ひま話  パソコンのこと (2010.10.9)


僕とパソコンとのつきあいは、ホームページを作ろうと思い立った頃からなので、いつの間にか10年を過ぎている。以前にも書いた気がするが、それまで全然コンピュータを使わなかったわけではない。学生時代はフォートラン77で計算プログラムを組む授業があったし、BASICでプログラムを組まない限り、うんともすんとも応えてくれない実験装置を扱ったこともある。僕はファイルという概念がさっぱり理解できなかった。
仕事ではCAD,CATIA,NASTRAN、Calc などのアプリケーションを避けて通れなかったが、一言でいって嫌いだった。もう一言いうと、その人間離れした処理能力に敬意を表するのはやぶさかでないが、下準備の面倒くささや融通性のなさがやりきれなかった。ほかにも理由はあるが、それはよしとしよう。要は個人的な愉しみでパソコンを使うのは、僕にはちょっと敷居が高かった。タクス的にも身体的にも金銭的にも。

20年ばかり前に好きだった映画に、大島弓子原作の「四月怪談」がある。マイナーな作品だが、当時人気のあった俳優、中嶋朋子と柳葉敏郎が主演していた。中嶋演ずるヒロインの高校生が恋心を抱くクラスメートは趣味でパソコンをやっていた。部屋に籠って、しこしことプラグラムを打ち込んでいたらしい秀才クンが「出来た!」と声を上げてキーを叩くと、CRTの黒い画面に256色カラーのモザイク絵が時間をかけて描き出された。僕の目には原田知世がブラウン管の向こうのそのまた向こうから微笑みかけているように見えた。(※VHS を見直して確認したが、明らかに原田ではない…誰だろう?)

僕の周りでパソコンを趣味にしていた人たちのやっていたことも、まあこれに似た感じのものだった。円周率を計算させたり、グラフや図形を描かせたり、簡単なゲームを走らせたりしていた。たいてい専門誌などに載っているサンプルプログラムを打ち込んでコンパイルするだけのことだったようだが、なにしろバグ取りが必須作業だった。パソコンをやるということは、プログラムやコマンドを自分で打つことが一つの前提であり、自分の入力したプラグラムの進行状況がモニター上に視覚的に表現されてゆくのを眺めるのがえもいわれぬ醍醐味なのだった。
あるいは、もう少し後になると、人びとは微分方程式や行列演算の解析プログラムを作る傍ら、市販のゲームソフト(例えばテトリスとかピンボールとかフライトシミュレータとかシムシティとか)を動かして遊んでいるのだった。僕の印象では、パソコンは次第に高度な(高速な)グラフィック処理を扱うゲーム機として進化に向かっているように思えた。データベースやワープロや表計算機能のような、一歩間違うと仕事道具になってしまう、マジメな用途にも応用の利くアブナいゲーム機であった。

それにしても電源を入れると、意味不明の専門語で構成された記号(実体は英語)がモニター画面に数行現れたきり、こちらが正しい呪文を打ち込まない限り、扉を開ける気配を見せないパソコンは、今思うとなかなかシュールなオモチャだったと思う。それはUNIXとかMS-DOSと呼ばれたオペーレションシステムの、理系の香り高き正統なインターフェイスだったのだが、当時の僕にそんな神通力はなかったので、コンピュータを操作できる人たちが別世界の住人のように見えていた。今でもコマンドラインにパラメータを打ち込んでソフトを走らせる方がグラフィックインターフェイスで操作するよりラクだ、などという若者を見ると、キミは何星人ですか、と訊きたくなる。
パソコンの趣味、あるいは友人らの言い分によると、パソコンの勉強はそれまである種の男子が言語を介さずに行ってきた機械との交流を、言語やシンボライズされた絵図によるコミュニケーション、痴的な対話に置き換えるものであった。
それはバラしたり組み立てたり、調整したり改造したりして機械とふれあい、動作を確認すること自体に喜びを感じるのと同じエクスタシーであった。パソコンはその上で動作する個別のアプリケーションによって何かを実現するという合目的的な装置でありながら、その実、アプリケーションがきちんと動作するようにお膳立てしたり、調整したり、宥め、叱り、怒り、口説き、哀願する行為にむしろ真の喜びがあるような、そんなあきれ果てた箱だった。彼らはそういう性悪な箱に恋をしていた。(補記)

というわけで、僕は闇の分霊箱のために長い時間(パソコンがほんの数分で実行してみせる処理を見物するために、僕自身の数日を費やすような)をとる余裕がなかったので、その中毒性の楽しみから長く目を背けていた。キューハチ以来のパソコンの急速な進化や商業アプリケーションの目を瞠る充実ぶりは目を瞑って見送った。しかし、パソコンのアプリがいわゆるワープロにとって変わることがいよいよ明らかになってきた頃、ついに再びパソコンの画面に向かい、よろしくお願いします、と挨拶することとした。もはや「嫌いだ」では済まない社会環境が、僕を絡め手で招いていたのであった。

かくして歳月は逝き、ほとんどパソコンに隷従している今になってみると、僕が長く抵抗を続け、貴重な時間をほかの有意義なことに振り向けられていたのは実に幸運なこと、現代文化参入以前の牧歌のひとときだったとしみじみ思う。しかし、それはそれとして、長いブランクを経てついに再びコンピュータ世界に向き合った時−OSに「窓が98」が登場した頃−というのは、グラフィカルインターフェースが標準的なスキンとなって、コンピュータはかつて怖気をふるったほどにとっつきの悪いものではなくなっていた。まだフリーズの恐怖が現実的であったものの。
実際、誰もが憑かれたようにパソコンを買い、ワープロ代わりにテキストを打っては手を拍ち、アクセサリのトランプゲームで遊んでいた。フジツーのヘンなオジさんが身をくねらせながら「それだけは聞かんといて」と切なく叫び、高倉健が「簡単じゃないか」と、ンなわけねーだろ!と突っ込みたくなるようなセリフを口にしていた頃。

あー、実に実に遠い昔のことのような気がする、わずか10余年前。

補記:最近、「虫の春秋」(奥本大三郎著)を読んでいて、マークシート式の全国テスト(共通一次試験)をコメントした、こんな一節に逢った。
「解答用紙をコンピュータにかければ、たちどころに結果が白い紙に記されて、機械の腹から出てくる。全国からの数字が、あっという間に中央で集計される。だたその快感のために、人間が機械に合わせて、一億一心、あらゆる不便を忍んでいる。話が逆である。
どこかの大きな暗い祭壇に、コンピュータ様という邪神が祭られていて、大勢の人間がそれに拝跪しているところを想像する。」
1986年(以前)の文章だけれども、私には実感としてよく分かる。パーソナルユースのワードプロセッサーが出始めた頃だが、(より高価な)パソコンの世界では「一太郎」が出ていた。しかし大型コンピュータはまだパンチカードに開けられた穴によってプログラムを解釈し、演算していた時代である。(2016.1.21)

補記2:「なにしろウチのは事務用品のフリして、実態はスーファミというお手軽の98なのに…」(1994年/ 坂田靖子「ダンジョン狂想曲」より)


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