ダウジング・鉱脈占いの杖 −ひま話(2001.9.4)より


巨大な熱のかたまりに包み込まれていたような暑い夏の気配もすっかり和らぎました。列島南海上に台風の北進を聞けば、梢を渡る風も熱波を払う清々しさ、葉ずれの音にも秋の近さを感じます。夕暮れも早くなりました。夜の小川を流れる虫の音は、熱帯夜に聞くのとは、まるで違った趣きをたたえて響いてきます。
私はこの季節になると、今年もそろそろ指輪物語の季節だなあとか思います。静かな夜には、ついこの大部の本を手に取りたくなります。旅への憧れでしょうか。ビルボと一緒に、金色の木の葉の散り敷く森を、寝袋とコッフェル担いで逍遥したり、焚き火の煙が沁みたご飯をもう一度食べてみたくなります(小川で米を研ぐ時に入った小石がときどき混じっていて、噛むと口の中で、ゴリ、とかいうやつ)。ちなみに、コッフェルとはドイツ語起源の日本語で、鍋のこと。クッフェル(Kupfer)、つまり銅のことでもあります。銅産豊かなドイツでは、鍋釜といえば銅製だったのでしょう。
♪野山の行脚に敏き心を。森の野営に強き体を。おお、来たれ、鉱物。
来年の春には、ハリウッド制作の実写版「指輪物語」が映画になるそうです。今からとても楽しみです。


さて、今回は、占い杖(ダウジング・ワンドまたはダウジング・ロッド)を使った鉱脈探しについて書こうと思います。杖を掲げてぶらぶら歩きをすると、杖が鉱脈に引かれて(脈あり?)特殊な動きを示すので、その動きを解析して、鉱脈の所在を判断しようという古代からある占い法です。
一般には、二股に分かれたY字形の木の枝を用いる方法が知られています。分かれた枝の先をそれぞれ左右の手で軽く握って、先端を上に向けた状態で歩き出します。鉱脈の上にくると、枝の先がくるりと回転して地面を指します。その場所を離れると、枝は再び上を向きます。こうして、枝の回転する場所を記録してゆき、およその位置を特定したあと、地面を掘ってゆけば、目指す鉱脈に行き当たるという寸法です。(文末の図 参照)
Y字形の枝の代わりに二本のL字かそれに近い形の木や金属の棒を使う方法もあります。L字になった棒の短辺を軽く握った左右の手に一本ずつくるみ、棒の長辺が前方に突き出すように支えます。2本の棒を平行にした状態で歩き回ると、鉱脈のある場所で棒が左右に扇開するので、求める場所が分かるのです。
この他、振り子(ペンデュラム)を使う流派もあります。振り子の振れ幅や揺れる向きで方角と距離を判断します。もっと簡単には棒を立てて、それを倒したときの倒れ方、向きで占うというのもあります。
ダウジングという言葉は英語の語彙 Dowsing (語源不詳)ですが、杖を使った鉱脈占いの習慣は、イギリス、西ヨーロッパはもとより、エジプト、中近東、インドやアジア、オーストラリアにも広がっています。

ダウジングは紀元前4〜5000年頃、エジプトに始まり、以来鉱脈や水脈の発見に大きな効果をあげてきたといわれます。しかし、この技術のもっとも古い形は、おそらく人々が住む場所を選定するために行った占いであり、従って、その歴史はさらに遠く遡れるはずだと私は思います。古代の人々は、家を建て村を作るのに、「世界の中心」からなるべく近い場所、いいかえれば、神々の祝福がいまだ濃厚に残存し、豊穣と庇護の気に満ちている「ホット・スポット」を求めていました。それは、天地創造の神が最初の土地を創ったと伝えられる場所であったり、大昔に天と地をつないでいた世界樹が生えていた場所であったり、その昔神々が降り立って預言を授けた場所であったりしますが、いずれにしても、地味豊かで農耕すれば収穫多く、狩りに行けば獲物に恵まれ、美味しい水が湧き、生まれてくる子供は健康でよく太り、人々は病気にならず長生き出来る、そんな土地でありました。
実際、多くの古代民族は、それぞれ、神から啓示された場所に町を作り、世界のヘソや中心や世界柱や神の住まう山の麓に好んで居を構えましたが、土地の選定、町を構成する広場、礼拝堂などの位置の決定は占いによって行われるのが常でした。ヨーロッパでは「占って決めた」(ディヴァイン)特別な場所が、レイラインと呼ばれる地磁気の極大線上に位置していることが知られています。その上に人々は、古代儀式の祭場を設け、後にその跡地を選んで修道院や城を建てたりしています。中国では、こうした土地の選定技術は、フーチイ、風水として知られています。
鉱脈占いは、古くからの神聖な伝統のひとつの適用事例であろうと思います。

