軟玉の話2  玉の意匠とシンボリズム


このページでは、玉に彫られたデザインの象徴的意味について記してみます。

中国では、数千年に亙って、軟玉を使った装身具や礼器、日用品などが作られてきました。玉に対する愛着と信仰は、その歴史的過程で重層的に育まれてきた、というのが私の見方なのですが、なかでも護符としての用法は、非常に古い時代に始まり、世の移ろいとともに大きくスタイルを変えながら現代まで存続している、いわば「玉信仰の縦糸」であるといえましょう。
災難や病を避けるため、あるいは幸せを呼び寄せるために、人間は有史以来さまざまな巫術的活動を行ってきました。私たちは類稀なる認識力と洞察力とによって森羅万象から隠れた意味を汲み出し、目的に応じて(都合よく)解釈し、自分達の幸福と安寧に役立てようと図ってきたのです。護符はそうした精神的努力の物質レベルにおける表現形式であり、さまざまな動植物(の一部分)や無機物、あるいはそれらを象った事物を身につけることで、そのモノの優れた能力(と象徴的性質)を味方とし、願望の実現を祈念するものだといえます(巫術における儀式の多くは、過去に願望が達成された時の行為や意識状態の再現であると考えられます)。
最初の護符はおそらく、動物の牙や薬効のある植物、芳香を放つ樹脂や木、きらきらと光る石ころ、珍しい貝殻といった自然界に存在する単純なマテリアルだったでしょう。しかしすぐに人間はオリジナルでなくても、−絵画や彫刻、文字、音声(呪文・特に名前)等の代替物や代替観念によっても−、同様の効果が得られることを「知り」ました。さらに護符の効果にも抽象的要素が入り込み、具体的なモノとは殆ど関係ない(例えば、名前の発音や形がある効果を連想させるなどの)効能が賦与されたり、当初とは異なった効果が何重にも派生してゆき、護符はいっそう観念的かつ巫術的な様相を帯びてゆきました。その意味では、マテリアルへの愛に加え、世界を抽象化(非実体化=記号化)して操作する人間特有の能力こそが、巫術と護符の開花をもたらしたといえるでしょう。

そんな中で、彫刻によって呪力を刻印された優美な玉はさまざまな生活場面で愛用され、玉の信仰をより豊かに、より神秘的なものにしてゆきました。

漢代 含蝉

例えば、今から約2000年前の漢代、玉には不老不死の効能があると信じられていました。王たちの埋葬にあたって、人々は玉板で衣を作り亡骸を覆いました。玉の霊力により、肉体をいつまでも瑞々しく保たせるためです。一方、同じように亡骸の口には蝉(セミ)を象った玉を含ませ(「心」と呼びます)、手には豚の姿に磨いた玉を握らせました。セミは羽化する生き物であり、死後の世界へ旅立つ魂の健康を、あるいは再び肉体に還り来る魂の転生を祈ったものといいます。豚は財産の象徴であり、あの世での生活が現世同様豊かなものであることを祈ります。
この例から、当時すでに玉自体が一種の(不老不死の)護符であったこと、またセミや豚を象ることによって、その象徴的意味を玉に寵めていたことが分かります。
ちなみに玉に霊力や徳が具わるとする信仰は、春秋戦国期(BC3〜6世紀)あたりから表面化していますが、もとを質せば、玉を祭祀器として使用したことから派生した観念だろうと私はみています(詳しくは「軟玉の話3」以降で)。

ところで護符の成立には次のような巫術的論理が前提となっています。<接触・感染・類似>

1)ある事物を身につけると、その性質(の一部)が所持者に移る(感染する)。
例えば、虎の毛皮を被ると虎のように猛々しい狩人の性質がそなわる。獲物を仕留める場面を描いた絵を持っていると、同じような出来事に逢う。これは相互交感的なものであり、反対に人間や出来事の性質が事物に写されることもある。例えば、過去に「成功」した経験のある品物は、その時の達成状態を内包しているので、持っていると同様の幸運に恵まれやすい(より強力な護符となる)。祖先の所持品には、かれら(英雄・神々)の能力がインプリントされている。人間の病気や災難をモノ(石や人形)に移して処分することができる。

