ベッセマーが製鉄に関わるまで
ヘンリー・ベッセマーは1813年、イギリス、ハーフォードシャーのチャートン村に生まれました。父はフランスの造幣局で鳴らした優秀な鋳造技師。当時ナポレオンの上陸を避けて小さな田舎の村で活字鋳造工場を経営しており、ベッセマーは幼少時から父の工場を手伝いました。少年時代の彼は、専用の小さな旋盤をあてがわれ、思いつく限りの部品やカラクリを作って遊びながら、機械技術に親しみました。進学はせず、工場が彼の学校でした。ベッセマーには天賦の発明衝動と才能があり、若くして、社会に奉仕する発明で身をたてようと決めていました。以来、繊細で芸術的なメダイヨンの鋳造、書籍装丁用の金属型押し機、砂糖きび絞り機の発明、安価なブロンズ粉の生産などに目覚しい成果を上げ、30代半ばには成功した発明事業家として知られるようになりました。彼にとって発明は、生活するための手段であると同時に、心からの充実感を与えてくれる生きがいでもありました。新しい発明を思いつくと、たとえそれが未知の分野であっても熱烈な挑戦意欲を抑えることが出来なかったそうです。彼は特許をとり、あるいは、技術を完全に秘匿しつつ、優れた製品を独占的に製造・販売しました。そういう点では、抜け目のない商才をも備えていたといえるでしょう。
ベッセマーが製鉄に関わるようになったのは41歳のときでした。日本の志士たちがそれを通じて鉄に目覚めたのと同じく、きっかけは大砲でした。ヨーロッパではクリミア戦争が始まり、人々の目はこぞって自国の軍備に向かっていました。当時、大砲の砲身は平滑な内筒を持つ滑腔砲でしたが、ベッセマーは、射程が長く命中精度の高い砲弾を作るアイディアを思い立ちました。それは、円周面に対し接線方向に抜ける穴をあけた弾丸で、発射時に爆風の一部が穴から噴出し、弾丸に回転運動を与える仕組みです(すでにライフルは旋条式になっており、旋回する砲弾の優位性は明白でした)。大砲に溝を切る代わりに砲弾を加工すれば、従来の砲身がそのまま使えるのも有利だと思われました。
彼はイギリス陸軍にこのアイディアを持ち込みましたが、剣もほろろに扱われました。イギリス(の貴族社会)には伝統的に技術蔑視の風潮があり、とりわけ軍隊は保守のカタマリで、町の発明家が何を言おうと聞く耳持たないという態度だったのです。実地試験の機会を与えてくれたのは、海を渡ったフランスのナポレオン3世でした。この皇帝は自身砲術史の大家であり、ベッセマーのアイディアを聞くと、すぐに砲弾を試作するための資金を与えるよう指示しました。ミニエ銃の発明者ミニエ大尉が立ち会い、フランスのヴァンサンヌで試射が行われました。テストはむろん成功でした。しかしその時、大尉は、「テストは申し分なかった。ただ、この砲弾に耐える大砲がわが国にあるかどうか、それが問題だ。」と言ったのです。
この言葉がベッセマーを製鉄に導いたといっていいでしょう。「それなら従来の鋳鉄砲より優れた大砲を自分の手で作ってみせよう」。
彼は1851年の万国博覧会に参加したとき、ドイツのクルップがるつぼ鋳鋼から作った6ポンド砲を目にしていました。それは強靭な鋳鋼の大塊でしたが、非常に高価でした。ベッセマーは、製鉄に関して断片的な知識しかなかったものの、自分ならクルップの鋳鋼に匹敵する、あるいはもっと強い鉄を、より経済的な方法で作り出せるかもしれない、と考えました。それは大きなビジネスチャンスでもありました。とはいえ、この思いつきが将来製鉄界を揺るがす大発明につながろうとは、この時にはまったく予想もしていませんでした。あるいは、もし彼が経験豊富な製鉄技術者だったとしたら、ベッセマー法は生まれてこなかったでしょう。鉄を熟知している者なら予見したであろう至難の道のりが隠されていたからこそ、前人未踏の方法に粘り強く取り組むことが出来たからです。
