以下の文章は、2000年1月に「ダイヤモンドの話1」としてアップしたお話の後半部分を分離し、ダイヤの成因についてのコメントなどを加えて、別仕立ての読み物としたものです(大幅に加筆しています)。
このお話は、1970年代にどっと市場にあふれたシベリア産ダイヤモンドに関するミステリーである。当時からすでに20年以上を経過し、ロシアのダイヤ鉱山事情が明らかにされた今となっては、一場の笑い話にも思えるたわいのないエピソードである。けれども、西側世界のソビエトに対する疑心暗鬼、宝飾用人造ダイヤモンドの製造をめぐる懸念には、今でも興味をそそるところがあると思うので紹介させていただく。
シベリアのダイヤモンドは、1950年代に発見された。そして1960年代前半に西側へ流れ始め、70年代に入ると誰も予想しなかったほどの規模で供給されるようになった。西側業者は、底なしに流れ込むダイヤがどうやって採掘されているのか、鉄のカーテン越しに洩れる乏しい情報から判断しようと努力したが、却って混乱するばかりだった。その状況は、彼らが100年近く培ってきたアフリカ産ダイヤの知識に照らすと、とうてい納得のいかないものだったからだ。
なぜ業者たちは、シベリアダイヤにかくも気を揉んだのか。それを理解するには、まず当時のダイヤモンドに関する二つの事情を頭に入れておく必要があるだろう。
ひとつは、販売システムである。「ダイヤモンドの話1」に書いた通り、19世紀末に南アフリカで豊富な鉱脈が発見されて以来、ダイヤは決して珍しい宝石でなくなっていた。しかし、西側には市場への供給を一手にコントロールするシンジケートが存在した。彼らは強烈なリーダーシップを発揮し、半世紀に亘ってダイヤの市場価格を操作し続けていた。その独占の下でのみ、ダイヤモンドの価値は保証可能なのであり、体制を永遠に維持するためには、シベリアダイヤの供給源を、将来的な可能性を含めて正確に掴み、取り込む必要があったのである。
もうひとつは、人造ダイヤモンドである。1797年、スコットランド人のテナントが、ダイヤモンドの成分はありふれた炭素であると証明して以来、多くの研究者たちが、石墨からダイヤを作り出す実験に携わってきた。しかし、どうやっても黒いススの塊は光り輝くダイヤモンドに変化しようとしなかった。アメリカのゼネラル・エレクトリック社(以下G.E.社)が、ついに人造ダイヤの製造に成功したのは1955年のことで、その間に150年以上の歳月が流れていた(スエーデンのASEA社は数年前に製造していたが公表しなかったらしい)。しかし成功したと言っても、出来たダイヤはきわめて粒が小さく、色は真っ黒で、とても宝石と呼べるようなものではなかった。1970年になって、G.E.社は、無色透明の大粒(1カラット)ダイヤを合成したと発表したが、同じ品質の天然ダイヤの値段と比べると何倍ものコストがかかったとされている。そのためかどうか、G.E.社は宝石市場へ進出せず、工業用ダイヤ市場の王者となった。彼らはシンジケートと協調関係を結び、工業分野と宝石分野とで棲み分けをしたのだった。かくて、宝石クラスの人造ダイヤは割に合わない、だから作られないというのが、世界の定説となった。
以上をまとめると、当時、宝石ダイヤの高い評価は、シンジケートがダイヤモンド信仰を維持出来るかどうかにかかっていた。供給が需要を上回れば、ダイヤの値段はたちどころに下落するに違いなかった。一方、市場で販売されるダイヤは、すべて天然ダイヤだと信じるべき環境にあった。しかし宝石ダイヤの製造は、原理的に確立されていたということになる。
ダイヤモンドは抜群に硬度が高く、耐磨耗性に優れ、事実上どんな物質をも研削出来るため(豆腐は削れないが)、工業用材料として、きわめて重要な存在である。天然ダイヤ原石の大半は、宝石には向かない、色の悪い(あるいは粗悪な)石であるが、ダイヤモンド・ダイや研磨材、切削材などにいくらでも使い途があった。さまざまな精密装置や工作機械、武器兵器の製造、エンジン、タービンブレードといった精度を要する部品の加工、トンネル掘削などに、くずダイヤは不可欠の、いわば魔法の粉だったのである。