2)ある事物と似た形のもの、あるいはそれを象ったものは、もとの事物同様の性質を発現しうる。従ってオリジナルとコピーは巫術的機能において等価である。
例えば、虎の彫刻は虎そのものであり、アイドル歌手の写真はそのアイドルと等価である。名前はその存在を代表する。牛の姿に見える自然石は巫術的に牛の性質を持つ。

3)ある事物の一部分は、ホログラムのように事物全体の性質を包含している。従って、一部分を象ったコピーもまた同様の巫術的性質を有する。
例えば、虎の牙は虎そのものの性質を帯び、牙状に磨いた石器も同様である。体の一部分はその人物と等価であり、髪を捧げることはその人自身を捧げるのと同じ効果がある。
(その昔、殷の湯王は、旱魃が5年間続いた時に雨乞いを行い、自らを人身御供として大雨を降らせることに成功しました。そのやり方は「髪を切り、爪を断って、身を以って犠牲となった」というものでした。また呉の名匠と謳われた干将が鍛えた2振りの名剣「干将と莫邪(かんしょう、ばくや)」は、妻・莫邪の髪と爪を炉に捧げることによって生み出されました。)

これらはある程度、私たちにとっても馴染みのある概念だと思います。実際私たちは、「モノ」をそのように意識していないでしょうか?

次に護符の効果を演繹している巫術的論理を考えてみましょう。中国の巫術の広がりは実に豊かで、かつ錯綜しています。しかし、その基本はなんらかの意味で「類似」にあるといえます。例えば、樹木に果物が実るのは、母親が子供を産むことに似ています(という風に解釈するのです)。たわわな果実は子沢山の象徴であり、そうした果物を彫った玉を身につけていると沢山の子宝を授かることになるでしょう(中国では子供に恵まれることは最大の幸せだと思われています)。

元代 墨玉に彫られた架空の瑞獣

瓢箪は子沢山の母体の象徴とされ、柘榴は大勢の子供を孕むことを象徴します。一個の柘榴を描いた絵は、百人の子孫を残すことを意味します。玉に彫った柘榴も然りです。こうした類似は、実体のあるものとの比較だけでなく、内包する意味や派生した意味との間でも成立します。例えば、発酵した饅頭は興隆を表し、植物の胡麻の節々に咲く花は節々(つぎつぎ)と昇進することを象徴しているのです。また龍や鬼など架空の存在も、類似の対象となりえます。鬼の頭やお面、神像、瑞獣の護符を作ると、彼らの力がそこに宿るわけですし、神仙や魂霊の住む場所(桃源郷や竜宮城など)なども実体のある物と同じように扱われます。

宋〜元代 玉魚 (故宮)
魚形の玉に蓮花(右部)を加え、
「連年有余」を祈念する

さらに抽象的な論理として、事物の名前の類似音によって、その効果を類推することが行われます。魚(音YU)は富余(余裕)の余(音YU)につながっており、正月に一匹の魚を描いた絵を飾ると、裕福な一年が約束されるといわれます。魚に蓮の花が加わると、「蓮(連)年有余(魚)」となり、毎年豊かでお金も余裕がある、という意味になります。
瓶は平安の平(瓶と同音)と関連づけられ、なん本かの瓶を並べると、平安無事な生活を送ることが出来るとされています。
栗子(くりのみ)は立子(子をつくる)と関りがあり、結婚のとき棗(なつめ・早と同音)と栗を撒くと早く子供ができるとされます。海棗形の玉は若い女性に人気のアイテムでした。花生(落花生)を食べると、男児と女児の両方が交互に産まれると信じられます。蓮子(はすのみ)は、連続生子(続けざまに子を産む)の象徴となっています。
戟と磬は吉慶(戟磬と同音)に、蜂と猴は封侯(蜂猴と同音)に関連づけられます。
蝠(こうもり)は福と同音の言葉であり、5匹の蝙蝠を刺繍すると五福(長寿、富、健康、徳、自然死)が訪れます。最後の自然死というのは、中国では横死した魂は迷って成仏できないと考えられていることの反映です。蝙蝠は西洋では悪魔の使いですが、中国では大切なお守りなのですね。「爾雅」に蝙蝠は百歳の寿を保つとあり、長寿の生き物とされました。(補記1)
ちなみにひとつの事物は、たいてい、いく通りもの意味を含んでいるものです。例えば上に挙げた魚は忍耐、栄達、再生を象徴することがあります。ここには、魚が遊泳して上流に遡る姿からの類推や、遡上して龍になるという伝説や、あるいは海・水・月・回遊魚といった豊穣と再生を告げる一連の文脈が透けて見えます。
また魚は女性のシンボルであり(この場合、男性は鳥)、鳥のくちばしに魚が飛びついているデザインは、仲睦まじい男女の隠喩とされています。一匹の魚の護符を身につけていて、可愛い彼女が出来たら、効果バッチリといったところ。

