ANAの機内誌「翼の王国」に「稀書探訪(きしょたんぼう)」というコラムがある。古書コレクターの鹿島茂さんの筆で、今月号の話題は、コレクターのタイプに「改良型」と「拡大型」がある、というものだった。蒐集家の行動にはジャンルを越えて通用する共通性があって、このタイプ分けは鉱物蒐集家にも当てはまると思われるので、ちょっと紹介しておきたい。
鹿島氏によると、「改良型」は特異な収集の仕方をする人である。「収集のフィールドをあまり広げず、かなり狭い範囲で事足りている」が、「一点一点のアイテムの質にこだわる」。彼らは、つねに良い物を求める。そして(同じタイトルの古書で)より良いものが見つかったときには、「より良いもの」を購入して、「良いもの」を手放す。
一方、拡大型は収集のフィールドをどんどん広げてゆく人である。質にこだわるよりはむしろ常に新たなものを求める。「いったん買ったアイテムは『済』のマークが付いたものとして、「より良きもの」には食指を動かさない」。
実際には、たいていのコレクターは両方の性癖をいくらかずつ具えていて、機に臨んで自在に主義を使い分けていると信じられるのだが、それでも「あなたはどちらか?」と問われれば、ほとんどの人がすぐに「こちら!」と答えられるに違いない。初心者は別として、ある程度収集を続けていれば、その時その時の目指す方向性は見えているものだからである(もちろん、方向は時に応じて変わってゆく)。少なくとも明確な意思とビジョンが伴っていなければ「改良型」は成立しないだろう。
僕は「拡大型」だ。目新しいものがあれば、とりあえずだぼハゼのように飛びつく。標本商さんからみれば入れ食い状態だろう(しかし、資金がないときは指をくわえているばかり)。
「より良いもの」に手を出さないか、といえば、必ずしもそんなわけはないが、「より良いもの」と「持ってないもの」の2択であれば、まず7割以上の確率で「持っていないもの」の購入を優先する。7割といえば、本人感覚的には「ほとんどつねに」に等しい。
また、「より良いもの」を手に入れても、「良いもの」を手放すということが(今のところは)ない。僕なりの解釈であるが、「改良型」の人が「良いもの」を手放す気持ちには、資金繰りの都合もあるに違いないが、コレクション全体としての質をどこまでも高めてゆきたい、同時に質の劣ったものは持っていたくない、持っていても満足感がない、という動きがあるのではないだろうか。保管場所の問題もあろうか。
僕はどちらかというと、「これはこれでいいところがある」という感覚が立ち、標本各個への恋着を切れない。これも「拡大型」の所以ではないかと思う。
鉱物はナマモノで、同じレベルの標本でもその時々で値段が変動する。いいもの、珍しいものと見込んで買った標本が、後にはありふれたどこにでもあるものになって、かなり安価に入手可能なことがある。手持ちよりいい標本が安くで売られていたりする。そんな場合は、「もうひとつ買って元の標本と合わせて値段を均す」のも一法だと標本商さんに教えてもらったが、それは仕入れ上のテクニックであり、僕は標本を売るわけでないので基本的に手を出さない。そのお金があれば、まだ持っていない標本を買う。かく、自分の行動がいちいち「拡大型」にあてはまるのが面白い。機中、にまにましながら氏のコラムを楽しんだ。ちなみに鹿島氏も「拡大型」だそうな。
随分前に鉱物系の本で読んだある標本商さん(A氏)の談話だが、鉱物蒐集には一般的な道筋があるという。最初のうちは皆、とかく量を求め種類を集める。やがてある程度の標本が一通り揃ってしまう時がくる。裏を返せば、この段階を過ぎた人なら誰でもが持っている類の、入手の容易な「普及標本」があるということだ。そして次に質を求めるようになる。まず広く、それから深く。
