ひま話  (2005.1.31)


◆月に1、2度、明治屋という食材店に通うのを楽しみにしている。まだ味わったことのない、そして多分これからも味わうことのない、舶来もののお菓子や缶詰や調味料が山のように並んでいる。ぼーと見ていると、なんだかリッチな気分になれる。
それはちょうど図書館の書架を埋め尽くす本の前に立った感慨に似る。知らないものがはてしなくあり、伸ばせば星に手が届くと気づく体験はいつだって嬉しい。野田幹子の言葉が思い浮かぶ。
「太陽の東、月の西へはいつだって歩いていける。なぜなら無限であるわたしたちの意識の拡がりの中は、それ以上に遠いとこへだって行けるから。」
いや。ほんとはそんな大層なことじゃないのだけれど。

私はこの店でいつもチョコレートを買う。新しい扱い銘柄が増えていると、とりあえず味見に手を出すこともあるが、たいていリンツのExcellence70%カカオである。ヴァローナ社の製品を扱っていた頃は、こちらが定番だった。最近はカカオマスのパーセンテージばかり誇示するチョコレートが流行しているが、適量のカカオバターはやはりあらまほしきことかなと思う。

このお店は「嗜好」という冊子を発行している。ご自由にお持ち下さい誌であり、いつも板チョコ1枚で戴いて帰る。お店に通う、もしかしたら最大の理由かもしれぬ。そのへんの商業誌がちょっと太刀打ちできないくらい内容が濃ゆい。もちろん嗜好の問題であるが、私としては、この冊子には品の良さが具わっていると感じられる。言い募れば、品なんてものは出そうとして出せるものでないところに値打ちがある。

もう20年ほど前になるが、野口裕之という整体法の先生が、「自分の弱さを受け入れた人に品が具わる」という意味のことを仰られた。私はそれがずっと心のどこかに絡まっているのだが、明治屋の冊子にもそんなニュアンスがあるように思われる。マイナーゆえの孤高というか、慎み深さというか、冊子としての存在意義やら社内外の評価やら台所事情やらを背負っているのに、それでも背負っていないよ顔をした、静かな冊子作りの気合があり、応援しますぞ、と言いたい気分になる。とはいえ、私が実際にして差し上げられるのは、せっせとチョコレートを食べるくらいのことなのだが。
これからも末永く健全な運営を続けてほしいと祈るものである。

◆「嗜好」最新刊の573号は、鉱物愛好家の皆様にも、お薦め出来る内容だ。
塩の世界と題して、世界各地の塩坑や塩田や塩湖などが紹介されている。小さいけれども多数のカラー写真が付いている。
岩塩鉱山の巨大な坑道跡を利用したポーランドの地下カテドラルの荘厳さ。
あざやかな薔薇色のナトロン湖。その様子は、こんな湖で結晶した塩はきっと花びらのように朱く色づいているに違いないと想わせる。
南米アタカマ砂漠の塩田の奇観。果てしなく真っ白な塩の砂漠…。
世界の塩の産地を訪問して回っている著者の文章は興趣に富み、世の中にはいつでも好きなだけ塩を手にいれられる人たちもあれば、一握りの塩のために命がけの旅をする人々もあると教えられる。ご馳走である塩。交易品である塩。塩にはいろんな物語があるようだ。
(実は一昨日、冊子を飛行機の中に忘れてきたので、いま記憶を頼りに書いている。名称とか少し間違ってるかもしれない)

◆このほかにも、足穂好きには友人の思い出話が載っているし、サン・テグジュペリの「人間の土地」を読み返したい気分に誘うエッセイもある。
別の記事の中でちょっと気になったことがあるので書いておきたい。

ある学者さんへのインタビューなのだが、「小学生の4割は『太陽は地球の周りをまわっている』と思い、3割の子は太陽の沈む方角を答えられない」という新聞記事を取り上げていた。話の流れは、それを知らないのは子供のせいではなく、指導要領で地動説は小学校では教えない、中学校で教えることになっていることに責任があるのだ、という向きに進むのだが、それにしても驚く。

私が小さかった頃は、クイズやなぞなぞが流行っていた。子供向け雑誌のふろくには、なぞなぞブックやら、おばあちゃんの智恵袋が付いていて、子供同士いろんな雑知識をひけらかして遊んでいた。太陽が地球の周りを回っていることは、実感はなくても常識だったのだが、いまはそうではないのだろうか?
知らないのはもちろん子供のせいではない。しかし学校のせいでもなかろう。学校で教えようが教えまいが、いろんな知識が自然に身についてゆく環境があって然るべきではないか。

とはいえ、上の記事をよく読んでみると、どうも話がおかしいことに気づく。
天動説であろうと、地動説であろうと、太陽の沈む方角は同じだ。仮に、小学校で天動説を教えているのなら、なぜ3割の子供たちが太陽の沈む方角を答えられないのか? それとも小学校では太陽や星の運行についてなにも教えないのだろうか。