とはいえ、占い杖を使って土地を選んだり、鉱脈や水脈を探したりするのは、不合理な、妖術的な、詐欺的な行為だと考える人たちも昔から沢山いました。彼らは、もっと科学的で根拠の明確な方法を採用すべきだと考え、観察と経験による実証的な知識に一層の信をおきました。ダウジングは、名人の手にかかると驚くほどよく「当たり」ますが、百発百中というわけではなく、とりわけ不信感を持っている人が側にいると的中率が目に見えて悪くなる傾向があるので、疑いが助長されたのも無理からぬことでありました。
16世紀、鉱山で医師として働いた経験のあるアグリコラは、著書「デ・レ・メタリカ」の中で、次のように語っています。少し長いですが、アグリコラの懐疑的な議論が面白いので、端折らずに引用してみましょう。

占杖については、鉱山師たちの間にさまざまな、そして大きな意見の相違がある。つまりある人たちは自分が鉱脈を見つけた時には非常に役に立ったといい、他の人たちはこれを否定している。占杖の使用を便利だといっている人々のある者は榛(はしばみ)の木を選び、特にそれがある鉱脈の上にはえているのがいいと称して、その叉を取る。他の者は鉱物によってそれぞれ異なった杖を利用する。つまり榛の占杖は銀鉱に用い、秦皮(とねりこ)は銅鉱に用い、松は鉛鉱スズ鉱に用い、鉄や鋼で作った杖は金に用いる。何の杖でも杖の端を拳を握った両手で持ち、その際握り締めた指が天に向くようにし、二又がいっしょになった端が上になるように占杖を構える。そうして山の中をあちらへ行ったり、こちらへ行ったり、縦横十字に歩いたりする。この連中のいうところによると、歩いて足がある鉱脈の上を踏むと、杖が不意にぐるりとまわって下向きになり、鉱脈のあることを教える。しかしその踏み足を引っ込めて、鉱脈から離れると、占杖はたちまちもとの位置に復して動かないというのである。この人たちの主張するところでは、杖が動く原因は鉱脈に内在する力にあって、その力は時によると非常に強く、鉱脈の近くにはえた立木の枝を引き寄せてたわますくらいだという。これに反対する人びとは占杖は信心深いまじめな人には役にたたないと主張して、鉱脈の力で占杖が傾くなどいうことはないと否定する。つまり占杖はだれが使っても傾くというのでなく、呪文とかややこしい手法を心得て使う人たちにだけ動くのである。またこの人たちは鉱脈の力が立木の枝をたわますなどは怪しいと争って、さらにそれは鉱脈の放散する熱と乾燥のためだといいきる。