ベッセマー法の萌芽
強靭な大砲の製造にあたり、ベッセマーはまず銑鉄と錬鉄との混合を試すことにしました。反射炉で銑鉄を溶かし、これにスウェーデン産の錬鉄(木炭銑から木炭精錬した高品質の鉄)を溶かし込めば、銑鉄の硬さと錬鉄の粘さを併せ持った鉄が出来るだろうと考えたのです。これは鋼にほかならず、普通の反射炉では温度不足のため、溶けた湯になりません。しかし、均質で不純物の少ない鉄を得るには、出湯まで溶融状態を保つ必要があります。そこで、反射炉の温度を上げる方法が検討されました。
燃焼室を広げ、より多くの石炭を焚けるように工夫しました。火橋から溶解室末端の降下焔道まで次第に炉幅を狭めることによって火勢を強めました(一般的な反射炉の図は、「鉄と鋼の話1」参照)。さらに火焔に伴って溶解室に入る可燃性ガスを燃やすため、中空の火橋に多数の穴をあけ、熱した空気をファンで送り込めるようにしました。こうして実験室的に作られた鉄は、粒子が微細で抗張力が高く、旋盤にかけると切子が鋼のようにカールしました。ベッセマーはこの鉄で小さな大砲のモデルを作り、ナポレオンに見せました。皇帝は、「いつかこれが歴史的記念物になるかもしれない」と満足の意を表し、アンジュレーム近郊の砲兵工廠で、新しい炉が建造されることとなりました。しかし、ベッセマーがこのときの実験でさらに素晴らしいアイディアを思いついたため(と自伝にはあります)、この計画は立ち消えになりました。彼が考案した新型反射炉は、後にシーメンスとマルタンが開発する平炉の原理を先取りするものでしたが、結局彼の手では完成されずに終わったのです。(備考1)
ベッセマーの新たな着想は、空気と銑鉄との反応だけで鋼(または錬鉄)が作り出せるかもしれない、というものでした。試作した反射炉で銑鉄を溶かしたとき、何片かの鉄が湯よりも高い位置に溶け残っていました。炉壁に跳ねた銑鉄の湯が、激しい送風と酸化炎に触れ、表面が脱炭されて融点が上がり凝固したのです。空気に触れなかった内部の銑鉄は溶け落ち、中空の殻になっていました(いわゆるスカル、スケルトン)。ベッセマーは、熱風と火焔との迅速かつ強力な脱炭作用に驚き、もしかしたら大量の空気を吹送するだけで銑鉄を錬鉄に変えることが出来るのではないかと思いついたのです。要は鉄の中の炭素を溶湯状態のまま効率よく燃焼させることです。この方法が可能なら、スエーデンの錬鉄を溶かし込まずとも、銑鉄だけで質のよい鋳鋼が出来る可能性があります。
「私は新しい方向を与えられた。よく考え抜いた結果、溶融銑鉄に充分に空気を接触させれば、銑鉄を急速に錬鉄に変えることが出来るに違いないと確信した。」と彼は自伝に書いています。
こうしてベッセマーは、いかにして銑鉄と空気を急速に、しかも万遍なく接触させるかという方向に進んだのです。
吹精転炉の誕生
彼は仮説を実証するため、小さなるつぼに送風用の粘土管を差し込んだ装置を作りました。この中に、約5キロのねずみ銑鉄を流し込み、30分間送風しました。その間、るつぼの周囲ではコークスを燃やし、中の鉄を溶融状態に保ちました。出来たものは柔らかい錬鉄でした。これで、空気の吹き込みによって銑鉄を完全に脱炭出来ることが分かりました。彼はこの装置を、銑鉄を錬鉄に転換する炉という意味で、コンバーターと名づけました(備考2)。次の課題は、コンバーターの最適形状と寸法を決めること、そして適当な送風量を見出すことです。
先の実験では外部加熱が必要でしたが、送風圧を上げ、炭素の燃焼(脱炭)を促進させるならば、その熱によって、るつぼ内の鉄を湯に保つことが出来るかもしれません。また熱効率の点から、炉はもっと大型にした方がよさそうでした。