工業立国にとってダイヤモンドは、国の命運を左右するほどの戦略物資だといえる。二次大戦中、アメリカがもっとも憂慮したことの一つは、工業用ダイヤの安定確保だった。当時のほぼ唯一のダイヤ供給源だったシンジケートはイギリス系の企業であり、ドイツがイギリスに侵攻するかどうかで戦局がひっくりかえることさえありえた。オランダが蹂躙される直前、研磨産業の中心地アムステルダム市内にストックされていたダイヤを潜水艦でイギリスに「避難」させた早業は、アムステルダム作戦と呼ばれている。かたや大戦中、連合国側から供給ルートを絶たれたナチスは、かなりのプレミアを払って密輸ダイヤモンドを買い集めていた。ヒトラーがどの民族を虐殺し、そのヒトラーに誰がダイヤを供給して大儲けしたかは、歴史の深部に横たわる暗い秘密である。
こうした事情は、共産圏でも同じであった。ソビエト連邦は、大戦後、国家経済の発展に工業用ダイヤが不可欠であることを認識し、供給を資本主義国の一企業に頼らねばならない不安を解消するため、自国内でダイヤ鉱脈を発見すること、または合成技術を確立することを死活問題として捉えていた。そして、国家を挙げての大規模なダイヤ探索が進められたのだった。
ソビエトの地質学者はすでに1930年代から南アフリカと地形の似ているシベリア、ヤクート自治共和国の高原(楯状地)がもっともダイヤ産出の可能性が高いと推測していた。実際、1941年には数個のダイヤ原石が発見され、彼らの意気は大いに上がった。1947年、第一次遠征隊がヤクートへ送られた。が、成果を得るより何より、厳寒の過酷な環境に直面して、ほうほうの態で引き上げざるをえなかった。ついで第二次隊が送られたが、ダイヤは見つからなかった。1953年、ラリサ・ポプガーエヴァという若い女性研究員が、ヤクートからの探鉱サンプルに含まれていたパイロープ(ガーネット)に着目し、その含有率を手がかりに探鉱エリアを絞っていくことを提案した。それが転機になった。その後、送られてきたサンプル中のパイロープが次第に増加してゆくことに気づいた彼女は、矢も盾もたまらなくなって、自らも現地に飛んだ。そして1954年8月21日、ビリュイ河流域(ダルイトン川?)でキンバーライトのダイヤモンドパイプ(筒状になった鉱脈)を発見したのであった。このパイプはザルニツァ(遠雷)と名づけられた。ついで1955年には、有名なミール(平和)・パイプが発見された。ユーリという若い地質学者が散歩中に近くの峡谷で狐穴を見つけ、掘り出されたばかりの青い土に沢山のダイヤモンドが混じっていることに気づいたのだ。その後、さらにいくつかのパイプが相次いで発見された。ソビエト政府はこれらのパイプから採掘した鉱石を選別するため、アイハルという巨大な人工都市を建造した。こうしてダイヤモンドの採掘事業が始まった。最初の数年は厳寒との戦いだった。しかし、共産主義は冬を克服した。洋々たる前途が開けた。ソビエトは工業用ダイヤ資源を自国内に確保し、ついでに副産物である宝石用ダイヤ(通常は原石全体の1〜2割くらい)を西側に輸出することで大量の外貨を稼ぐことが出来るはずだった。はずだった…。
1960年代に入ると、シベリアから西側に宝石用ダイヤが流れ始めた。シンジケートは敏感に反応し、即座にそのコントロールに取り掛かった。1962年、彼らは、すべてのダイヤを販売する契約をソビエトと結んだ。すなわちシベリア産の未研磨宝石ダイヤを全量引き取る権利と義務とを負ったのだった。それは、奇しくもキエフの研究所で、工業用合成ダイヤの製造法が発見された(と発表された)頃であった。そして、この時から西側の業者たちにとって、摩訶不思議なミステリーが始まったのである。当初シンジケートは、ソビエトからのダイヤ供給がそれほどの数量に達するとは考えていなかった。ところが数年のうちにソビエトのダイヤ産出量は1000万カラットに達した。そのうち約200万カラットが宝石用として輸出された。これは実に不思議なことだった。シベリアのパイプ鉱の状況は、西側には断片的にしか伝わってこなかったものの、年々増えつづける宝石ダイヤの数量は、パイプの規模からみて、どう考えても過大だった。それは、シンジケートが南アフリカで経営する優良パイプ鉱と比較して、母岩の単位重量あたり、10倍以上のダイヤが含まれていない限り達成不可能な数字だった。しかも、年中採鉱可能な南アフリカに対し、シベリアでは1年の半分以上が氷点下の凍土に覆われているのだから、条件はもっと厳しくなるはずであった。
