスエーデンから輸入した錬鉄を滲炭法で鋼化し、るつぼで溶かして均質な鋼を作りました。
これらの鋼は、手作業で小規模に生産され、小型で高級な製品にしか用いることが出来ませんでした。
1851年に発表されたクルップの巨大な鋳鋼塊は、鋳鋼るつぼを多数並べ、一つの型にいっせいに熔湯を流し込んで製造されました。やはり手間のかかる高価な素材でした。

3つめの銑鉄は、ヨーロッパが初めて知った熔けた鉄です。15世紀頃、高炉の発明によって製造可能となりました。水車利用の強力な送風によって高温の得られる高炉では、鉄が炭素を吸収する反応が素早く進行し、融点の低い湯状の鉄が出来るのです。銑鉄は錬鉄と比べると、硬くて脆く、鍛造には不向きです。イギリスでは16世紀に高炉製鉄が最初の隆盛を迎え、大量の鋳鉄砲が作られて強大な軍事国家となりました。

以上3種の鉄の違いは、基本的に炭素含有量(炭素当量)の相違に帰します。鋳鉄は炭素を3〜5%含む鉄であり、錬鉄は0.1%以下の鉄です。鋼はその中間に相当します。炭素量との関連から演繹すると、銑鉄を精錬して錬鉄を得る作業は、余分な炭素を取り除くプロセスだと考えることが出来ますし、鋼を作るには錬鉄に炭素を吸収させるか、銑鉄の炭素濃度を薄めてやればよさそうだと分かるでしょう(15世紀の冶金家アグリコラは、硬い鉄(銑鉄?)の湯に錬鉄を溶かし込んで刃物鉄(鋼)を作る技法について言及しているそうです)。

17世紀の産業革命以来、ヨーロッパは鉄の大量消費時代に入りました。かつての木炭高炉は、蒸気機関送風機を組み合わせた石炭(コークス)高炉に進化、より大型化し、一回の操業で大量の銑鉄を生産出来るようになりました。
一方、銑鉄を精錬するのには、反射炉が使われました。反射炉は、もともと銅や銑鉄を再溶解して純度を高めるためのものでしたが、この時代には石炭の強い火力を利用し、大量の空気と酸化炎で銑鉄中の炭素を燃やして粘く軟らかい鉄(錬鉄)にする装置へと進化していたのです。丈の長い棹を炉内に突っ込み、半溶状の鉄を丹念にかき回して反応を進める作業から、パドル(攪拌)炉と呼ばれました。従来の木炭炉と比べると、効率のよい画期的な方法でしたが、依然人力を要し、一回の操業で得られる鉄塊の大きさは、炉一つにつき、せいぜい200Kgにとどまりました。それもアメ状の鉄を棹に絡めて人力で取り出すため、30〜35kgの小塊に分けねばなりません。また精錬の完了に数時間を要しました。
そのため生産効率が飛躍的に向上した高炉と比べたとき、数十年前のイギリスで、「アメリカを失った損失を補ってあまりある発明」と絶賛されたパドル法は、大量生産への対応が出来ず、製鉄家から「野蛮のしっぽ」(進化に取り残された存在という意味か?)と嘆かれていたのです。

効率的な精錬法の発見は時代の要請となっていました。そうしたところへ、突如、製鉄界とはまったく無縁だった人物、ヘンリー・ベッセマーが現れ、誰もあえて想像すらしなかった発想でこの問題の解決を宣言したのです。しかもその方法によれば、より優れた性質の鉄、すなわち溶鋼を大量に生産することが可能だというのですから、まさに製鉄界を揺るがす一大事でありました。


脚注1自然鋼と錬鉄

ローマ時代には、優秀な鉄鉱石の産地がだいたい定まり、ピレネー山脈やオーストリアのシュタイエルマルク、エルバ島やコルシカ島などに評価が集まりました。これらの産地の鉱石からは、普通の軟らかい錬鉄と違い、非常に硬い鉄が出来たのです。鉄鉱石中に、鉄の性質を劣化させる硫黄や燐などの成分がほとんど含まれておらず、一方マンガンを多量に含んでいたからでした。マンガンは、燐や硫黄の悪影響を抑え、鉄を硬く粘くする働きがあります。さらに精錬の際、マンガンが炭素の酸化を遅らせ、充分にスラグ(不純物)を除去した後も、比較的高い炭素濃度を保たせました。もっとも、こうした理論が明らかになるのはずっと後のことです。ジュリアス・シーザーは、北イタリアから、ドナウ川流域のシュタイエルマルクまで、鉄の道と呼ばれる街道を整備し、当地の鉄をロバの背中に積んでローマまで運ばせました。後にスウェーデンのダネモラ(ダンネムーラ)地方、オーストリアのケルンテン、ライン川東方の支流ジーク川流域のジーゲルランドなども鋼の産地として知られるようになりました。 (戻る

脚注2ハンツマンのるつぼ鋳鋼

18世紀の半ばまで、イギリスは長い間シュタイエルマルク産の「自然」鋼を輸入して鋼の需要を賄っていましたが、ハンツマンがスエーデンの棒鉄(錬鉄)を浸炭してルツボで溶かし鋼にする方法を編み出したことにより、鋼が国産化されました。遠く高いドイツの鋼から近くて安いスエーデンの棒鉄へのシフト効果は大きく、またドイツ製に劣らない国産の鋼によって、シェフールドは刃物の町として発展する地歩を築きました。さらに、ベッセマー法が開発され、安価な鋼が大量に作られるようになって、イギリス製鋼業はさらに発展しました。
ちなみにイギリスでは、滲炭法で錬鉄を鋼化する方法がハンツマン以前にも一部で知られていましたが、ドイツの鋼に太刀打ちできるものではありませんでした。
一方ハンツマン法では、原料としてマンガンを含むスウェーデンの錬鉄が不可欠でした。イギリス産の鉄ではやはり優秀な鋼にならなかったのです。 (戻る


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