軟玉の話1 補足3 ホータンの玉採集の記録


1900〜1901年に行われたオーレル・スタインの第一次中央アジア探検の記録、「砂に埋もれたホータンの廃墟」(白水社) オーレル・スタイン著(1904) 第15章 より抜粋

…6マイルほど進んで我々は玉(ジェード)の採掘場に入った。幅が半マイルないし1マイルの平地が、川の左岸と西側の尾根に続く緩やかな砂利との間に広がっており、そこにはかつて川に沈積した荒石の岩床があって、そのなかからこの貴重な石が出土する。玉は遠い昔からホータンの名を全東洋にとどろかした産物である。中国では他のどこの国にもましてこの産物を大切にしてきた。古代ホータンに関して中国歴代王朝の年代記が記してきた情報は、多くその産物玉についての関心に主として基づくものである。

…最初1,2マイルは大きな穴が砂に埋まっているところもあって、かなり以前に見捨てられた採掘坑のように思われた。しかし斜面を登って行くと、古い場所から遠くないところで、チャルマカザンという名の比較的最近の発掘坑に出た。おびただしい量の陶片と、それに混じってあちこちにガラスの破片や鉱滓が、川岸から尾根の麓まで約1マイル半の平地に散らばっている。この地域の中央に、川床から持ってきた大きな石に覆われた小丘があって私の注意を引いた。円形なので仏塔(ストゥーパ)と思われたが、近づいて調べるとまさにその通りだった。…これらの遺跡によって存在が証明される古い部落がすぐ近くの玉採掘と関係があったことは、まず疑う余地がない。遺跡の南端では現に玉採掘が行われているのだ。

我々は1マイル半にわたって、これら採掘坑の間を縫うように進んでシリク・トグラという坑夫たちの狭いキャンプ場にたどりつき、ここでテントを張った。採掘坑はそれぞれ大きさも形もかなり違っている。普通は正方形ないし長方形の切り込みが砂利と川砂の層に入れられる。10フィート以上の深さに掘り下げると荒石の層に達する。そのなかで、かつて川が沈積した玉を捜すのである。高価な玉の発見はきわめて稀だが、つねに一攫千金のチャンスがあり、ホータンその他のトルキスタンの町の「バイ」すなわち小資本家たちを絶えず惹きつけている。彼らは極貧の農民階層出身の屈強な人夫たちを10人ないし30人まとめて雇い、それぞれの規模の発掘に従事させる。人夫は食事と衣類のほか、月に6ホータン・タンガ(約2ルピー)を支給される。彼らは発掘された玉の現物支給はないが、とくに利益をあげたときには特別手当をもらえる。ワン・ダロイの証言によれば、これら採掘事業につぎ込んだ金額に見合うだけの利益をあげた商人は少ないという。しかし、ときには大当たりが出る。あるカシュガルの「バイ」は採掘場のひとつで20人の人夫の監督をしていたが、この3年間に、約30ヤンブの投資で銀貨100ヤンブ(約1万3千ルピー)分の玉を得たことを認めた。

玉採掘に関しては中国政府はなんら管理を行っていないが、いったん試掘した場所の「権利」は他の探鉱者たちからあくまでも尊重される。何年もの間採掘が中断したままの場所もあったが、最初に掘った業者の権利が侵されるようなことは決してない。採掘場はどこも、地表から20フィート以上深く掘り下げられたところはなかった。それ以上掘れば川の水が滲み出して作業ができなくなるのであろう。川岸に沿って一日谷を上がり狭い峡谷となる地点まで平らな鉱床が続き、玉採掘者が出入りする。しかし作業は通称「クマット」と呼ばれる地点で断続的に、しかも小人数で進められているにすぎない。現在は冬で、およそ200人の人夫が採掘に雇われているだけだが、この不毛地帯で生活の不自由さが比較的少なくなる夏場でも人数が倍増することはまず考えられない。

この玉採掘法とはまったく異なるものだが、古代の産業で夏の洪水のあと川床のなかから玉を「捜す」方法が、古い中国年代記に書かれているのとそっくりに、いまでもジャマダより川上の谷に沿った地域では広く行われている。この種の採取は元手がいらず、したがって毎年短期間、ホータン・オアシスの貧しい農民たちが大勢やって来て、まるで宝くじを当てるように捜しまわるのである。玉が見つかって骨折りが報いられることはまずないのだが、荒石の間に高価な玉の破片を見つけ出すことが出来るかもしれないという期待は、ホータンの貧しい人々の間ではいまでも強く、それは何百年も前から変わっていないのだ。…


このページ終わり  [ホームへ]