シンジケートの研究員は、ミールやザルニツァなど公表されている以外に、複数の未知のパイプがあるのでは、と考えた。これに対しソビエト側は、ミールでは原鉱1トンあたり、4カラットのダイヤが採れる、と説明した。シンジケートが経営するもっとも豊かな原鉱の5倍もの産出量だった。そんなパイプがありえようか? 研究員は、その説明が信じられないと思った。その後、ソビエトの技術雑誌が、ミールのダイヤ含有量はしばしば、トンあたり、0.05カラットにしかならないと報じたので、ますます疑わしいと思った。
1970年代になってもシベリアからの産出は減らなかった。10年間の集中的な採鉱の後で、総産出量はむしろ増加していた。70年に1000万カラットだったそれは、75年には1600万カラットに跳ね上がっていた。これはさらに不思議なことだった。普通パイプは地表近くで広く、深部ほど狭い。従って、パイプ鉱では、採鉱開始から数年以内に産出量が次第に先細りするはずなのである(露天掘りの場合)。
シンジケートは、シベリアダイヤにはいくつか異様な特徴があることにも気がついていた。それらは緑がかった色彩を帯び、鋭く尖った角を持つ傾向があった。しかも大きさと形が異常にそろっていた。普通、どんな鉱山でも採掘されるダイヤの大きさや色、結晶形にはかなりのばらつきがあるものだ。ほかの鉱山からシンジケートへは、さまざまな大きさと形のダイヤ原石がやってきたが、シベリアからのダイヤの大半は、約0.2〜0.3カラットで鋭い角のある八面体をしていた。それはむしろ人造ダイヤの結晶によく似ていた。
また工業用ダイヤに目を転じると、ここでも理解しがたいパターンが存在した。シベリアから宝石用のダイヤが200万カラット採れるのならば、常識的にはその4倍の工業用ダイヤが存在しているはずで、実際それ以上の産出が報告されていた。これはとうていソビエト国内で消費しきれる量ではないから、輸出向けの工業用ダイヤが相当量西側に流れてこなければならない。しかし事実はその逆だった。ソビエトはダイヤの輸入を大幅に増やしていた。ミールのダイヤは気泡を含み、工業用には向かないというのが彼らの言い分だった。それでは、ほとんど融蝕のない美しい宝石用ダイヤはどこから来たものだというのか。75年には1600万カラットと報告されたダイヤの大半は、どこに消えてしまったのか。宝石用を除いて、ツンドラ地帯の肥やしとなったのだろうか。(この点で、ソビエトの工業用ダイヤ探索は失敗し、その代わり無尽蔵の宝石ダイヤを得たといえようか。工業用ダイヤは、輸入と合成に頼ることとなった。)
こうした状況すべてが謎であったが、いずれにしてもシンジケートは、市場価格を維持するため、すべての原石を買い取らざるを得なかった。200万カラット(世界の年間産出量の20〜25%にあたった)に及ぶシベリアダイヤが、市場に勝手に流れ込んだ場合、大混乱が起こるのはほぼ間違いのないことだったから。彼らは、状況を把握するため、シベリアのダイヤ鉱山を見せてくれるよう何度もソビエト政府と交渉した。1976年にようやくその機会が訪れた。ミールヌイ(ミールの鉱山町)のパイプ視察が許可されたのだ。その結果、シンジケートは、パイプの深さが予想よりずっと浅いこと、つまり予想よりはるかに少ない量のダイヤしかこのパイプからは採鉱されていないことに気がついた。また、選別機や送電線の規模、選別方法から推測しても、あれほど大量のダイヤを生産できるはずがないと思われた。ミールはすでに廃鉱同然であり、ほかに大規模なパイプが開発されていると考えるべきなのだろうか。アイハル?ザルニツァ? ソビエト側はミールこそシベリアダイヤの主要なソースだと説明しており、他の鉱山についての情報は乏しかったから、今のところ、これはあくまで仮説というほかなかった。仮に他に巨大な鉱山があったとしたら、数量についての疑問はある程度解消するかもしれない。しかし、シベリアダイヤの異様な均一性と工業用ダイヤの不在には、他の解釈が必要に思われた。
