19世紀中葉のアメリカ中西部開拓は、金鉱や石油の発見が大きな原動力となって進められた。広大で豊かな農耕地を求めて西に向かった農夫らに混じり、大勢の山師たちが鉱産資源を追って大陸横断の旅を敢行した。金鉱発見のニュースが伝えられると、たちまちその地は俄か鉱夫の群れであふれ、次の日には新しい町が生まれているのだった。 最初のゴールドラッシュは、1848年、カリフォルニアで金が発見された時に始まった。発見者らはその事実を隠しておこうとしたが、そうはブン屋がおろさない。翌49年になると、一山当てようという人々が毎日のように到着し始めた。そのまま居座った者も多く、彼らは後にフォーティーナイナー(49er)を名乗った。「俺たちゃゴールドラッシュの年にやってきた最古参の開拓者なんだぜ、えっへん」というわけだ(※補記参照)。もっとも大当たりをとって財を築いた者は一握りに過ぎないから、「掘ってもナイナ〜」と茶々が入ることになる。こうして発展した町がサンフランシスコだ。 広大なアメリカ大陸は各地に金が出た。50年代にはネバダやコロラドがラッシュで沸いた。60年代にはモンタナで金鉱が見つかった。そしてサウスダコタでは1874年、ワイオミングとの州境に近いブラックヒルズに莫大な金鉱が埋まっていると報じられたのである。 メイフラワー号が大海を渡り、西方浄土に碇を下ろすはるか以前から、大陸には先住民が生活していた(便宜的にインディアンと呼ぶ)。だから、「この土地は合衆国のものだ」と政府が宣言しても、それは彼らを丸め込むか追い出した上でのお話である。 ブラックヒルズは、インディアンが「パハ・サパ」(黒い山)と呼ぶ聖地だった。サウスダコタの周辺は見渡す限り大草原の小さな家であるが、ブラックヒルズは美しい湖を囲んでパンダローサ・パインの生い茂る、なだらかな丘陵地であった。松林は遠目に黒い絨毯のように見え、そこにバッファローやビッグホーンシープなどの野生動物が生息していた。インディアンにとっては、精霊を感じ、獲物を狩るための大切な土地であった。 ところが条約締結からわずか6年後、探検と砦の建設を口実にして陸軍が保護区に入り込み、金銀鉱の調査を行ったのである。先行する事情はよく分からないが、おそらく聖地に金が出ると察した利巧な投資家がいたのだろう。調査隊はいくつもの鉱脈を発見し、「ブラックヒルズには豊富な鉱物資源があり、林があり、牧畜や畑作にも適する。この土地は白人の開拓に開放すべきである」と報告した。 しかし金鉱が見つかったとなれば、国民は熱狂するし、条約などどうでもよい雰囲気が生まれる。なにしろ年500万ドル以上の産金が期待される大鉱脈なのだ。政府はスー族に使節を送り、ブラックヒルズを600万ドルで買い取りたい、買取りが駄目なら年間40万ドルで賃借したいと、にこやかに条件を提示した。随分買い叩いたものだ。一方、インディアンの方は埋蔵量など知らないが、もとより聖地を譲る考えはない。7000万ドル以下では売らないと返答し、交渉は決裂した。 この段階で、政府はどうあってもブラックヒルズを取り上げる気になったらしい。あるいはこれ以上インディアンの要求に屈しては沽券に関わると決心したのかもしれないし、政治団体の圧力が激しかったのかもしれないが。 インディアン側は、シッティング・ブル率いるスー族に、シャイアン、アロバホなど他の種族も連合して対抗する姿勢を見せた。リトルビッグホーンリバーの沿岸でカスターの第七騎兵隊と衝突、一度はこれを破って勢いに乗った。 こうしてブラックヒルズは合衆国のものとなり、歴史に名高い鉱山がいくつも開発された。中でもホームステイク鉱山は120年以上にわたって採掘が続き、3800万オンスに上る金を産出したという。ブラックヒルズ全体では、4500万オンスの金、1400万オンスの銀が生産されている。 備考:20世紀にはスー族の間に、ブラックヒルズを取り戻そうとする機運が高まった。1978年、議会は土地取得の方法に問題があったこと、最初の条約に定められた男性インディアンの4分の3以上の同意がなかったことを認め、ブラックヒルズと金の代償として9000万ドル、加えて1877年から数えて年5%の遅延損害金をスー族に支払う法律を通した。しかし、インディアンたちの希望はいまも聖地の奪回にあるということだ。 補記:アメリカの白人社会では、その土地へいつ渡ってきたかが、重要な社会的ステータスとして機能した。東海岸では旧世界から一番古くに新大陸に渡ってアメリカの礎を作ったアングロサクソン系プロテスタント教徒の白人(WASP)であることは、生まれながらの特権階級に属することを意味した。古参者が尊ばれること、江戸時代に三河以来の譜代が特権階級を占めたこと、あるいは明治維新以降の元勲の存在に等しい。 |