これに対して占杖の信者たちは、鉱脈の力がある鉱山師たち、あるいはその他の人びとの手中で占杖を動かさないのは、その人たちに個人的なある種の特性があって、それが鉱脈の力を妨害し消すのだと応ずる。つまり鉱脈の力が占杖を、磁石が鉄を引き寄せるように、傾かせるのである。ある人びとのかくれた特性が、ちょうどニンニクが磁石の力を弱め消すように、鉱脈の力を麻痺させ負かすのである。つまりニンニクの汁を塗った磁石は鉄を引きつけない、錆びた鉄も引かないのである。その他この人びとは占杖の取り扱い方について、指をあまり軽く握ってはいけない、また激しく握りしめてもいけないと注意する。あまり軽く握っていたのでは、鉱脈の力が杖を回すより前に占杖はたれ落ちてしまうし、あまりきつく握りしめているとその手の力が鉱脈の力にさからってそれよりも強くなってしまうからというのである。この人びとの見解によると占杖が役目を果たすには、五つのことが関係してくる。まず杖の大きさである。杖が大き過ぎると鉱脈にはそれを傾かせるだけの力がなくなる。つぎにその形である。杖が叉になっていないと力がそれに働くことができない。第三に鉱脈に内在する力で、これは占杖を動かす自然の性質を持っている。第四に杖の扱い方、第五に使用者に鉱脈の力を消す素質が内在していないということである。この五つから彼らはいつも結論する。つまり占杖がだれがやっても傾くというわけにはいかぬのは、前に述べたよう扱い方が悪かったりあるいは使用者が鉱脈の力を消すような素質を持っているためである。そして占杖の使用者は呪文をとなえる必要はない。杖を正しく取り扱って、妨害的な人間の素質さえなければ、それで充分である。それゆえ占杖は鉱脈を捜し出す場合に信心深いまじめな人に役にたつことができると。たれ下がった立木の枝についてはこの人びとはそれ以上なにもいわない。そして自分たちの意見を堅くとって動かない。

しかし、この問題は疑義があり、鉱山師たちの間に様々な意見の相違をひき起こしているので、それぞれ直接の印象に従って判断するがよいと私は考えている。魔法使いが、ちょうど指輪、鏡、水晶で占いすると同じように鉱脈を捜す魔杖は無論叉の形になっているかもしれない。しかしこの杖はまっすぐであろうとあるいは何か他の物の形になぞらえてあろうとかまわない。なぜなら杖の形に霊現があるのではなくて呪文の歌にあるのだから。この歌はここで繰り返すわけにいかないし、また繰り返そうとは思わない。昔の人たちはしかし、魔杖で生活に欲しいものを手に入れたばかりでなく、さらにまた物の形を変形した。たとえばユダヤ人の書いたものによると、エジプトの魔法使いたちは棒を蛇に変えた。またホメロスではミネルヴァが老翁のオデュッセウスを魔法の杖で不意に青年に変え、それからまた老翁にもどしている。キルケはさらにオデュッセウスの道連れたちを野獣の姿に変え、それからまた人間の姿に復している。メルクリウスはその神の使いの杖で覚めている人びとを眠りこませ、眠っている人びとの目を覚まさせた。こんなふうで占杖は魔法使いたちの怪しげなふるまいを通じて鉱山業にはいって来たらしい。それが信心深い人びとが呪文に背を向けてそれを非難するようになった時に、単純な鉱山師の大衆によって杖だけが持ち越され、古い習慣の痕跡が鉱脈の探求に付着して残っているのである。そして鉱山師は一般にその場合呪文を唱えないのに占杖が傾くので、ある者は杖が動くには鉱脈の力が大事だと考え、他の者は杖の取り扱いが、また他の者はこのどちらもが大事だと考えている。しかし物を引き付ける力を備えたすべての物は他のものを弓なりには曲げないで、自分のほうへ引き寄せるのものである。たとえば磁石は鉄を曲げはしないで、まっすぐに自分のほうへ引きつける。また琥珀を摩擦して暖めると、麦藁を曲げはしないで、ただ引きつけるだけである。同じようにもし鉱脈が磁石や琥珀と同じ性質を持っているとすれば、そう何度も占杖を曲げることはなくて、ただ一回だけ半円形にぐるりと動かしてまっすぐに引くだろう。そしてさらにしっかりと握った使用者の力が鉱脈自身の力に抵抗しないとすれば、占杖を地面まで引きつけるだろう。もしこの事がないとすれば、どうしても取り扱いこそ杖の動きの原因だということになる。この結論はまたつぎの事からも明瞭である。つまり抜け目のない占杖使用者たちは棒の形をした杖を用いないで、叉になった杖を用いる。それも榛の木その他のしなやかな木を取る。だから杖はこの人びとのやっているとおりの持ち方をすれば、だれが持っても立つ場所がどこであろうと当然円を描いて回るのである。またへたな人が持つと回らないことも驚くにはあたらない。なぜならへたな人たちは杖の端を強く握りすぎたりあるいはゆるすぎたりするからである。

