2000.6.25 ひま話より
先日金沢へ行ったときに仕入れたお話をしよう。
金沢というと、まず、犀川のほとり、桜橋のたもとから寺町へ抜けるW坂が思い浮かぶ。もとは石伐坂(いしきりざか)と呼ばれていたが、旧四高生たちが、W坂と呼び慣わしたのが名前の由来。この坂は、地元の方々の間では、幽霊が出るらしいという漠然とした噂がある。そんな歴史を背景に、坂田靖子さんは「W坂の幽霊」という名作を描かれた。
さて、金沢にはもうひとつ兼六園という名所があって、一般にはこちらの方がよく知られている。日本3大名園のひとつで、名庭が持つべき6つの条件をすべて兼ね備えたとして、兼六園と命名された。要件のひとつに「蒼古」があり、江戸時代、人々が庭に寄せる思いは、すでに「古めかしさ」を求めていたことがわかる。歳月を経た(あるいはそのように見せかけた)庭の佇まいが、人の心の渇きを癒すことは、今も昔も変わらないようだ。
兼六園の南東の一角に金城霊沢(きんじょうれいか、またはきんじょうれいたく)と呼ばれる泉水がある。大雨に濁らず、日照りに涸れずという不思議な泉だ。その昔、一帯は鄙びた里で、泉のあたりが沢になっていた。その頃、芋掘り藤五郎という貧しい若者が、沢のそばにあばら家を建てて住んでいた。人柄の良い、優しい男だったが、なにしろ自分ひとり食うにも困る身の上で、裏の山から芋を掘ってきては、沢で洗い、里人に売って糊口をしのぐ日々だった。
当時、京の都に年頃の娘をかかえた裕福な商人があった。かねて娘わごの縁談を気に懸けていたところ、ある夜夢枕に神様が立ち、お前の娘、わごの婿となる男は加賀山科の藤五郎じゃ、と告げた。商人は自ら加賀に赴き、お告げの通り藤五郎という男を見つけて、人柄が気に入り、いよいよお告げを信じた。わごを嫁にもらってほしいと頼み込んだが、気になるのは男の貧しさ。嫁入りのとき、わごに砂金一袋を持たせて旅立たせた。
そうして、二人は似合いの夫婦となった。周囲もうらやむ仲の良さで、子宝に恵まれて、貧しいなりに幸せな家庭を持った。ある朝のこと。わごは、表があまりに騒がしいので目が覚めた。外をみると、沢山の鳥が群がって藤五郎が投げるえさをついばんでいた。そのえさというのは、自分が嫁入りに持参して大切に隠してあった砂金だった。あわてて止めようとすると、藤五郎は、「なんだ、わご、こんなきらきら光るちっちゃな石がほしいのけ、ならついて来や」、と連れていったのが、例の芋洗いの沢。藤五郎が、持ってきた芋を泉につけて洗うと、土の間からキラキラ光る砂が沢山こぼれ落ちた。それがみんな砂金だったから、わごの驚いたこと、驚かなかったこと。「わご、いくらでも拾いや」という藤五郎の顔を呆然と見つめた。それから、二人はとてもお金持ちになり、生涯豊かに暮らしたという。芋を洗った沢は、以後、金洗いの沢と呼ばれるようになった。これが「金沢」という名前の由来である。
いまでも、泉のあたりの土を掘り返すと、砂金が出てくることありと伝わるが、本当かどうか知らない。鉱物愛好家の血が騒ぐが、相手は日本が誇る名園の一角である。産地荒らしは、採集家のご法度とあきらめて、言い伝えを楽しみたいと思う。
なお、藤五郎の墓はW坂の上、寺町の伏見寺に残っている。掘った砂金で造ったという阿弥陀如来は、下本中生印(げほんちゅうじょういん)を結んだ珍しい像で重要文化財、その傍らに藤五郎夫妻の像が寄り添って座っているという。前者は、坂田さんの快作「盂蘭盆会」で、河童に引きずられて川に落っこちる本堂の阿弥陀様のモデルであろう(根拠はない)。坂田ファン及び鉱物コレクターの方々は、採集旅行のついでに訪れてみるのも一興かと思う。
以上、藤五郎の話は、北日本観光バスの名ガイド村松美和さんのお話を伺ったものだ。
付記:このお話の類話は各地にあって、「炭焼長者」というカテゴリーで知られているらしい。河合隼雄は「昔話と日本人の心」にこのテーマを取り上げ、「意志する女性」という一章を綴っている。彼が指摘する類話は、いったんは父親の決めた相手と結婚した女性が、「消え去るのでもなく、耐えるのでもなく」、自らの意志によって離縁してその家を去り、自ら望んだ(身分の低い)相手と再婚する。そしてその相手の男性が無意識に持っていた宝を明らかにして長者となり、幸せに暮らすことになる。いっそう趣き深いお話のように思われる。
cf.
No.659
-2012.11.30