ひすいの話3      −幻の青いひすいのこと


取っておきの話をしよう。幻の青いひすいの話だ。ルイス・コルニツァー氏が自らの半生を振り返った著書のひとつ「宝石をちりばめた道: Jeweled Trail」(1941)という本に載っているエピソードだが、絶版になって久しい。日本では春山行夫氏の著書「宝石2」に紹介されているが、この本も最近は本屋で見かけなくなったので、知らない人が多いと思う(出版社では品切れ状態)。

ルイス・コルニツァーは、第一次世界大戦の前後に活躍した宝石商だった。
もともとダイヤモンドを売り込もうと中国にやって来た彼だったが、なかなか芽が出ないままに日が過ぎていった。だがある時、一人の中国人から「ひすいを扱ってはどうか」と教えられ、ひすい取り引きを手がけたのが幸運の始まりだった。その中国人が言うには、「金回りのいいアメリカ人の観光客たちが、毎週船で香港にやってくる。彼らは、お土産に小さなひすいの飾り物を買って帰る。中国人の店主たちは、法外な値段をつけて暴利をむさぼっている。西洋人が店を開いたら、観光客はその店に殺到するに決まっている。」というのだった。
事実、店を開くや、あっというまに観光客が押し寄せてきた。商売は順調に拡大していった。やがて戦争が終わると、ひすいブームが起こり、世界の大半をおおった。世界中が東洋の神秘、ひすいに熱狂し、彼の店にはアメリカの宝石商たちから大量の注文が舞い込むようになった。そんなふうにして、彼は25年以上にわたってひすいの売買に携わり、ありとあらゆる品質、色あいのひすいを目にすることが出来た。
これは、その間に彼が体験した奇談のひとつだ。

 

商用でサイゴン行きのフランス船に乗っているとき、ルイスは一人の船員と知り合った。
その男は、ほかの船員とは全く違っていた。背が高く、やせた体つきで、顔には天然痘のあとが醜く残っていたが、眼は明るく輝き、並々ならぬ知性を窺わせた。瞳の色は灰青色で、ヨーロッパ系の血が混ざっているのではないかと思われた。少なくとも安南人や中国人でないことは確かだった。船乗り仕事にはまったく慣れていない様子で、仲間から笑い者にされていたが、どんなにからかわれても常にもの静かな態度を崩さなかった。まるで彼の心の平静を破ることなど、誰にも出来ないかのようであった。
興味をひかれたルイスが機会をとらえて話しかけてみると、男は英語を理解し、正確に操ってみせた。ただしその発音には奇妙な訛りが伴っていた。
聞けば、両親はそろってイギリス人で、インドの奥地、チベットとの国境の町ラダックに赴任したキリスト教の宣教師だったことがわかった。両親とも、彼がまだ幼い頃に亡くなり、それからはチベットにあるラマ教の寺院で、僧侶たちに育てられたということだった。
「私は僧侶たちと同じ教育を受け、長じて戒を授けられました。英語を教えてくれたのは寺院にいた老僧で、広く世界を旅した方でした。イギリスへは行ったことがありません。発音がおかしいのは、そのためかもしれません。」と彼は語った。

それ以来ルイスは、休んでいる彼を探しに甲板に上がってきては、話を交わすようになり、二人は次第にうちとけていった。やがてわかってきたことだが、その男の見識は非常に高く、当時ヨーロッパではほとんど知られることのなかったラマ教の奥義にも通じていた。そんな人物が、なぜ慣れない仕事に苦労しながら船員を続けているのか、ルイスは不思議でならなかった。けれども、疑問を口にすると、男は黙りがちになり、明らかにその話題には触れてもらいたくないようであった。