シンジケートが買ったダイヤは未研磨の原石だったが、それ以外にソビエトは、自国産ダイヤの一部を加工用に貯えていた。1960年代の後半くらいから、モスクワやキエフで研磨されたストック分のダイヤがアントワープの宝石鑑定所に現われ始めた。これらは他国産のダイヤと区別され、シルバー・ベア(銀熊)と呼ばれた。一部の例外を除いて、ほとんどが0.2カラットの八面体をしており、まるで同じ原型からカットされたかのように似通っていたからだ。またある面だけに同じような筋が入っていた。ごく小さなダイヤをこれほどまでに揃える技術は、当時の西側になかったので、販売業者たちはすっかり困惑した。そして、ソビエトでは小粒ダイヤを自動研磨する装置を開発したか、あるいは研磨ダイヤから揃っていないものを規格外として大量に廃棄しているのだという説明を考えついた。それ以外の可能性としては、人造ダイヤの線も浮かんだが、もちろんまともに取り上げるわけにいかなかった。技術的な可能性はG.E.社が実証していた。しかし、それは実験室的なものにすぎず、資本主義社会ではコストに見合わなかった。また結晶成長に要する時間的な制約からみて、大量の宝石ダイヤが製造できるとも思えない。
だが、絶対にありえないとも言い切れなかった。1967年頃、キエフの合成研究所所長が、アントワープの名匠を呼んで、約半カラットの合成ダイヤ(やや色が着いていた)をいくつかカットさせたことがあった。研磨後、揉み革で艶出しをすると、天然宝石とまったく区別がつかなかったということである。この話は関係者間だけで秘密にされていたが、天然石と人造石の区別は、専門的な鑑別装置による以外、肉眼では不可能だったのである。
これが、シベリアダイヤのミステリーであり、西側の研磨業者たちにつきまとった不吉な影であった。
冒頭に書いたように、この問題はすでに過去のものと思われている。それどころか、そもそもそんなミステリーが存在したことすらなかったとみなされている。いわば枯れ尾花に見た幽霊であり、情報不足と猜疑心が呼んだ幻にすぎなかったのだと。
確かにミステリーのいくつかには実体がなかった。1970年代の後半には、シベリアダイヤが天然石以外の何者でもないことがわかっていた。注意深い実験によって、人造ダイヤとははっきり異なった特徴が観察されていたのである。そのひとつは、結晶表面に認められる成長層の薄さである。通常天然のダイヤは、長い時間をかけて少しずつ大きくなるため、特殊な顕微鏡でみると、結晶の表面にごく薄い渦巻き状の層が認められる(融蝕の少ない理想的な結晶ならば)。人造ダイヤでも仕組みは同じであるが、短時間にぐんぐん成長するので、一つの層がずっと厚くなる。両者では成長スケールの基本単位がまるっきり違っているのだろう。西側の研究者たちがシベリアダイヤのサンプルをシンジケート経由で入手し、位相差顕微鏡にかけたところ、成長層は薄いものでは5オングストローム以下しかなかった。一方人造ダイヤでは、層の厚さは数百オングストロームもあった。明らかに成長にかけた時間が違っているのだった。もうひとつの特徴として、人造ダイヤでは樹状さんごを思わせる模様が結晶面に普遍的に生じている。この模様は天然ダイヤにはなく、シベリアダイヤでも、もちろん認められなかった。天然のダイヤも人造ダイヤも、炭素を含んだ溶液中で成長することは同じだが、溶媒への炭素の溶解度の違いがこの結果をもたらすらしい。妙に聞こえるかもしれないが、天然のマグマ中の炭素含有量はかなり低く、そのおかげで綺麗な面を持った結晶がゆっくりと成長できるそうだ。
また別の側面からも、シベリアダイヤの合成を否定する傍証がある。現在、ロシアでは無色透明で1カラット以上の人造ダイヤが作られているが、量産技術が未熟なため、月100カラットの生産が精一杯の状態だという。とすれば、今でも出来ないことが、当時可能だったはずはないといえよう。(もっとも、0.2カラットくらいのものなら、もっと手軽に作れるのかもしれないが。)
シベリアの産地の様子も今ではかなり明らかになっている。それによると、南アフリカとは比べ物にならないくらい優秀な鉱体があるらしい。この地のパイプは、(むろんパイプごとにかなり変動があるが)、総体に小粒ながら極めて品質の良いダイヤを含んでいるそうだ。原鉱1トンあたり4カラットの高品位で、しかも原石の50%が研磨可能だという。このくらい優秀なパイプでなければ、厳寒のシベリアでは採算が合わないとも言えるのだが、それにしても素晴らしいスペックだ。シンジケートの研究員は信じなかったが、現実にあったんだからしょうがないやといったところか。(50%という驚くべき歩留まりは、大量の宝石ダイヤの生産を支持している。しかしこの数字を採用すれば、当時宝石用ダイヤが200万トンあったなら、総生産量は400万トンとなる。実際の産出量は、大本営発表の3分の1しかなかったのだろうか。)
