ひま話  (2002.8.11)


今年の夏は、いつもより暑さが身に沁む。おまけに気分が感傷に傾く。ついつい昔のことなど妙に鮮やかに思い返したりする。寿命であろうか?先週の朝は広島の原爆記念式典の実況をラジオで聞いた。すると、昔見た「二人のイーダ」という映画のことを思い出し、さだまさしの「祈り」(この町がかつて 燃え尽きたときに 私たちは誓った 繰り返すまじと…)の歌声が響いてきた。ついでに「風の篝り火」(水彩画の陽炎のような…)の旋律が湧いて、先日の祭りの夜の映像に重なった。
高岡の七夕祭り高岡では、毎年8月の上旬に七夕祭りが行われる。駅前からのびる商店街のアーケードに沿って、たくさんの七夕飾りがゆれている。丈、10余mの竹に短冊と紅いともし火が懸けられて、夜ともなれば、エリアーデの幻想小説に出てきそうな、別世界のあわいが現出した気分に誘われる。すず風吹く通りに夜店が出て、着物姿の若い人たちがそぞろ歩いている。しかし私は、体はその場にいながら、心はまた別の瞬間を追想している。中学生に戻ってキャンプファイヤーの周りに座り、「シャロム・シャペリ」を歌っているのだ。緑の星ふたつ寄り添う 離れても離れても寄り添う。それからメロディは、星影さやかに…に移る。短冊に願いをこめて川に流せば、天上まで流れて願いがかなうという。牽牛と織女は、今宵手を携えて乳河を渡る。
夜、車で高速道路を飛ばしていると、あちこちで花火が上がるのを見る。さっきまで140キロ巡航で連なっていた車の波が、申し合わせたように速度を落とし、空高く散る光のスフィアを揃って眺めているのだと気づくと、妙にこの世界に連帯を覚えたりする。稲垣足穂の「スター・メイカー」や「星を売る店」を思い出す。ストロンチウムの赤、バリウムの緑。神戸、中山手通りの夜。どう考えても変だ。

昨日は、散らかし放題の部屋を片付けて、クーラーをかけ、寝転んでフェルデンクライスをしながら、野田幹子のCDを聞いた。これまた、なぜか宮崎駿の「紅の豚」の冒頭のシーンがラップしてきた。半ば草臥れた、もう若くはない中年の豚が、誰も知らない島の入り江で、世捨て人のようにまどろんでいる。ラジオからやけにテンポの遅い「桜んぼの実る頃」が流れている。この歌は長い間、私の愛唱歌だった。え・だむ・ふぉるちゅん・の・め・とんと・ふぇるて…。名前はもう忘れたが、南フランスのシャモニーに近い、アンジェとかいう古い町の酒場で、若い私は調子に乗ってこの歌を歌い、相手のフランス人家族に喜ばれながら、しっかり発音の手直しを受けた。加藤登紀子の歌は、覚えたものよりかなり緩くて雰囲気も違うのだが、暑く気だるい夏にはこの方がぴったりくるかもしれない。それにしても、いつから私は豚になったのか。本人が気づいてなかっただけか。
今日、葉うらをそよがす風は、はや秋の風だ。半月すれば、風の盆が来る。

先月来、前島某という方の集めた標本が所々で売りにでている。有名なコレクターだったそうだが、私は識らない。標本会の場で聞いたお話をまとめると、埼玉に住むお寺さんで、横浜に標本室を持っておられた。鉱物採集は戦前からの趣味で、関東の無名会に属して活躍されたという。集めた標本は3000種、数万点に及ぶ。一人の人間がなにかに夢中になって、長い年月ひとつの目的にいそしんだ時、どれだけのことがなされるか、氏のコレクションはその証となるものだろう。整理された分から順に売りに出されており、夏から秋にかけて少しずつ各地に散っていくのだろう。これから数え切れないほどの人が彼の標本を自分のコレクションに加えることだろう。そうして種は次の世代に受け継がれるのだ。私も数点を手に入れた。「前島鉱物標本室」のラベルが感傷をくすぐってやまぬ。

上の写真はそのひとつで、「食い違い石」という。メノウの球果だが、なめらかな球にならず、中央部分に断面があって、そこから相互にずれた形をしている。成因を考えると、メノウの球が割れてズレてくっついたと見るのは不自然で、多分、母岩にあった丸い空洞が地割れなどで少し滑ったところに、メノウの成分が流れ込み、こんな形に固まったのだろう。青森県市浦村相内太田川産。800円。採集年月と採集者名が記されており、その様子が彷彿する気がしてうれしい。
前島標本は、次は名古屋の即売会(25日、吹上ホール)にまとまって出るという。

波津彬子の「雨柳堂夢咄」の9巻目が出た。最初の話の、茶壷(チャフー)についた子供姿の精がとても可愛らしい。中国では、ひとつの茶壷には、ひとつの種類の茶葉しか使わないものだそうで、この茶壷の精は武夷山の葉を入れないと、「この茶葉よくない茶葉…次はきっとよいお茶を」と文句をいいに出てくるのだ。私は紅茶が好きで愛用のポットがあるが、これからはなるべく同じ葉を入れることにしようかと考えている(すぐ影響される…)。
雨柳堂は骨董屋さんで、この店に集まる品の多くは、買ってゆく人を選ぶ。気に入った人のところに勝手に押しかける品物もある。「うちの店にある物は、みな行くべき所にしか行かないので」と主人公は言う。物と人の関わりはそうありたいもので、鉱物標本も、やはり大切にしてくれる人、値打ちのわかる人のところに引き取られるのが本望だろう。
彼らは、「しまいこまず、出して、愛でて」やらないといけない。私には耳の痛い話。今のところ、このサイトに載せて、いろんな人に見てもらうのが、私の罪ほろぼしである。


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