ある日のこと、ルイスを驚かせる出来事が起こった。それは彼が長年ひすいを扱ってきたからこそ気がついたことでもあった。いつものように甲板に上がっていくと、男は巻いたマニラロープの上に腰を下ろして、ぼんやりと海を見ていた。ルイスは、男が青い石のついた銀の指輪をはめているのに気がついた。彼は身をかかがめて、指輪を観察した。みずみずしい濃い青色で、サファイアと見まごうばかりの大粒の石だった。だが、それはサファイヤではなく、なんとひすいであった。
ルイスが青いひすいを見るのは、これが初めてのことだった。

ひすいには、緑や白のように良く知られた色のほかに、赤、黄色、茶色、ピンク色など、さまざまな色あいを持つものがある。あるものは珍しく、あるものはそうでもない。だが、青色のひすいだけは別格だった。宝石商の仲間で、普通「青いひすい」と言えば、純粋な青色ではなく、赤みを帯びた淡い紫、一種のヘリオトロープまたはモーヴ色(紫、スミレ、ライラック系統の赤みを帯びた青)の石を指していた。それとても切り出されることはめったになく、「皇帝のひすい」と呼んで非常に珍重されているのである。
だが、今彼が眼にしているのは正真正銘の青いひすいだった。これほどすばらしい色のひすいが存在するとは夢にも思わなかったほどのものだった。ある中国の商人が、「本物の青いひすいというのは伝説的な存在だ」と言っていたことを、ルイスは思い出した。それはまさに伝説が時を超えてこの世に姿を現したものであり、自然の気まぐれが人の心を喜ばせるために、何百年に一度、作り出す奇跡だった。昔の中国の皇帝だったら、領土の半分とでも交換したに違いない、すばらしい逸品だった。しかもその石を持っているのは、教養のあるラマ僧とはいえ、しがない水夫に身をやつした男なのだ。

「なんと」ルイスは思わず叫んでいた。「君はその指輪にどれほどの値打ちがあるか知っているのか。いや、知っているはずがない。いいかね、その石はこの船と船に積んだ荷物をすべてあわせたよりも価値があるのだ。もしその指輪を売ったら、君は一生涯、王族のように暮らす事だってできるだろうに。」

それを聞いても、男は少しも心を動かされた様子がなかった。ルイスは重ねて言った。
「私はひすい商人だ。もし、君にその気持ちがあれば、..............」
「いいえ、」男が静かに遮った。
「この石の値打ちなら、知っています。どんな値段がつくかは問題ではありません。私がこの指輪を売ることはありません。」
だが、ルイスはあきらめなかった。
「それでも、やはり私は、君がこれほどの指輪を持ちながら、奴隷のように汗水流して働いているのは間違ったことだと思う。君はもっと人生を楽しむことができるというのに、その機会を無駄にしているのだ。」
「いいえ、その反対です。」男は、むしろ厳粛な面持ちでルイスを見つめながら答えた。
「あなたにお話ししましょう。私は、いつもこの指輪を持ち歩いていますが、指にはめることはありません。ただ、そうしなければならないときにだけ、取り出して身につけるのです。この指輪は、私が昔犯した罪の証なのです。」
「何の証だって?」ルイスはわけがわからずに訊ねた。
「この指輪は、我が寺院に伝わる財宝で、神聖なるタシ・ラマげい下がその御手にはめられていたものなのです。私はそれを盗んだのです。」

ルイスは息をのんだ。「君がそんなことをするなんて、信じられない。」
「いいえ。あなたも宝石商なら、すばらしい宝石がどれほど人の心を揺さ振り、それを手に入れたいという憧れで満たすものなのか、おわかりでしょう。ときには道ならぬ手段を用いてでも。」
男は、半ば自分自身に言い聞かせるように、静かに言葉を続けた。
「そうです。私は、この指輪を初めて見たときから、いわば恋に落ちました。この石はこの世のものとは思えないほど美しく、その上、どんな病気をも治す奇跡の力を持っていると信じられていました。私はすっかり虜となり、ついにある夜、指輪を盗み出してしまったのです。
私は、その行為の恐ろしさを知っていましたが、指輪を手にした喜びは罪の意識を上回りました。私はうれしさにふるえました。