清代 周辺は葵の形、
中は蓮花紋の白玉

蓮の花は芙蓉とも呼ばれ、仏教との関わりから美と清純さの象徴でもあり、特に若く清らかな花嫁を表すことがあります。解釈の切り口は時に応じて変わり、まったく違った意味を持つ事もありますが、そこに矛盾はありません。大きく言えば、この世界の事物に単独で存在するものはなく、すべてのものが無数のやり方でつながってひとつになっているといえるでしょうか。

やや脱線しますが、言語による抽象化(いわば言霊信仰)は、きわめて記号操作的であり、事物の関係自体は同じでなくとも、言葉で表現したときの音声が同じであれば両者を関連づけることができるとみなされます。しかも、その言葉を口にすると、その音声に対応する結果を呼ぶと信じられました。
そのため、中国には好んで吉祥語(縁起のいい言葉)を口に出させようとする風習が伝わっています。例えば、結婚初夜、式をすませた新婚夫婦は部屋に戻って子孫餃子(ごく小さく作った水餃子)を食べる習慣がありますが、この餃子はとくに半煮えに作られます。新婦に「生」(生む)と言わせるためです。

清代中期 福字白玉
(実体のない)言葉そのものが
巫術的効力を持つ

正月には、福という字を書いた紙を逆さに貼りますが、その目的は、これを見た人に「福倒(到)了」<福がさかさま(倒)だ=福がやってくる(到)>といわせるためです。長寿の祝いをする誕生日に食べる祝いの麺は切ってはいけません。「長く」と言ってほしいからです。猟に出かけるとき、棒切れを行く手の方向に順って(そって)おきます。人はそれを見て、「順」(順調)と言うでしょう。
これらは言葉の力を通じて願望を達成しようとする企てであり、言語と巫術との間に密接な関係があることを示しています。言葉にした概念はその物自体に等しく、そのため、言葉は希望するものすべてを招き呼ぶことができると考えられているのです。

世界に対するこうしたアプローチは、原始的な信仰とみなされがちです。しかし現代の私たちもまた、同じ発想のもとに日常生活を送り、巫術的な慣習を護持していると思うのは私ひとりではないでしょう。巫術の根源的な論理を意識することはなくても、その形骸(例えば、交通安全のお守り、家を建てるときの儀式、子供の成長に合わせたお宮参り、節季毎のお祭り、恋占い、縁起を担いだ料理、雅語、勝負事のジンクス…)は今もって生きており、仮にその由来が忘れられ、目的が変わってしまったとしても、護符を生み出す精神の深き海そのものは、永遠に干上がりはしないのです。

では、調子に乗って中国の護符曼荼羅をいくつかご紹介してゆきましょう。

まず、幻の動物である龍と鳳凰から。古代中国には、蛇を敬う部族と鳥を象徴とする部族とがありました。それぞれ蛇と鳥の頭上に華冠を配し、龍、鳳と名づけて部族のトーテムとして崇めていました。すなわち龍族と鳳族で、この二大族が中国の中心勢力だったようです。中国西部の陝西省一帯を本拠とした黄帝、炎帝、ぎょう帝らは龍族、北京、山東省などの北部に勢力を張った少こう、舜帝らは鳳族でした。両者は黄河中流の中原で出会って部族を統合し、古代中国の支配者となりました。龍はもともと天を、鳳は太陽を意味しましたが、以来、天子である王と王妃の地位を表す文様ともなったのです。龍と鳳は若い男女の永遠の愛を示す吉祥として、現代でも結婚式のテーブルを飾っていますし、鳳凰を彫った玉は美しい装飾物として、年頃の娘たちに与えられます。一方、龍は、「冬は深淵に潜み、春分の日に天に昇り、雲を起こし、雷光を走らせ、雨を降らす」(説文解字)のであり、天の力、豊穣の力をもたらす吉祥獣として玉に彫られています。