太陽の沈む方向を答えられない3割の生徒たちと、太陽が地球の周りをまわっていると思っている4割の生徒たちは、どれだけが重複しているだろうか。もし、前者のほとんどが、後者でもあるとしたら、調査の結論は次のようであるべきだ。
小学生の3割〜4割は、たんに太陽の運行に関心がなく、どうでもよいと考えている。
これは指導要領とはまったく次元の異なる問題であろう。

◆私は知らずに書くけれど、もし小学校で天動説を教え、中学校で地動説を教えているとして、そのこと自体少しも間違っているとは思われない。9年間に及ぶ義務教育を通じて地動説を教えないというなら別だが、知識を段階的に身につけてゆくのはむしろ理に適ったことだ。古典物理学を教える前に量子論を教えたりはしない。まず感覚的に受け入れやすい理論を教え、それからおもむろに、一見不合理な(地球が回っているなどという)理論に進む。それを一貫教育の中で責任持ってやるなら、教え方の技術としてむしろ優れていよう。

小学校で天動説を(あるいは単に太陽が空を回るという事実を)教わった子供が、中学校で地動説を学んだら、まさにコペルニクス的思考転換の感動を味わうだろう。物事の解釈にはいくつも切り口がありうるということに気づくだろう。正しいと信じていたことが実は間違っている場合がありうることに目が開くだろう。あるいは人生には古いやり方をごっそり捨てて、新しいやり方を採用しなければならない時があるということを身をもって知るだろう。いいではないか。それが成長ってものだ。

優れた教師であるフェルデンクライスは、正しいやり方も、間違ったやり方もさまざまな方法を試してみて、その違いに気づき、選択の自由を手に入れることこそ、もっとも大切な学習であると語った。
最初から正しい方法で行う人の間違いは、まさに正しい方法でやっていることだ、とも言った。というのは、その人はただひとつの方法しか知らず、選択の自由−人間をほかの動物と区別し、改善の可能性を開くもの−に気づかないからである。

私が小学生の頃、つるかめ算という算数があった。
「うらの池にツルとカメがいます。数を数えてみるとあわせて20羽(匹)でした。足の数を数えてみると、あわせて64本ありました。ツルは何羽いるでしょう?」
といった問題である。
中学校以上の人なら、二元連立方程式をたてて、さらっと解いてしまうだろう。それはそれでよい。しかし連立方程式を使うことが許されないとしたら、どうするか(へんな喩えだが、人生にはそういう展開がままある)。連立方程式を使わないと解けないと信じている人(あるいはこの方法しか使えない人)は解答をあきらめるかもしれない。しかし、つるかめ算という方法があったとうろ覚えている人だったら、問題を解決するためのほかの方法を模索して、なんとか答えをひねり出せるかもしれない。
(注:中学生になると、つるかめ算、旅人算、時計算、倍数変化算といった一連の技術は使用が禁止される。これらの優れて論理的な方法は、突然、異端の烙印を押されて生徒の脳裏から消え去るのだ。しかしこの前知識があるからこそ、問題ごとに個別のノウハウ(論理)を必要としない連立方程式の優秀さ、統合性をはっきりと認識出来るのだ。)

池のツルとカメをあわせて数えられる人なら、ツルだけの数を数えるのは簡単なことである。したがってつるかめ算なんて実人生で何の役にも立たない、と人は言うかもしれない。ましていずれ封印される運命の解法である。
それでも私は思うのだが、つるかめ算と連立方程式の両方を扱える人は、連立方程式しか使えない人より、優れている。
そして、天動説と地動説を共に知っている人は、地動説でしか考えられない人よりも優れている。少なくとも彼は、どちらのアイディアを採用するか、自分で比較検討することができる。
かく、「嗜好」という冊子は、人を随想に導くものなのである。一度手にとってみられたし。


付記:ちなみに中学校の地学の授業では、火成岩と堆積岩のみ教えて、変成岩は教えないという(本に書いてあった)。それは中学校レベルでは、自然界の岩石を先の二つに分類しても十分ことたりるし、変成岩については高校に進んでから学んでも遅くない、という判断によるそうだ。

つるかめ算による問題の解き方:
池にいるのがすべてカメだったとしたら、足の数は20(匹)×4(本)=80本になるはずである。しかし、実際の数は80−64=16本足りない。ここで、カメが一匹減ってツルが一羽増えたとすると、足の数は2本減る。そこで、足の数を16本減らすには、16÷2=8羽のツルがいればいいことになる。
検算:ツル8羽、カメ12匹の時、足の数は8×2+12×4=64本。従って上の考えは正しい。


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