ひま話 (2004.11.7)


今日はかなりひまひまなので、このところ見たり思ったりしたことを雑記いたします。

★チェス
いきなりですが、私は将棋が好きです。3度のメシより好きではないとしても−食いしんぼなので−1週間毎日朝から晩まで指し続けても、イヤにならないでしょう。

そんな私が機会があってチェスを指しています。駒の動かし方は知っていたので、揉んでもらうつもりでやっているのですが、やはり将棋と違うところがいくつもあって実に面食らいます。

例えば、将棋の歩兵は前に一歩ずつ前進することが出来、同一タテ線上で敵の駒が手前にあれば、それを捕獲して(味方に加えて)前進を続けることが出来ます。ところがチェスの歩兵(ポーン)は、眼の前の敵駒を取ることが出来ず、ために駒がぶつかったところで戦線が膠着してしまうのです。
またチェスの歩兵は斜め前の敵駒を取ることが出来るのですが、このとき真っ直ぐ前のマスが空いていれば、敵駒を取らずに前進してかわすという選択肢が生じます。これだけのことが戦法をまったく変えてしまいます。
正々堂々正面から一騎駆けにぶつかり合って剣を交わすのかと思いきや、そのまま双方手を出さずににらめっこしている西洋兵。かと思うと斜め前に来た兵は倒してしまう。あるいは戦闘を避ける。どういう理屈よ?

もうひとつびっくりしたのは、スティルメイトというルール。相手の駒をばったばったとなぎ倒して、王様以外の駒をすべて盤上から消し、味方の駒の利きで敵王を縛ってどこにも動けなくした。さあ降参か? と思いきや、相手方にんまり笑ってドロー(引き分け)と言った。
唖然として聞き返すと、どこに動いても王様が敵駒の利き筋に入る状態になったら、引き分けにする決まりなのだそう。
こういう局面ではその以前からこちらが圧倒的に有利な戦況にあり、スティルメイトの段階は将棋でいうと「必至」をかけた状態で、潔く「ありません」と頭を下げて投了するのがスジだと思うのですが、チェスではわざとその状況に持ち込んで引き分けてしまうこともあるらしい。
これまたどういう理屈でせう? 家来衆総討ち死にでも、大将ひとり助かれば和平ですか? 

チェスのナイトが後ろ向きに動けるのも、将棋の桂馬との大きな違い。日本の騎馬侍は前進あるのみ。西洋の騎士は戦況に応じて後退することもある。

日本の将棋は、手数をかけて城を作り、王様を囲い込んで手厚く守る。チェスには本格的な囲いがなく、せいぜい一手かけて入城させる(キャスリング)だけ。これが成立するのは、歩兵の特殊な動きと、また一度盤上から消えた駒は二度と使えない(将棋では持ち駒として使える)ことに拠るのだと思いますが、陣を張らずいきなり戦いを始める所作はあまり風流でない。とはいうものの、日本のプロ将棋も最近はこのテの激しい急戦が主流になってきており、これも時代の流れというか西洋化というものでしょうか。
チェスと将棋の比較を精神論に持ってくるといろいろと笑えます。

ちなみに、今のところチェスに対する私の印象は、詰め将棋に近いなあというものです。戦略性よりパズル性が強い。将棋のプロ棋士(羽生さんとか佐藤さんとか)がチェスの名手というのも、なんとなく頷ける気がしています。

★アラスカ物語
新田次郎さんの「アラスカ物語」(新潮文庫)を読みました。明治時代に日本を飛び出したフランク安田という人が、ふとした縁から沿岸エスキモーたちと暮らすようになり、エスキモーのお嫁さんをもらい、やがて彼らを連れて内陸部に村を作って移住するお話ですが、その時代背景やエスキモーの生活習慣、そして空に踊るオーロラの描写がとても興味深いです。
アラスカ沿岸部はかつてロシアの領土で、毛皮獣や鯨の宝庫だったのが、無制限に近い乱獲によって海獣が激減したため、アメリカ合衆国に捨て値で売却されました。合衆国政府はとりあえず動物資源の保護を始めますが、密猟船が出没して鯨を密猟する、エスキモー部落を襲って毛皮を略奪するといった状態が続きます。食料を海獣の捕獲に頼っていた沿岸部のエスキモーは次第に生活が困難になってゆきます。そんな時代にアラスカに来た安田は、折からのゴールドラッシュに乗って、金鉱発見の共同事業に参画し、富鉱を発見します。そして得た利益を費やして、内陸部にエスキモーたちの新たな生活の場を提供し、彼らを連れて移住するのです。