後漢代 玉へき邪

へき邪(辟邪)というやはり架空の動物がいます。その姿は中国最強の動物である虎に翼が生えたものであり、頭頂に一本の角を持っています(一角獣)。その名の通り邪(よこしま)なものを退ける力があるとされます(※もとともとは「へき邪の効能のある猛獣を彫ったお守り」をこの名で呼び、後に神話的な動物の名に転化したと考えられます)。漢代には、墓守りの神獣として皇帝たちの墓所の右翼を守りました。
「天禄」は、へき邪によく似た獣で、角が2本あります。「禄」は「鹿」と同音で、縁起のいい動物です。墓所の左翼を守りました。悪獣の猛威を借りて、悪を討つ発想は中国には古くからあり、古代の青銅器に描かれた「とうてつ」もその類でした。ちなみに人を喰らう虎は悪疫厄病退散の護符に用いられ、昼の墓守でもありました。一方、夜の墓守は梟。古代中国では、梟は生みの親を食って巣立つといわれ、猛々しい悪鳥として扱われました。西洋では知恵の番人ですからえらい違いです。

明代 ごう魚花瓶(故宮)
グラファイトを含んで
黒くなった玉。

架空の動物は、玄武、麒麟、ミズチ(角のない龍)を始め無数にあって取捨に困りますが、あとひとつ、「ごう魚(鰲魚)」という動物を紹介しておきましょう。彼は、もともと巨大なスッポン(オサガメ)の類と考えられていました。かつて渤海の東に蓬莱をはじめとする3つ(5つ)の島があり、神仙が住んでいました。それらの島々はばらばらに浮いた根無し島で波間を漂っており、どこに流れてゆくか知れません。そこで聖帝が、15頭の鰲を送って、島を背負わせて動かなくしたという伝説があります。
しかし、玉に彫られるごう魚は、普通、目玉の飛び出した魚(龍)のような姿をしており、カメとは似ても似つきません。科挙の試験に主席で合格することを、「独占鰲頭」を取るといい、ごう魚を彫った玉は試験に受かるお守りでした。このテの玉彫には小さな龍(ミズチ)がくっついているのが特徴です(写真の左部参照)。

中国の巫術は、攻撃や悪意の発露とは無縁であり、幸せと繁栄を祈るのがまっとうな姿です。玉の護符も当然その流れを汲み、豊穣を祝い、喜びを呼び寄せるための存在でした。
吉祥の瑞獣は好んで護符の意匠に用いられました。例えば羊(祥に通じる)、鹿(禄に通じて財運を意味する)、鶴(長寿を表す)、馬(速さや忍耐を表す、天馬は財運をもたらす)、象(賢明さと慎重さの象徴)。兎は幸運のシンボルであり、よく月と一緒に扱われます。おそらく豊穣(生殖)に関連しているのでしょう。獅子(虎)は勇気、武勇、強さとして解釈されることがあり、仏教では法と聖所の守護者でもあります。カササギは「喜鶴」と書き、二羽並んだカササギは「双喜」(シュアンシー)と呼ばれます。ときに喜の字を二つ並べた文字と共に描かれます。(中国では対をなすこと自体が吉祥の徴です。)