質といったが、ここにやはり「拡大型」と「改良型」とがありそうである。まず、一通り基本的な鉱物種が集まったから今度は同じ種でも産地の違いに注目しようとか、亜種や色やインクルージョンなどのバリエーションを揃えようとか、金属鉱物、テルル化物やテルル酸塩、沸石など特定のグループにこだわって入手の難しい希産種を体系的に集めようとか、特定の産地を専門にするとかいった具合に、細分化に向かうのがひとつ。「拡大型」であろう。コンプリートしたら、また次のテーマを探して尽きることなく進めてゆく。テーマは膨大にあるから、何を選択するかにコレクターの個性が現れる。それまで出回っていなかった産状・産地の、いわゆる新産品も尽きることなく市場に流れ込んでくるので、コレクションを増やすに事欠くことはない。
一方、より見栄えのよいものや高価なものへ標本をグレードアップしてゆく行き方がある。「改良型」だ。この場合もテーマ(あるいは分野)を絞って収集することは有効である。
こうして質を向上させる際に専門外の標本や普及レベルの標本を手放すかどうかだが、もちろん手放す人もいるだろう。ただ普及レベルの標本は、インターネット・オークションの発達以前には資金化がかなり難しかったはずだと、これは感覚的にそう思う。
初心者が何にでも手が出てしまうのは、鉱物標本に限らず、蒐集全般について言えることらしい。例えば、何でも鑑定団で有名なやきもの骨董商の中島誠之助氏は「およそ物を集める人は、それが切手であれコインであれ、最初のうちは目についたものを何でもかまわずめちゃくちゃに手に入れようとする癖のあるものです」と書いている。
また、「趣味家にとって何を買えばよいかが第一の関門ならば、自分の趣向を発見することが第二の関所になるでしょう。人間の生まれつき持っている好みというものはそうそう変化するものではありません。やきものをいじらせても絵を買わせても何か一貫した流れがみられる。その流れがやがて一つの羽口になってコレクションを形づくっていくのですから、しっかりしたひとつの好みで集められた品々は見ていて実に心の落ち着くものです」とも書いている。
初期の発作的な蒐集衝動はいわば知恵熱みたいなもので、誰もがうかされる。その段階、まだ自分の好みが見定まっていないときに集めた標本は、あるいは貴重な学術資料が混じってはいても、(一貫した)コレクションのレベルにないと言えるかもしれない。しかしその発熱を経て初めて免疫もつき、趣味の骨格がしっかりしてくるのだ。その意味では質を求めるようになったときから本当のコレクションが始まり、また「拡大型」、「改良型」という志向も漸く立ち現れてくるということになろうか。
とすると、僕のようなだぼハゼって一体…(←まるちゃん風に)。いや、一応テーマもないことはないのですがね…。
ちなみに18〜19世紀の博物学全盛時代における西洋のコレクションは、珍奇なれば何でもありで、一般的に甚だ節操に欠けるように観じられる。博物館は「驚異の部屋」を萌芽に育った(そして学術性の枝をつけた)。なので、テイストを嗜むアンティーク・骨董趣味と珍奇性・網羅性を尊重する博物趣味とは必ずしも同列に扱う必要がない、とは思う。それでも両者において、初期の発作とその後の品質志向への転換は、蒐集行為を介して共通に見られるということであろう。またおそらくは骨董にも「拡大型」と「改良型」の2つの傾向性があるのだろう。確かとはいえないが、両者の境界は固溶体のように交じり合い、互いの領域に侵入し合っている気がする。
別の標本商さん(B氏)が書いていたことである。その店はいわゆる高級標本店で、氏はコレクションは質がすべて、という信念をお持ちだ。お扱いの品は氏の評価眼に適った一点物が基本である。上に「誰でもが持っている類の標本」と書いたが、氏によれば、その種の普及標本はいずれ物足りなくなってしまうものだし、コレクションとしての値打ちは(同好者からの羨望度として)まったくない、より良い標本を買うために手放そうにも価値を認められないので二束三文にしかならない、それよりもコレクションとして(市場)価値のあるハイグレードの標本を集めるべきだ、と主張する。よい標本は他にも欲しがる同好者があるから再販価値がある。手放してより良い標本を購入する、これを繰り返すことで、仲間も一目置く、一流のコレクションを築くことが可能になる。