指輪の紛失はすぐに僧院中に伝わり、大騒ぎになりました。けれども、盗まれたことが明らかだったのに、僧侶たちは、犯人を探そうとしませんでした。その代わり昼も夜も祈祷を捧げ、罪人が改心して名乗り出るよう祈り続けたのです。..................それには耐えられませんでした。」

男は言葉を切り、静かにうつむいた。自分の心の奥底をのぞきこんでいるようだった。
「君は、自分から名乗り出たんだね。」ルイスは同情を覚えながら言った。男はゆっくりと顔を上げた。
「私は追放されませんでした。タシ・ラマげい下は御自ら、私に修行を続け、自分の心のマスターとなるよう申されました。それから、私は、毎年、誘惑に負けた日がくると、すべての僧侶たちの前でこの指輪をはめて、断食することになったのです。
40歳になったとき、最後の試練が与えられ、私は遠い国まで旅に出ることになりました。そして指輪が渡されました。私は、計り知れない喜びの源であるこの指輪、莫大な富を約束するこの指輪を携えながら、日々の糧を得るために働き、困難と貧苦をしのばねばなりません。逃亡の誘惑に耐え、富の誘惑に耐え、心が指輪に惑わされなくなったとき、私は初めて、心安らかに、あの平和なチベットの僧院に戻ることがゆるされるのです。そしてラマ教の兄弟たちは、私と指輪が無事戻ってくることを信じているのです。」

これが、その男の身の上話だった。この日は、何年も前に彼が指輪を盗んだ日だったのだ。

 

航海が終わりに近づき、明日はサイゴンに着くという日の夜、ルイスは男を説得して、一緒に船を降りようといった。「君はチベット人ではなく、イギリス人だ。彼らとは違う民族、違う宗教の生まれなのだ。それにここはチベットではない。自分の立てた誓いに束縛される必要はまったくないのだ。君はまだ両親の故郷を見たことがないと言った。イギリスに行ってみたくないかね。その指輪を処分すれば、君は指輪から自由になり、故郷に帰って新しい生活を送ることが出来る。新しい経験をすることが出来る。すばらしい人生が開けるんだ。」
言いながら、彼はそれはほんとうではないと感じていたが、指輪の魅力は彼を駆り立ててやまなかった。だが、ついに男の心を動かすことは出来なかった。

船を去るとき、ルイスは自分の名刺を渡しながら言った。
「もし気持ちが変わったら、私を訪ねてきてくれ。」
彼は、何年か後に、この名刺が男の道案内になるだろうと思った。
だが、男は名刺を細かく破って、海に捨ててしまった。そして悲しそうにルイスを見た。
「ご覧の通り、私は、まだ、誘惑がこわいのです。誘惑に負けてしまうのではないかと、恐れているのです。私は苦行を続けなければなりません。」

抜け目のない商人らしく、執拗に説得を試みてきたルイスだったが、その返答を聞いて、ふと何かがふっきれたような気がした。
彼は軽く頭を下げると、後を振り向かずに船を下りた。青いひすいをあきらめるのは、難しかった。それでも、あきらめなければならないことが、ようやく彼にもわかったのだ。
あの男は自分を未完成だと感じている。だが、私よりもはるかに「生きることの偉大さ」を知っている、とルイスは思った。
それは金銭や打算に決して動かされることのない、人間の素晴らしい本性、言葉では十分に表現することのできない、魂の深みに存在するなにかだった。それは西洋ではほとんど理解されていない純粋無垢の精神、そして精神的な価値の正しい認識力だった。彼はそうした人物と知り合い、そうした心のあり方に触れられたことを幸せに思った。

だが、やはり心は晴れなかった。
あれほどのひすいにはおそらく二度と出会えないということが、宝石商の彼には痛いほどわかっていたからだ。

<SPS>


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