私が幼少だった頃、周り(の社会)ではマンガは子供向けの娯楽と認識されていたように思います。大人も一緒に楽しんでいたに違いないとしても、建前としては子供のためであって、大の大人が本気で没入すべきものではないという雰囲気がありました。大人になってマンガ本を買って読んでるなんてのは恥ずかしいことで、そもそも精神的に成熟した大人が文芸/娯楽作品(書物や映画や)を鑑賞して覚えるような手応えは、マンガにはあまり期待されていなかったと思います。
マンガに限らず、大人の世界と子供の世界との間には厳然とした線引きがあり、両者の間は思春期を挟んで隔絶していました。自分が子供だったからそう思っただけかもしれませんが、子供時代を彩ったさまざまな事物や出来事からのフェアウェルが大人の階段を登ることであり、通過儀礼であるように見えていたのです。
つまり、自分は今子供だからマンガを読んでいるけれども、大人になれば読まなくなるのだろう、と思っていました。
ところがどういうわけか、私が思春期を迎える頃にはその年齢の少年/少女が熱中出来るような学園マンガやラブコメが世の中にちゃんとありましたし、社会現象として認知されるアニメ番組・映画がありました。青年期を迎える頃には社会人若年層向けのテイストのマンガもまた世の中にあふれておりました。
気がつけばマンガは小児でなく比較的高学齢の少年少女が主要な購買対象とみなされており、さらに(ある比率の)成人層もまた、マンガ消費者として経済を支える商業活動の一環にがっちりと組み込まれていたのがその頃の日本だったのであります。ということを私は長じて認識したのです。びっくりしたねー。
結局のところ、私は社会人になってもマンガを卒業することなく齢を重ねに重ねて参りました。そして、まあ、年をとっても熱中出来るマンガ作品だって探せばないわけではない、と思っています。
おそらく世の中には私のようにマンガ離れしなかった成人が少なからず存在しており、自分は果たして(精神的に)大人になったのだろうか、なりきれなかったのだろうかと自問しているのじゃないでしょうか。
一方、社会的に見れば、大人がマンガを読むのは恥ずかしいといった規律感覚は、今日のボーダーレス社会では必ずしも積極的に主張されることはありません(なにしろ日本のアニメは世界に誇る文化だなんて言ってるのですから)。ありませんが、やはり一線を画すべき場所ではしっかりと画されていて、そういうところでは建前として
NOであり、日常生活においても実際は TPOを弁えることを要求されるサブ・カルチャーとして許容されているのではないかと思います。
言い換えれば、マンガが精神生活の上位を占めるようでは、そのお人のオツムは如何なものか、というのが多分保守的なバランス感覚なのだろう、と思います。(一般の文芸作品も同じことで、虚構と現実、日常と非日常はしっかり区別をつけて下さいね、ということですが。)
実際、マンガのヒーローのノリと判断基準で処世をしたら、本人はよくても周りが激しく迷惑するということが必ず起こるでしょうから、これは正しいモノの観方と言わねばなりません。
とはいえ、たとえマンガにはハナも引っかけないとしても、「姿は大人で中身は子供」というコナン君の逆を行く人が大半を占めるのが世の慣いということも真実ではないでしょうか。周囲の人々は内心、「大人になれよー」と悲鳴を上げつつ、顔に出さないで堪えているのが日々の暮らしでありましょう。そしてそういうオトナな人々もある面ではやっぱり大人でないところを抱えて怪獣になる時があるものです。互いに迷惑をかけあいつつ、インナー・チャイルドをレスペクトして生きるのが平和な日本の現代生活であるのかもしれません。
そのかみ、「子供騙し」のマンガに胸を熱くしたじゃりン子たちは、年長けるとリアルな体験を求めて奔波訪道し、やがては夢見る頃を過ぎて、実社会に適応して身の置き処を見出すのが筋道だったはずなのですが、私の世代はバーチャルな世界とリアルな世界との区別がうまくつかない、現実世界だけに軸足を置いて生きてゆくことを善しとしない、あるいはそうすることが困難な気質の、いつまでも夢を呼吸して軽佻浮薄の人生を歩む者を(初めて大量に)輩出した世代なのかもしれない気がします。
あるいはそういう人種は昔から一定少数存在してきたのかもしれませんが、私としては社会的な文化環境の変化が、本来一過性であったはずの文化風習を繰り返し消費可能なものにしたことによって、我々は過去の虚構体験をひたすら肯定して手放さないようになったのかもしれないと思います。
私が子供時代に見たマンガやテレビ番組、聞いた音楽などに、文字通り時空を越えてアクセス可能なのが今の情報化社会なのであります。
そして「電脳コイル」のセリフをもじっていえば、マンガは仮想体験であっても、それを通じて感じた感情や感動、痛みは本物である、という元型的仮説が、我々に幼稚な体験を捨てさせない動機であるのかもしれません。もっとも人間には本来そういう性質(つねに未知の体験を求める一方で、すでに得た体験を極力保持しておこうとする性質)が具わっているとも言えるでしょう。キリストの生誕劇や受難劇を始め、過去の印象的な出来事が祭りの中で繰り返し再演されて、人々の情動を揺り動かし、活力を呼び覚まし、循環する時間と場の共有が社会的な宗教的恍惚の気分を現出させるように。
とはいえ、それをマンガに求め続けるところがやっぱり三つ子の魂三文安いというか、幼形成熟なのかもしれません。ということで、ここは締めときましょうか。
補記:「幼形成熟」の概念は、オタクという言葉がメディアで流行った頃、自らもってオタクを任ずる諸氏が自己のナイーヴなプライドの拠り所として標榜した屁理屈で、もとは身体器官に係る生物学的特徴を言ったのを、精神的な側面にも解釈を拡げて用いました。そもそも日本人は欧米人から比べると幼形的な精神を多分に留めた民族と思われ、土着の文化は伝統的に芸とか道とか偏執、遊びの要素が色濃く滲み出ます。ともすればうつつを抜かす稚戯に醍醐味が感得されるのです。遊びをせんとや生まれけむ。
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