植物では、竹。一年中変わらぬすがすがしい緑、真っ直ぐに天に伸びる形、まげても折れぬ強靭さなどが、人の「志節」にたとえられます。中国では「肉がなければ人は痩せ、竹がなければ人は低俗になる」といいます。また「望み」と同じ発音 (Zhu) でもあります。牡丹は富貴の象徴です。花を持つ梅の枝は冬のシンボルで長命を徴します。菊は秋と成熟のシンボルです。桃は結婚と春の象徴で、不死と長命をも意味します。桃花源や西王母の庭にある桃の伝説は中国人なら誰でも知っているでしょう。小さな桃の木の南京錠は、災厄を退けるとして子供達に与えられました。錠前はその本来の役割通り、大切なものを守る巫術的な働きがあり、錠形の玉を子供の首にかけておくと、子供の命が逃げ出さないし、すべての小児病にかからないと信じられました。柳は春の再訪を告げる吉祥木で蘇生をあらわします。女性の美しさの象徴でもあり、また仏教では謙譲の徳と降魔の力を示し、旅の無事を祈るものでもありました(柳の音は別離の悲しみにも通じる)。
仏手柑は、バナナの房のような形の奇妙な柑橘類ですが、中国では最高の幸福の象徴であり、長い命と、生きている間中楽しむことのできる莫大な財産を意味します。仏手柑を取り巻く葉のしげみに蝙蝠がぶらさがった彫刻は、幸福が二重になることをあらわします。

結婚式ではいろいろな形の玉器が使われますが、そのひとつに新婚の夫婦が雄鶏の形をした酒杯からお酒を飲む儀式があります。これは一羽の白いオンドリが、愛するメンドリが売られてゆくとき、別れに絶望して井戸に身を投げたという伝説がもとになっています。身を投げたオンドリと、玉に彫られたオンドリは巫術的に等価であり、杯に満たしたお酒を飲むことによってその心が若い男女に伝わるという論理が存在すると思われます。あるいは、単にかのオンドリのようにありたいという男女の誓いを形に託したと考えるべきかもしれません。一般に鶏形を彫刻した玉は強い愛の証とされています。ちなみに中国南方(雲南、広西あたり)では、鶏神は雷神とともに(あるいは同体として)最古の神様のひとりです。

清代 胡蝶紋牌

蝶を彫った玉には、もうひとつのロマンチックなお話が伝わっています。ある青年が美しい蝶を追いかけて富裕な高官の庭に入り込んでしまいました。彼は本来ならその無礼を咎められるところでしたが、幸運にもその邸の娘に見染められて、彼女と結婚することとなりました。以来、蝶の形の事物は「恋愛の成功」を意味するようになり、婚約した男性は相手の女性に玉蝶を贈る風習ができたといわれます。軽やかに宙を舞う蝶は喜びの象徴であり、とくに一対の蝶は共に暮らす喜びを表しています。また幼虫からサナギになり、脱皮して飛び去ることから、精神が身体を離れるさまを象徴し、不死にも繋がっています。「蝶」の音は「長」と同じで長寿の意を持つ瑞祥であり、末長い縁を結ぶことにも繋がります。「喜」の文字と組み合わせた意匠は結婚式で用いる吉祥紋。
(※中国で四大民話と称される一つに「梁山伯と祝英台」の悲恋物語があります。東晋の時代に男装して杭州に遊学した祝家の娘の英台が、学友として梁山伯に知り合い友情を深めます。その後、英台が実は女性と知った梁山伯は彼女との結婚を望みますが、叶わずに死んでしまいます。その後、英台は別の人と結婚することになりますが、花嫁の輿が彼の墓前を通った時、一天俄かに掻き曇って嵐が起こり、墓の口が開きます。祝英台が入ってゆくと墓は閉じました。やがて空が晴れると、墓の周りの花の間を一対の蝶が舞い踊るのでした。
なお胡蝶紋の玉花飾は唐代頃から見られます。)

2人の人物を彫った玉は「親しき2人兄弟」(聖なる二人の兄弟愛)と呼ばれ、親友(老朋友)間の贈り物として用いられます。牛の背に乗った男児が手に四竹(カスタネットのようなもの)を持った意匠の玉は、嗣子の生誕を意味するとして新婚の夫婦に贈られます。針枕によく使われる唐子(からこ)は一族の繁栄を願う吉祥文です。猿と桃を彫った玉は二匹の猿が桃を盗む故事に因みます(私は内容を知りません)。猿は長命を象徴し、また変化力を表すことがあります。不老長寿を祈る護符としては、蓬莱山と仙人をモチーフにしたものも数多く作られました。
中国の文人の理想は、人里離れた仙境に住まい、世事に煩わされず、酒呑んで、歌うたって、書をひも解いて、絵を鑑賞して…という生活だそうですが、そうした憧れから山水画を書斎におき、あたかも自分が絵の中の風景に入り込んだかのようにイメージして楽しむのだといいます。玉で彫った仙境や山水も、同じように精神をアルフヘイムへ飛ばすための道具だったのでしょう。