結晶が鋭い稜線を持ち、丸みを帯びない点についても、論理的な学説がある。
通常キンバレー岩に含まれるダイヤモンドは、地下130キロから200キロメートル程度の深部で生まれ、高圧・高温下でマグマとともにゆっくりと上昇しながら安定的に成長する。そして地下100キロあたりまで上ってきたところで、マグマの中の揮発成分が異常濃縮し、それが原動力となって、地表付近まで一気に噴出してくる。その速さは時速100キロ以上に達すると見積もられている。それより遅い速度だと、上昇中の低圧・高温環境でダイヤモンドは石墨に変化し、溶けきってしまうからだ。ダイヤの単結晶には、角や稜が融けて丸みを帯びたものが多いが、これは上昇中に侵食されやすい部分から溶けてゆき、しかし溶け尽くす前に、地表近くの低温域に逃げ込んで助かったためと考えられる。ダイヤの溶解は、低温・低圧域ではきわめて緩やかになるからだ。なお、噴出したマグマのパイプは地表付近で断熱膨張し(そのためラッパ状の貫入筒形を示す)、急冷固化してキンバレー岩に変わっている。この説によれば、角の鋭いシベリアダイヤは、上昇途中でほとんど融蝕を受けなかったものであり、新幹線顔負けの凄まじいスピードで地底から駆け上ってきたということになる。
以上がシベリアダイヤについての謎解きだ。こうしてみると、やはり天然の豊かな鉱脈からもたらされたと考えるべきなのだろう。
だが、まだいくつかの疑問は残っている。なぜ、当時のダイヤのほとんどが淡い緑色を帯びていたのか、なぜ形と大きさが揃っていたのか(しかも単結晶の八面体ばかり)。また、なぜ研磨ダイヤの同じ面にひっかきキズがあったのか。当時実際に採掘されていたのはどの鉱山だったのか。
私はその答を知らない。(知っている人もいるだろうが)
ただ結晶の形について言えば、その後、ある研究者がシベリアダイヤを分類し、統計を取ったところ、形状のばらつき具合は、南アフリカ産ダイヤのそれと大差ないものだったという。原石の一部は融触の少ない綺麗な八面体であり、一部は丸みを帯びており、一部は多結晶の集合体であった。その比率は、シベリアでも南アフリカでも、パイプによって著しく異なっていたが、いずれの場合も適度にばらついていたようである。この点で、当時のシベリアダイヤが異様に粒の揃った八面体だったという報告とは相容れないデータとなっている。
淡い緑色については、天然の放射線源が、地底にあるのではないかと思うが、これはあくまで私の推測にすぎない。
それにしても当時の東西冷戦下の緊迫した状況を考えるなら、業者たちがシベリアからのダイヤに底知れない不安を感じたのは無理からぬことだったといえるだろう。社会主義のベールの彼方から、ほとんど無尽蔵になだれ込んでくるダイヤモンド。それも、まるでひとつの工場から大量生産されたかのような規格通りのダイヤモンドが押し寄せてきたのである。筋の通った説明が与えられた今となっても、私には、当時のシベリアダイヤの大行進は、やはり不思議な出来事だったように思われる。
(2001.3.17 SPS)
追記:シベリアで開発された鉱山は、(発音は適当に)、ザルニツァ、ミール、インテルナシオナラヤ、アイハル、ジュビリナヤ、シティカンスカヤ、ウダチナヤ、デルナヤ、ヤクーツカヤ、レニングラドスカヤと10箇所に及ぶが、1995年時点で採掘が行われていたのは、
実質的に、シティカンスカヤ、ウダチナヤ、アイハルの3鉱山のみだった。
ザルニツァは鉱脈が枯渇(98年復活)、インテルナシオナラヤは水没、ミールは貯鉱からの選鉱、ジュビリナヤは資金不足で開発が大幅に遅れた(99年稼動)。他の鉱山でも気温が零下45度C以下に下がると大量のメタンガスが噴出して操業が不可能になるという厳しい環境にある。なお、1999年に入ってブトビンスカヤ、ニュルバの2鉱山が立ち上がったとのこと。(以上、S氏からの情報を元に)