単純な鉱山師は、占杖使用者が時々まぐれ当たりに鉱脈を見つけだすので、それで占杖の効能の信用する。しかし占杖使用者は、まぐれ当たりを取ることよりも骨折り損をすることのほうが多いだろう。そして鉱脈を見つけることができるとあてずっぽうに試掘にかかったら、悪い株を背負い込んだ鉱山組合と同じようにくしゃくしゃにされることであろう。ほんとうの鉱山師は信心深いまじめな人でありたいと私たちは望むのだから、魔法の杖などは使用しないはずだ。また真の鉱山師は事物の性質に通暁しているはずであるから、占杖など何の役にもたたぬことがわかっている。そして私が前記で詳しく述べたように鉱脈の自然の特徴に気をつける。(三枝 博音訳)

アグリコラとしては、自然の特徴を注意深く観察した結果によって判断する方法、つまり彼が「デ・レ・メタリカ」で述べている方法で鉱脈を探すならば、占杖を使うよりもずっと確実な成果をあげられるのだと主張しています。しかし彼自身は、呪いの歌を知っている上に、やけにつっこんだ占杖の知識を持っているようなので、まるきりダウジングを信用していなかったわけでもなかろうと思います。

彼の挙げたいくつかの論点について簡単なコメントを付させていただくと、アグリコラの時代には一般に鉱脈が杖を引き寄せると考えられており、そのため探したい金属ごとに引かれやすい素材の杖を用いたようです。しかし現代では、杖は使用者の無意識の感応を表現する補助的な道具とする見方が優勢で、重要なのは使い手の能力であると考えられています。しかもその資質は、多かれ少なかれ、誰もが持っていながら普段は抑圧している潜在能力だとされています。従って、信奉者のいう「妨害的な素質の人間でなければ、占い杖は役に立つ」という主張は、それなりに正しいといえるでしょう。現代的な観点に立てば、杖の材質は何でもよく、また探すものも、鉱脈に限らず、なんでもいいのであって、実際、後に示すようにさまざまなシーンでダウジングが活用されています。

ちなみに、杖の素材として名前の出ているハシバミは、ヨーロッパでは知識、智恵、詩的な霊感を表す木です。泉に落ちたその実を食べる者は詩的霊感を授かりますが、食べるのを許されているのは泉に棲む聖なる鮭だけ、神々といえども、この泉には近づくことを禁じられているとの伝承があります。水脈との関連はこのあたりにあるのでしょう。またこの木は、火を表し、雷神トールを象徴していました。雷神は、鍛冶神と不可分ですから、金属にも縁があったと思われます。ハシバミの杖は探知力の現れであり、隠れた水、財宝、殺人犯や泥棒を探し出すものとされました。魔女や妖精に対する魔よけであり、愛や出産、豊穣のシンボルでもあります。
銅鉱に用いられたトネリコは、アッシュル・イグドラシル、すなわち世界樹たる神聖な木であり、決して枯れることのない永遠の存在でした。万物の父を象徴し、強力な治癒と豊穣の力を具えていると考えられました。ハシバミ同様、智恵と知性を表し、魔よけにもなりました。オークとならんで、稲妻を引き寄せる木であり、燃えるときに非常な高温を生じるので、鉱石を溶かすための大切な燃料でした。
松もまた不老長寿を表す常緑樹のひとつです。火と豊穣に関連しています。これらの木々が、生命力や豊穣の象徴であり、鉱脈や水脈を探すのに用いられたというのは、興味深い一致です。なぜなら、鉱脈は、地下に隠された生命ある存在だと信じられていたからです。もっとも、単に魔法使いの杖がこうした素材で出来ていたので、鉱脈探しにもそのまま使っただけかもしれませんがね。
金を探すのに、なぜ鉄や鋼を用いたかというのは、私にはさっぱり分かりません。ただ、鉄もまた強力な魔よけのひとつでした。魔女に対する最強の武器であり、魔女たちが鉄を通りぬけることは難しいと言われます(ついでながら、「魔女は流水を渡れない」という信仰もあります)。吸血鬼に対しても有効でした。もともと、これらの占い杖は魔よけとして使われていたのかもしれません(魔よけも魔法のひとつです)。

