雲南少数民族(タイ族)の魂を呼び慰める歌


「タイ族古歌謡」より

 叫穀鬼 

冬の太陽は明るく、
大空はよく晴れわたっている。
星たちもやって来た。
月もまたやって来た。
穀物の魂よ、
そなたは王さま。
穀物の魂よ、
そなたはご主人。

広い田圃の熟した実はもう倉へ行った。
広い田圃の稲草はもう積みあげられた。
穀物の魂よ、
疾く倉へもどれ。

一粒の穀物は価金千両にまさり、
一粒の穀物は価銀万両にまさる。
命はそなたにかかっており、
人々はそなたを頼っている。
そなたは地面に散らばってはならない、
地上には蟻が多い、
蟻はそなたの魂を喰うぞ。
ほかにも雀もいれば野鳥もいて、
毎日、田圃で餌をさがして、
穀物を見つければ嘴を延ばし、
穀物の魂を探して喰いあさる。

<中略>

もどっておいで、もどっておいで
風雨にさらされる野外にいるでない。
穀物は王さま、穀物はご主人さま。
もどっておいで、もどっておいで。

 

 叫牛魂 

九月が来た。
田を犂き終わり
苗を植え終わった。

<中略>

牡牛の魂よ、牡牛の魂よ。
大小の牛の魂よ、そなたは聞いた、
雨はやみ、
犂耕は終わり、
苗はきれいに植えられた。
今日は牛の首の鈴をとり、
今日は牛の鼻縄をとり、
そなたのために金の糸を縛る。
金の糸・銀の糸を両方の角に縛り、
そなたの魂を守る。
そなたを丸々に育て、
いっそう丈夫にさせる。

<中略>

牛よ、牛よ、
田圃はそなたが耕し、
木材はそなたが曳いた。
今日は吉日、
そなたのために魂を守る。
来年八月の来るのを待って、
そなたはふたたび本領発揮し、
人のため手柄をたてよ。

 

タイ族のこのような動植物の招魂詞のなかに、人々がこれらの動植物といかに親密な関係にあるかということが描かれている。そして穀物であろうが、鶏や牛であろうが、人々は真心をこめて世話をし、優しい心遣いでこれらの魂を感動させているようにみえる。五穀や六畜を家族の一員として、人々はそれらに十分な心配りをせずにはいられないかのようようである。そのこまやかな人情味は魂を動かす点で、巫術のもつ威嚇のとうてい及ばないものがある。タイ族の人々が人間の霊魂を招くときにも、このような温和な民族性が認められる。そこにはイ族のような冥土と現世との対比もなく、ミャオ族のように魂を追い払うような手段もとらない。ひたすら心から親しい感情を込めて魂に呼びかけるのである。
たとえば、次のようなものである。

 

今日はめでたい日。
日がらのよい日。
私は魂を招く。
心をこめて[魂を]呼ぶ。
声をあげて魂を招く。

白い米を東に向かって撒き、
白い米を西に向かって撒き、
白い米を南と来たへ撒く。
鎌をサッサッと揮い、
声をあげて魂を招く。

魂よ、魂。
息子の魂。
娘の魂。
甥や姪たちの魂。
陽は山の端に落ちた。
空はまもなく真っ暗になる。
牛や馬も里にもどり、
鶏や鴨もトリ小屋に入り、
トンボもねぐらについた。
そなたたちも早くもどっておいで、

<中略>

森や林には、
大きな樹木が茂っており、
刺のある草や木が多い。
そなたはそこに住むでない、
荒野には、
茅が深く、
野獣も多いし、
こわい毒蛇もいる。
風はすさんで寒い、
そなたはそんな山野に住むでない。

<中略>

どの魂も私のいうのを聞いとくれ、
野鬼の言葉を真にうけるでない。
疫病神の言葉を信じるでない。
それらは悪い鬼であり、
それらは魂をとって喰うのだ。

野外は村里のように好くはない。
よその家はわが家のように好くはない。
家には父と母がいて、
家には身内の者がいる。
家には妻も子どもらもいる。
身内の者はみな朝晩そなたといっしょだ。

私らは食う物に困らない。
私らは着る物にこと欠かない。
家畜小屋には牛馬があふれ、
トリ小屋には鶏や鴨でいっぱい。
倉には穀物が山ほどある。
行李には反物がぎっしりだ。
象たちもみな柱につながれている。

<中略>

今日はめでたい日、
日がらのよい日。
私は魂を呼ぶ。
三十二の魂よ、今日もどって来なさい。
九十二の魂よ、今日帰って来なさい。
すべての魂よ、
今日もどって来なさい。
両親がそなたたちのために糸を結びます。

左手でそなたたちのために銀の糸を結び、
右手でそなたたちのために金の糸を結びます。
安心して新しい部屋に暮らせるように。
父母の財産をうけついで、
千年も苦労しらず、
万年も困ることなく、
幸せな暮らしができます。
いつまでも体についていなさい。
さあ、三十二の魂がもどって来る。
もどって来る。
さあ、九十二の魂が来る。
サッ!サッ!サッ!
魂がもどって来た。

 

この招魂詞は、タイ族のザンハ(民間の歌手)たちによって伝承されたものである。招魂は年ごとに、代々おこなわれるので、招魂詞も毎年読まれ、代々伝えられてきた。この招魂詞のなかでいろいろ展開されている想像は、まるでそれらの魂が目の前にあるような感じを抱かせる。そしてその切々とした思いと懇願とによって、霊魂をゆり動かし、身内のもとへもどって来るようにしむける。招魂詞がさし示しているのは、霊魂が身内のもとへ帰ってくるための道であり、同時に、人間として生きるための道でもある。たぶん、タイ族の人々の人生がすべてこの詞に託されているのであろう。その意味では、民俗と巫術は、各民族の人生に対する考え方と生き方の探求振りを映し出すもっともよい鏡である。これによって、真に教訓をうけるのは鬼の魂ではなく、現実に生きている人々なのである。

<「中国の巫術」より引用>

 


このページ終り  [戻る]