顕微鏡とフェルデンクライス −(ひま話 2002.9.29)より


顕微鏡の使用におけるフェルデンクライス・メソッドの適用例(おお、論文みたいなタイトルだ)。

双眼実体顕微鏡の使い方を学んだ時のことを書きたいと思う。これはごく個人的な体験なのかもしれないが、私のように顕微鏡がうまく使えなくて困っている人には、あるいは参考になるかもしれない。また、まったく問題なく使いこなしている人には、別の意味で視覚について面白い実験を提供できると思う。私自身は空間の識別について、言葉ではうまくいい表せない感触を得た。それをシェアしたい。

まず簡単な実験から始めよう。片目を閉じて部屋の向うの壁の一点を見つめる。次に壁と眼の間に手のひらをはさんで見る。てのひらは、壁より自分に近い位置にあることを、私たちは「知って」いるが、どうしてそれがわかるのだろうか?
両目をあけて壁を見よう。てのひらはどんな風に見えているだろうか?壁ではなく、てのひらに焦点を合せよう。壁はどんな風にみえるか?そもそも壁の一点とてのひらを同時にはっきりと見ることが出来るだろうか?
片目だけで見たときには、こうした問題は起こらなかった。これは何を示しているのだろうか?

もうひとつ実験。人差し指を伸ばし、他の指は軽く握る。左右の人差し指同士を少し離して向いあわせる。指先と指先を近づける。指先同士を接触させることが出来るだろうか。両目をあけたときと、片目をつぶったときとでやってみる。どんなときに、うまく接触させることが出来ないだろうか?それは何を示しているだろうか?(やや肘を曲げて実験すること。筋感覚に頼らず、視力だけを使うこと)

私たちはたいてい、空間(立体)を認識するのに二つの目を使っている。左眼と右眼を合せて、ひとつのものを見る。両目の間にはほんの数センチだが距離があり、そのため左右の映像はそっくりであるが、実際にはわずかに違いがある(見る角度が違うから)。脳は二つの映像を統合して、あたかもひとつの映像を見ているかのように処理する。処理に伴う無数の情報の整合によって空間を立体的に解釈する。これは客観的なものであると同時に主観的なものでもある。すなわち、自分の体を中心として上下左右、および距離に関する空間定位が行われているのであり、こうした能力によって、私たちは世界との間に一定の関係を築いている。でなければ山の巨大さも空の高さも草原の広がりも、ほとんど意味をもたないだろう。体の動きの感覚(主観的な距離・方位感)と、世界の大きさ(客観的な距離・方位感)との間に信頼関係が結ばれて初めて、私たちの動きは意味のあるものとなり、世界と現実に関わりあうことが出来るようになる。例えば、視界の右ななめ上方1.5mのところに大きさ5センチの石がおいてあるとする。それを掴むためには、体を曲げ、腕を伸ばして正確にその距離と位置に達しなければならない。そして正確にその大きさに指を広げなければならない。石が1.5mの距離にある時と、30センチの距離にある時とでは、見える大きさが違うことを考えると、これにはかなり複雑な情報処理と学習(経験の積み重ね)が必要とされるはずだ…。

訓練されていない人間は、単眼では距離感をつかむのがとても難しい。慣れている人は単眼でも焦点を合せる時の体感によって距離を区別できると思うが、多くの人はそうした能力を充分に発達させていない。にもかかわらず片目で距離が判断出来る(気がする)のは、「机は壁より手前にある」とか、「あの本は本棚の中に入っている」とかをすでに知っているからであり、それらが背後にある物体の映像を遮っているからであり、あるいは近くのものは大きく、遠くのものは小さく、例えば道路は同じ幅でも遠ざかるほど細く見えるといった情報を、過去の体験によって蓄積しているからで、それによって二次元的映像を三次元的に擬似解釈しているからなのだ。
これは、私たちが絵画や図面を立体的に解釈するときに無意識に行っていることと同じで、一種の錯覚を積極的に利用しているのである。小さい子供は、写真や絵を見てもそれらをオリジナルの風景や物体と結びつけることが出来ないといわれる。彼らには解釈すべきデータベースの正しい蓄積が不足しているからだ。言い換えれば、私たちは世界を「こうあるはずだ」という思い込みによって自己解釈しているのである。ただ、これは「経験的推測」であって、空間を3次元としてリアルに知覚しているのではない。