玉は高価なものですから、すべての人が愛用していたわけではありません。また、中国全土に玉信仰が存在したわけでもありません。簡単にいえば、黄河中流域や東北部、翡翠が採れるようになってからは南部沿岸地方を含めた辺りが玉文化の中心であり、その周辺地方の裕福な人たちの間で玉がもてはやされたようです。彼らは、緑色の玉を身につけていると、高い徳を授かったり、神秘的な力が体に吸収されると信じていました(古い時代には白い玉の方が好まれたと私は思いますが)。またいつでも掌中に握っていられるように小粒なものが好まれました。手にしていると気持ちが落ち着き、楽しくなるのです。すでに書きましたが、玉自体に護符の性質があったわけですね。政治家たちの間では、玉でつくった笏は「自分の思い通りになる石」と呼ばれました(清代は玉如意が答礼品として大流行しました。乾隆年間には祝典のたび如意が大量に求められて、都の玉飾価格が数倍に跳ね上がったといいます)。金曜日に玉製品を身につけていると幸運に恵まれるという俗信もありましたが、これはわりと新しい風習ではないかと思います。

清代 翠玉白菜 (故宮)

もっとも優れた玉の芸術品といわれる、「翠玉白菜」について記しておきましょう。この玉は半分が緑、半分が白の翡翠で、その取り合わせをうまく利用して、白菜の形に彫られています。白菜は清廉の象徴です。葉のあおい部分には螽斯(しゅうし:キリギリスまたはイナゴ)が数匹とまっています。螽斯は繁殖力が旺盛なことから子孫の繁栄の象徴です。この玉は清朝末期に光緒帝に嫁いだ瑾妃が持参したものといわれ、青葉の色である青白は清白−花嫁の純潔−に通じ、また光緒帝はこの玉を「清々白々」(高潔な人格というほどの意味、清廷の清は野菜を意味する青と同音)と呼んで手元におき、愛しんだそうです。
ついでながら、現代の華人は、葉にとまった螽斯を見て、こういいます。「清(青い葉)は、螽斯に食われて滅びた」
めでたい玉の護符も、解釈する人によってその意味が変わってしまうものですね。事物は見る人の器量を映すといいましょうか、何人も自らの能力を超えては道具を扱えないものです。
この他、雲紋(雷紋)、なすび、椿、瓜、リス、猫、蛙など、巫術信仰を担うさまざまな吉祥の事物がありますが、つたない知識の受け売りはこのくらいにして、そろそろお開きといたしましょう。

あと、2、3、書かずもがなのことですが、触れておきます。
ひとつは、護符としての効果を昔の人たちがどれほど真剣に受け止めていたのかということですが、私としては、現代人がお守りに対して抱く気持ちと大差なかったろうと思います。信じる度合いは人それぞれながら、多くの人にとって玉は、お正月のおせち料理と同じレベルにあり、なんとなく縁起が良さそうだから身につけるといった程度のものだったでしょう。単に美しいという理由で身につけ、護符として意識しなかった人たちも大勢いたはずです。しかし、「なんとなくよさそう」とか、「美しくて心惹かれる」とか、「身につけると気分がよくなる」というのは、ある意味で素敵な効用だと思いますし、別段信じているわけでもない吉祥文様の由来を聞いて、自分の持ち物に改めて愛着を覚えるのも、それはそれでいいものだと思います。
太古の巫術者が玉の護符に対して崇高な宗教意識を覚えたことは疑いありませんが、霊感が舞い降りる時の高揚を知り、護符と願望との間に架かった神秘的なつながりを喜びとともに認識することが出来たのは、ごく一部の人たちに限られたでしょう。それもまた、それでいいのだと思います。