(財産的に)無価値な普及標本はなるべく早く卒業し、他者に評価されうる目標をしっかり見据えて、その高みを目指すべし、という「改良型」の要諦だろう。こうした心構えで集める標本あるいはコレクターを、標本商さんの間ではエリート標本、エリートコレクターというらしいが、確かにエリート的なストイック志向である。
指摘させていただくと、一般に標本商さんは自らがコレクターであることが多い。彼らは職業柄、手持ちの標本を売買しながら自然にプライベート・コレクションを充実させてゆくことができる。「拡大型」ももちろん可能だが、風土的に「改良型」に進みやすい。なにしろつねに多数の標本を目にして自然に比較しているし、利き目の善し悪しや品揃えのレベルがそのまま標本商としての「格」につながるのだから。そこには鉱物標本を商品として眺める冷静な視線が据えられているはずだ。もう一歩つっこんで言うと、彼らの側からみた鉱物標本には単なる娯楽的収集品をこえて、美術品、投機品、骨董品としての要素、つまり財産価値の要素が加わりやすいのである。売買を価値の基本とする限りそうなって当然で、安定して高く売れるものが良いものだ。であれば、彼らの間で一目置かれ、尊敬を集めるのが「改良型」のコレクションであり、コレクターであるのもやはり当然のことと言えそうだ。
とはいえ、一般のアマチュア趣味人が、みなみな「改良型」に進まなければならないわけはない。そもそも標本を売らないのだから、市場価値を計算する必要がない(計算するだろうけど)。アマチュアにとっての「よいもの」はもっと個人的なものでありうるし、自分が楽しいことが第一優先でよいと思う。
B氏の説や「改良型」を否定し、「拡大型」のみを擁護するのではない。
他のところにも書いたが、もともと蒐集趣味は模倣性の強いものだ。ものの善し悪しの基準も、なんとなく一定の決まり事があり、発信塔的な業者や有名コレクターの嗜好に多大な影響を受けているものである。世評で定まる基準を全否定することは出来ないし、スタンダードな「よいもの」を集めたいという希みを否定するのは愚かである。しかし、自分の好みを二の次にして、誰かの引いたレールの上を歩くだけしか能がないとしたら、それもまた随分詰まらないことだ。趣味の世界で、自分が幸せであることよりも、幸せだと思われることの方を優先しても仕方がない。
要はどんな行き方をするにせよ、自分の好みに忠実であることが肝心だと思う。自己への誠実さを保つ余地、「好き」がすべてでいられる余裕はアマチュアコレクターの真髄であり、プロには求めるべくもない特権ではないか。
コレクションに市場価値や世間の賞賛を求めたいならそれもよし、そうでないなら、それもまた善し。「改良型」よし、「拡大型」善し、そしてすんなり割り切れない部分があっても、また善し。ただし「好き」を中心におく。ね。で、僕は「拡大型」です。それも節操のない。
最後に再び鹿島氏のコラムに戻ろう。
「拡大型」の氏はあるとき、彼が最大のコレクターズ・アイテムにしている書物で、今回だけは見逃せないという代物に出会った。そして「改良型」の行動に踏み切った。その本は氏にとって「よほど素晴らしい」ものであったのだ。しかし一方で価格が極めて高価だったのも事実。それは氏が大学から受け取っている月給のほぼ全額に等しかった。エッセイの末尾を氏はこう結んでいる。
「これを安いと思うか高いと思うか、私にはすでにわかっているのだが、それは敢えて言わぬことにしよう。私は奥ゆかしいコレクターなのである。」
実は僕も答を知っている。でもむしろ、それを言っちゃあ おしまいよ、だと思う。
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