以上まとめると、3次元的な知覚には、「ふたつの目による(ややズレた)情報を統合すること」、あるいは「目の焦点調節と距離感との相関をつかむこと」が必要であり、さらに(以下の話では関係ないが)、「客観的な距離・方位感と身体感覚との整合」が必要なのだと私は思う。

さて、双眼実体顕微鏡の話。
微小な鉱物を観察するには、ルーペを使うのが一般的だ。しかしルーペは片目だけで見るから、どうしたって映像は立体感に乏しい。その点、双眼実体顕微鏡は非常にリアルな立体映像をもたらしてくれる。これは2個の接眼レンズと2個の対物レンズを持つ顕微鏡で、私たちがふたつの眼をもちいて空間を認識するのと同じことをミクロの世界でも実現するはずのものだ。しかし、ある種の人たちにとって、立体映像を見るのは実はそう簡単なことではない。

少なくとも私は、偶然正しいやり方を見つけるまで、この顕微鏡を使いこなすことが出来なかった。操作方法が難しかったのではない。ただ、あるべき映像を見ることが出来なかったのだ。
顕微鏡を覗いた時に見えるのは、周辺を黒い丸で囲まれた映像である。普通の(単眼の)顕微鏡では、丸はひとつだけ見える。双眼顕微鏡でも本来なら一つの丸が見えなければならない。しかし、私の場合は、左の目でみた映像は左に、右目で見た映像は右に分離して見え、黒い背景に縁取られた円形の映像が二つ目玉のように並んでみえたのだった。
これは非常にやっかいな状態である。何かは見えているが、何が見えているのかわからないのだ。
どうやったら二つの映像がひとつにまとまるのか分からず、私は「これは大変なものを買ってしまった」と後悔した。それから、半年というもの、折に触れてレンズを覗いてみたが、像が統合されて見えることはなく、仕方なく片目をつぶって(片方の像だけで)標本を観察する日が続いた(当然、立体的でない)。

しかし、ある日、ふと名案を思いついた。フェルデンクライス・メソッドに目の焦点機能を高め、空間識別力を改善するレッスンがある。それを応用すればいいと気づいたのだ。

長さ25〜30センチくらいの長めのストローを用意する。中央あたりを右手の親指と人差し指ではさんで持ち、口にくわえる。そして指ではさんだあたりを両方の目で見つめる。何が見えるだろうか?
多分、こういわれても、やってみないことには想像できないだろう。そして実際にやってみても、最初は何がみえているか分からないと思う。
ストローはどんな風に見えるだろうか。指より手前の部分、指より遠くにある部分はどんなふうに見えるのか?左目をつむったとき、何が見えるか?今度は左眼をあけて、右目を瞑って見る。何がみえるか?それから両目を開けて見る。見えているものが少しはっきりしてくるだろう。
次にストローをはさむ指の位置を前後にスライドしてみよう。その間、目の焦点は移動する指先に合わせておく。すると、焦点の移動によってストローの見え方が変わるのがわかるだろう。
ストローは指の向うでは、左右に分かれて2本に見えるのではないだろうか?(左右の視力に違いがあると、どちらかのストローの方がよりはっきりと見えるだろう。はっきり見える方と反対側の目があなたの利き目である。
指をストローの先まで持ってくると、ストローはどんな風に見えるか。指を口元までもってくるとどうか?こうして指の移動を繰り返していると、次第に焦点を結ぶ能力が回復してくる(肩甲骨の間の筋肉と胸椎の変化にも注意してみて)。

これがフェルデンクライスの考案した方法の骨子だが、次は指を移動させないで、しかし目の焦点の位置をストローに沿って移動させてみよう。
うまく出来るようになったら、ストローの先に本を広げておいてみる。ストローの長さは実際には本の手前までしかないが、本を越えてさらに遠くまで伸びていると想像してみよう。そして、実際のストローから延長した架空のストローに沿って焦点を移動させてみよう。本の活字はどんな風に見えるだろうか。