「鉱脈の近くに生えた立ち木が、引き寄せられてたわむ」について。鉱山に育つ樹木が特有の相を示すことはアグリコラも観察によって認めており、鉱脈探しのコツのひとつに数えています。一方、たわむ原因が鉱脈の放散する熱と乾燥のせいだというのももっともな主張で、冬になって雪の積もっていない場所の下から鉱脈が見つかるという事例は昔からよく知られています。まあ、鉱脈に引かれたのではないにしても、そう解釈できる現象があったことは確かでしょう。

アグリコラは、「もし杖が鉱脈に引かれるのなら、たわんだり傾いたりせずに、まっすぐ、ただ一度だけ引かれるはずだ」と考え、杖の動きは使用者の取り扱いに原因があると推測しています。いかにも道理に適った意見で、こうした観察と筋の通った考察こそ彼の真骨頂といえるでしょう。ただ、彼はこのことを理由に、杖の動きは使用者が操作しているに過ぎないと言いたい様子です。しかし現代のダウザー(占杖使い)は、杖を動かすのはダウザー自身であることを認めながら、その動きは表層意識が関与出来ない深層意識と自然界との感応によるものであり、決して故意に操作したものでないと語ります。私は両者の見解の相違は、時代背景による部分が大きいと思います。アグリコラの時代には、まじめな信仰心とダウジングのような一種の魔法とを対置させて考えずにいられなかったのであり、一方、現代のダウザーは20世紀以降の心理学やオカルト学の発達によって、ある種の(擬似)科学としてダウジングを捉えることが出来るようになったというのがその違いです。アグリコラの時代には無意識などというものは知られていませんでした。彼が現代に生きていたら、きっとダウザーたちの見解にも一理あると思ったことでしょう。さきほども書きましたが、アグリコラが占い杖を信じていなかったとは、どうしても思えない節があります。彼はダウジングによって鉱脈が発見されたのを見たことがあるのではないでしょうか−たとえそれをまぐれ当たりと解釈したとしても。

また、「杖の形に霊験があるのでなく、呪文の歌が大事だ」という見解も、ツボを押さえています。現代のダウザーたちには、呪文を唱える方も唱えない方もいるようですが、ほとんどの方が、事前にそれぞれのやり方で瞑想し、精神状態を整えてから作業に取り掛かります。呪文の詠唱はある種の精神状態に入るために必要だったのでしょう。
テネシー州にチェロキー族の血を引くアマチュア考古学者でケネス・ペニントンという人がいます。この方はインディアンの文化遺跡を発見する名人ですが、発掘に出かける前には必ず、祈りを捧げてこんな歌を歌います。
「今は眠りし、いにしえの民よ…わがシャベルを太古の草原の真理と美へと導きたまえ。私があなたがたの生きざまの証人となり、いにしえより選ばれし者となりますように」
そうして現場に出かけると、圧倒的な衝動が襲ってきて、どこを掘るべきか正確にわかるのだそうです。彼は、いわば杖なき魔法使いの一人といっていいでしょう。遺跡や化石掘りの名人は、しばしばダウジングの達人でもあります。

ニンニクが磁石の力を打ち消すものかどうか、私は疑わしいと思います。ただニンニクは、タマネギなど強烈な匂いを発するほかの香辛料と同じく魔よけの植物であり、月の欠けている間に成長するため、月の魔女(豊穣と死とをもたらす)と特殊な関連があるとされました。もしニンニクが、磁力に対抗するのだとしたら、それは磁力を魔法の一種とみなす信仰の上に成立するものであり、一方、占い杖が鉱脈に引かれるのだとしたら、それもまたある種の魔法的磁力に共鳴しているためだといわねばなりません。同じ魔よけでも、反応の仕方は正反対というのが面白いところです。

近世以降、科学的思考が学問的にも世俗的にも、非常に重視されるようになりましたが、それにも関わらず、「非科学的な」ダウジング、ディヴァイニングの技は、地下水脈のように続き、消滅することはありませんでした。原理は分からなくても実際に効果があったからに他なりません。ヨーロッパや香港では、現在でもダウジングや風水によって、土地を探し、ビルを設計する企業がいくつもあります。欧州のある医薬品メーカーは、世界のどこに工場を建設するのでも、必ずダウジングによる事前調査を行っています。彼らは、「わが社は利益のあがる方法をとります。それが科学的に説明できる方法であろうとなかろうと。ダウジングは経済的に見合うのです」と言っています。