時代背景については、シベリアもアラスカも、(そしてカナダも)、北方の土地はいずれも毛皮を求めて入植の手が入り、やがて鉱産資源の開発に移っていったのだなあと思いました。ゴールドラッシュの様子は、鉱物好きの方が読んでも面白いのではないかと思います。

エスキモーの生活習慣では、生肉を食べていると野菜を食べなくても壊血病にならないというのに感心しました。でも、血とか脂身とか内臓とかはちょっと抵抗あるかなあ。

あと気象現象として、太陽柱の描写が出てきたのも私には興味深かったです。昨年ひま話で「太陽と鳥」について書きましたが、太陽が東西の巨木に宿る鳥によって運ばれるという信仰は、太陽柱現象(地平から光の柱が伸びて太陽を支えるように見える)が基盤になっているのだと林巳奈夫氏の論説にあります。この現象は主に北方地域で見られる(北海道でもあるらしい?)そうですが、今回、太陽柱とはどういうものかようやく分かり始めた気がすると共に、それなら中国の太陽信仰の源は、揚子江下流でも四川省西方の山岳地帯でもなく、北方のシベリアやカムチャッカあたりにあったのだろうか、との疑問も湧いてきました。エスキモーがシャーマン社会だったり、長い冬の後、最初に上る太陽を歓迎するためのダンスをしたり、願い事をかけたりするのも一脈通じている気がします。この件、もう少し調べてみると面白いかも。

あと、植村直己の本が読みたくなりました。

★トルコ石
今年の春(初夏かな)、とあるショーでイランの業者さんが大量のイラン産トルコ石を持ってきていました。欲しいなあと思ったのですが、たいてい磨き石ばかりで迷い、結局買わずにしまいました。今になって惜しいことをしたと思ってます。原石らしきものもあったのですが、貝殻がトルコ石化したもので、なかなかの珍品だとのことでした。世に燐灰石がトルコ石化したものがあるくらいなので、貝殻がそうなってもおかしくなさそうですが、値段高く、色悪く、やはり踏ん切りがつきませんでした。
このとき、今でもイランでトルコ石が採れるのですか? とバチ当たりな質問をすると、モチロン採れるという返事。ドイツはLapis誌の特集記事を示し、著名な産地を3ケ所教えてくれました。上記の貝殻トルコ石はそのうちグッサンとかいうところのもので、ここは比較的緑色がかった石が出ます。
一方、古来著名な産地(名前忘れた、フィルーゼ?)の石は、緑味の少ない空色をしています。値段はこちらの方がぐんと張るようです。

ところで先ごろボストンのファインアート・ミュージアムを訪れる機会がありました。そこにはエジプトの遺跡からの発掘品が多数展示されており、久々にエジプトの雰囲気(って行ったことないですが)に浸れました。展示品の中に多数ファイアンス(釉薬で染めた焼結石英末)があり、その色を見てハタと膝を打ったのは、まさにトルコ石の色だったことです。ファイアンスは貴重なラピスラズリを真似て作られたという説がありますが、展示品の多くはトルコ石色で、ラピスラズリ色はごく少数。これだけで決めつけるわけにはいかないものの、トルコ石から始まった可能性だってアリ。少なくとも古代エジプト人がターコイスブルーを愛好していたのは間違いないぞ〜と思いました。
というわけで、目下とりとめなくトルコ石ラブな私です。

そのうちクンツ博士の本など拾って、トルコ石の伝承をひま話で紹介したいものだと思っています。

では、今夜はこのへんで。


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