以上の訓練が終わったら、顕微鏡に向かう準備は出来ている。私が上に書いた、像が二つに分かれてひとつの立体映像を作らないという状態は、実はこの訓練中のいずれかのステージにあてはまるのだ。そこで、なすべきことは何か。眉間からふたつの映像の間に向かって伸びる架空のストローを想像し、それにそって焦点を動かして見る。すると不思議にも二つの映像の距離が焦点距離の移動によって変わってくる。映像がひとつに重なるようにすることは出来るだろうか?
映像が重なったとき、劇的な変化が起こる。分かれた状態ではそれぞれ平板だった像が、ひとつになると、突然立体化するのだ。この瞬間を体験すると、ほんとうにびっくりする。人間の眼はなんて不思議なんだろうと感嘆せずにいられないだろう。

この実験で驚くことは、もうひとつある。一度像をひとつにまとめられるようになると、次に顕微鏡を覗くときにはかなりの確率で最初から像がひとつに統合されて見えるということだ。思うに、世界はそういうふうに見えるはずだということを脳が学習するので、無意識に焦点を調節するのだと思う。このようにして人間は、新しい機能と識別力を手に入れるのだろう。

ひとこと添えておくと、最初から像がひとつにまとまって見えるという人は(多分、そういう人が大半だろうが)、ここで書いた訓練を逆に応用してひとつの像をふたつに分けてみる実験をしてみよう。きっと像は分かれてみえる。それをもう一度ひとつに統合してみてほしい。なにが違っているだろうか?

こうした実験は、赤ん坊が視界を獲得するとき、ふたつの眼を使ってどのように空間の認識を得るか、の追体験といえるのではないかと思う。おそらく赤ん坊の眼は、単眼で(焦点を合せて)何かがみえるようになった後からも、相当な学習を行うまでは空間を認識出来ないだろうと思う。数え切れないほどの試行錯誤を繰り返した後で、ようやく彼は空間を識別できるようになるだろう(つまりふたつの像をひとつに統合する)。そしてその時、自分自身が立体的な(物理的な)存在であり、空間に対して絶対的な大きさと相対的な位置を占めているという認識を獲得するだろう。彼は「前後」という概念を理解する。「上下」は重力との関係によって理解される。ここから「左右」という概念を獲得するには、さらに複雑で洗練された学習が必要となろう。ヒトはどうやってその習得に成功するのだろうか。

フェルデンクライスの方法は、単眼の顕微鏡を使う時にも助けになりそうだ。顕微鏡でプレパラート上の物体を観察する時に、「片目でレンズを覗き、片目でノートを見て、観察した像をスケッチする」ということを学校で教えられた人は多いだろう。慣れてくると、顕微鏡を通して見える像がノート上に投影されて見えるので、それをなぞってスケッチする。学校では普通、どうしたらそんな芸当が出来るようになるか教えてくれないから、出来ない人は顕微鏡が嫌いになるかもしれない。しかし、これも先のメソッドを応用して、しかるべきポイントに焦点を持ってくることで可能になるだろう。必要なのは、像をどのように統合するか、あるいは分離したままどのように重ね合わせるかを、脳に学習させるための訓練である。その像は「正しい」のだと脳に納得させるテクニックである。

紙を丸めた筒を作って右眼にあて、筒を通してそのむこうにあるものを見る。左眼で手のひらを見る。紙の筒と手のひらの端を接触させると、てのひらに穴があいて見える、という遊びをされたことがあるだろう。これと同じことを今、私たちは積極的に学習しようというのだ。

付記:フェルデンクライスについて知りたい方は、次のウエブサイトへどうぞ。「フェルデンクライス研究会
上記のストローの実験は、「脳の迷路の冒険 -The Case of Nora-」(壮神社 1991 M.フェルデンクライス著 安井武訳)に載っている。

姪っ子が「今日の日はさようなら」を歌っていた。でも、歌詞がちょっとおかしい。「いつまでも、かえるとこなく…」。なんと禅的な歌であろうか。涙流れて止まず。

Sさんは、在日外国人向けの学校で日本語を教えている。この間一緒に、越中宮崎海岸にヒスイ拾いに行った。2.5センチくらいの石をひとつ持って帰った。宝石質とはいわないが、淡いエメラルドグリーンの爽やかなヒスイだ。
授業中、生徒たちにその話をすると、いろいろな質問がでた。その砂浜は緑色ですか、とかそれぞれにイメージを膨らませたらしい。次の授業に拾ったヒスイを持っていくと、中国人の生徒がこう言ったそうだ。
「先生、この石なら中国にたくさんあります。是非、中国に来てください」

それはそうでしょうけど…。


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