もうひとつ、護符の効果の保証なのですが、これもたいていの人は、その根拠を明確に意識しないまま、ただ効能を「言い伝え」られて、受け入れていただけだと思います。スイッチを押したらテレビに映像が現れるようなもので、因果関係はどうでもいいのです。あるいは、玉の効果はゲームの「ルール」であり、ルールに証明は必要ないともいえましょう。
裏返せば、護符のシンボリズムは、深い巫術的認識を伴わずとも、記号操作的にいつでも新しく生み出すことが可能であり、また効果をすり替えたり新しい解釈を加えたりすることも自由だということになります。
実際、商業的意図によって、「当たる」、「売れる」ことを目論んで製品化された玉の護符が無数にあったことでしょう。アメリカの宝石業者たちが作り上げた誕生石伝説や、デビアス社のダイヤモンド神話、日本におけるバレンタイン商戦のような悪魔的天才による発明が、玉の場合にも間違いなく存在したのであり、それならなおさら、その効能が巫術的認識と遠く隔たっても仕方ないというものです。

しかし、こう言ったからといって、私は玉の信仰に水を差すのではありません。ただ、こうした虚飾や凡庸を承知の上で、あるいは巫術信仰の形骸化、商業化を認めてなお、玉に神秘を感じることが出来るか、護符として扱われた本来の働きに心を向けることが出来るかを自分自身に問うてみたいと思っているのです。
玉の意匠に込められた、あるいは工芸師がそれと知らずに刻みこんだ原初のシンボリズム、すなわち世界をひとつに結び付けているなにものかの痕跡を辿り、その広大でわけのわからない世界に遊んでみたいと、皆さんは思われないでしょうか。(了)

2002.7.24 SPS

次のページに玉の画像をいくつか載せておきます。あわせてご覧下されば幸いです。画像のコメントに(故宮)とあるものは、北京または台北の故宮博物院の所蔵品です。

補記1:名前や音に呪力が籠るという考えは、日本にもある言霊信仰と繋がっていると思われます。
「世のほとんどすべての宗教にこの現象がある。読経にも説教にも呪文にも、発声される言葉には意味とは別に音としての働きがある。」(鶴見良行「ナマコの眼」より)
補記2:葡萄と栗鼠の組み合わせ。栗鼠は果物や食べ物を沢山集める習性があり、鼠と並んで仕事の隆盛と繁栄を象徴する。蔓を巻いて茂る葡萄との組合せは多くの男子に恵まれて子孫が続くことを示す。また葡萄を食べる栗鼠は宮廷での栄達の望みをも暗示する。16世紀中頃の中国で流行したが、日本では「武道に律す」に通じると言われた。
カササギ(喜鵲)が梅の木に登る図案は、梅(メイ)が眉(メイ)に通じることから、喜びに眼を開く意味になる。龍首鳳紋(龍と鳳凰鳥がともにある図案)は当然吉祥の象徴。鳳頸霊芝紋は長寿の印。如意(孫の手)の形に、筆(必と同音)と錠(定と同音)の図案は必定如意(なんでもうまくいく)を意味した。体の痒いところ掻くための道具だった如意は霊芝の形をかたどって作られ、清代には吉祥瑞兆を表す道具として貴重視された。霊芝は延年長寿の仙薬、起死回生の妙薬として知られ、福寿の象徴だった。
鴛鴦(おしどり)は夫婦の愛情や睦まじさを示す鳥、大象(祥と同音)は大祥に通じ、蝙蝠(こうもり、蝠は福と同音)と雲紋の組み合わせは洪福斉天(最高の福運)と福満人間(福が世間を満たす)を表した。寿桃と5匹の蝙蝠の組み合わせは五福(福禄寿喜財)捧寿。牡丹は百花の王で、富貴と栄華を示し、月季(コウシンバラ:月月紅−紅は洪と同音)は月々の福運、いつも春のように若々しいことを示した。
吉祥句を刻んだ玉装飾も多い。例えば「福如東海」(福は東海(へ流れる水)の如く、永遠に流れる)や「寿比南山」(寿は南山の松にならい、老いることがない。長寿を祈る意)、「松鶴延年」(長寿を祈る意)など。「福寿」とそのまま刻むこともある。「寿」の字の両側に万字紋を刻むと「玉堂万寿」を表す。

余談だが、日本では大黒様の使者である鼠の意匠に、「鼠に大根」がある。「大根食う」で大黒様を暗示する。また五匹の猿を連ねたお守りがある。ご縁(猿)があるという。

図版へ(少し重いです)(5ページありますよ)


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