大陸移動説を最初に唱えたヴェゲナーは、彼自身がダウザーであり、ウラル山中をヤクに乗って進みながら、振り子を使って断層線を辿ったといいます。アメリカで油田が開発された時、試掘すべき場所を選定したのは、教育を受けた科学者と並んで、古くから井戸掘りを請け負っていたダウザーたちでした。主要パイプライン各社は、今でもダウザーの従業員を置いています。カナダの農務省は、水脈を評価するための要員として、常に一人以上のダウザーと契約を結んでいます。日本では弘法大師空海が、旱魃に苦しむ土地を歩きまわり、杖を衝いて井戸水を湧かせました。アメリカのカリフォルニア州では干上がった湖の近くでダウザーが水脈を探し、湖を再び青々とした水で満たしました。
ダウジングの応用事例は、現代ではとても広範囲に亘っています。探査できるものは、地下に埋設された水道管、電話線、パイプライン、地雷などの金属類、古代の遺跡、化石、遭難者、殺人犯、失せ物、迷子のペットといった具合におよそ対象を選びません。多分、探したいという気持ちがあれば、相手は何だって構わないのでしょう。ダウザーの中には、実際にその場所に行かなくても鉱脈を探し出せる人さえいます。彼らは、地図の上で振り子を振らすことによって、目的の場所を特定するのです。

コーカサス北部の鉱山では、金の鉱床を発見し採掘するためのドリル作業が、ダウジングを採用して以来30%も節減されました。前世紀のマレー半島では、スズの鉱脈を探すのにマレー人のシャーマンが竹杖を立てて占いました。オーストラリアでは、今もオパール掘りたちがダウジングを活用して、鉱山を掘っているそうです。こうした能力を発揮する人たちが鉱物採集に出かけると、ほとんど宮沢賢治の「楢の木大学士」状態になると思われます。

「僕は実際、一ぺんさがしに出かけたら、きっともう足が宝石のある所へ向くんだよ。そして宝石のある山へ行くと、奇体に足が動かない。直覚だねえ。……つまり僕と宝石には、一種の不思議な引力が働いている。深く埋まった紅宝玉(ルビー)どもの、日光の中へ出たいというその熱心が、多分は僕の足の神経に感ずるのだろうね。」

もっとも、大学士の場合は、探して欲しいと依頼された上質のオパールを見つけ損ねて、遊色のない濁った蛋白石ばかり拾って帰ってくるのですが…。

ともあれ、今年の秋は、ハシバミの杖を手にとって、野山で鉱物採集。どうぞ。あなたも。

デ・レ・メタリカ」より

参考:ゲーテのファウスト2部で、メフィストは唱える。「利口ぶったことを言って茶化したり、魔法をとがめ立てたりしたって、何になりましょう。地中の宝のせいで、足の裏がくすぐったくなったり、足もとが怪しくなったりすることはあるんですからね。」(4981)  
「もし手足の方々が引っつれたり、ある場所にいて気味わるくなったりしたら、さっそく思い切ってそこを掘り返してみなさい。そこに楽人が埋まっていたり、宝が埋まっていたりするんです」(4989)
また土の精ノームは歌う。「かがやかしく豊かな宝が 糸のように谷間につながり、さかしい魔法のつえにだけ その迷路を示します」(5899)
高橋健二の訳注に、「人がつまづくと「そこに宝物が埋まっている」という迷信があった」とある。

付記:臨床心理学者の河合隼雄はNHKの取材でアイルランドにケルト文化を訪ねたとき、ダウジングを体験している。彼は最初「僕はだめだろう」と言って試して棒は動かなかった。また別の若い技術者にも「君も動かないだろう」と予想して、やはり動かなかった。その後、「今度はいける」と言ってからやると果たして棒が動いた。
氏の理解では、彼や技術者のようにふだん心の意識的な部分が活発に働いている人はこのテのことはうまくできない、しかしカウンセリングをするときの態度、ある程度心を無意識のレベルに入れて任せていると、棒が動いたのだという。つまり無意識のレベルで人は(人の心は)、周囲の何かに感応しうるというわけである。(ケルト巡り)


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