「私は充分に高温の環境にある鉄と空気を触れさせるならば、鉄の中に含まれる炭素が燃え、自ら熱を発するだろうと思った。そして、鉄と結びついた炭素でさえ燃えさせて、銑鉄を錬鉄に変えることが出来ると思った。」
彼は、炉の大きさや形状をさまざまにアレンジしてみました。送風中にスラグ(溶湯の上部に浮かんでくる不純物を取り込んだ鉱滓)が飛び出すことが分かったので、コンバーターの形を高さ1.2メートルの円筒形にし、平らな天井を載せて、その中央に孔をあけました。こうすれば孔から火焔と火花だけが噴出し、スラグが飛び出すことはまずないでしょう。彼は、この装置に約300キロの溶銑を流し込み、10〜15ポンド圧で送風を始めました。最初のうち実験は平穏に進みました。予想通り、炉の天井からは、火焔に混じって火の粉が噴出しています。ところが10分ほど経過した頃から、突然雲行きが怪しくなってきました。噴出する火花は刻一刻と激しさを増してゆきます。天井の孔から、白色の火焔が大量に噴きあがりました。それから爆発が始まったのです。溶融スラグが飛び出し、さらに溶融した鉄が噴水のように空中高くしぶきとなって散りました。炉はまるで噴火した火山のようで、爆発のために揺れ動きました。誰も炉に近づいて送風を止めることが出来ず、呆然と成り行きを見守るほかありません。
さらに10分ほどすると、うそのように火焔と爆発が収まりました。燃焼反応が終わったのです。コンバーターの中に残った溶融金属を取鍋にあけてインゴットにしてみると、完全に脱炭された錬鉄になっていました。
この実験から、燃焼熱だけで錬鉄を溶融状態に保てることがわかりました。しかし、溶けた金属が炉から飛び出すようでは駄目です。激烈な反応を制御出来なければなりません。そこで、羽口(送風口)を減らしたり、口径を小さくしたり、送風圧を下げたりしてみました。今度は必要な温度が得られません。あるときには、羽口径を小さくして一時間も送風を続けましたが、装入したねずみ銑のほとんどが通常の予備精錬で得られる白銑の凝固体に変わってしまいました。
あれこれ試した後、ついにベッセマーは、激しい反応こそ新しい精錬法の要であり、絶対的必要条件であると結論しました。「この方法を成功させるためには、溶融金属の温度を錬鉄の融点よりもずっと高くしなければならない。高温を確保するには、強力な空気の流れを溶銑に吹き込む必要がある。空気は溶銑の全体に散らばり、その無数の気泡の一つ一つで炭素と酸素の燃焼が行われる。燃焼は急速に進み、つぎつぎに爆発を引き起こす…」
こうして、後にベッセマー法と呼ばれる溶鋼精錬法の原理が見出されました。このプロセスの特徴として、溶銑を注いだ炉の底から空気を吹き込む「底吹き」が挙げられますが、誰にこんな方法が思いつけたでしょう。底吹きによって溶銑は激しく攪拌され、空気とまんべんなく接触し、爆発的な燃焼が実現します。空気を吹き込むだけで精錬が行われ、しかも精錬された錬鉄は、反応の終りまで湯状に保たれます。鉄と不純物は綺麗に分離され、均質な錬鉄の大塊が生まれます。外部からの加熱はまったく必要なく、その上一度に精錬できる量はパドル法をはるかに凌駕していました。要する時間はわずか30分。ベッセマー法の反応速度はパドル法の実に50〜100倍に達するのです。まさに画期的な発明でした。
彼の心眼には、この方法によって、錬鉄でも鋼でも自在に作り出せる様がはっきりと映し出されました。送風時間を加減すれば、望みの炭素当量の鉄が容易に得られるでしょう。ベッセマー法は、まったく新しい錬鉄の精錬法であり、鋼の精錬法でした。さらにその中間の素材、錬鉄ほど柔らかくなく、鋼ほど硬くない、鍛接性に富む粘くて強度のある半鋼(セミスチール)の製造法にもなるでしょう。半鋼は摩滅しにくく、抗張力は錬鉄より3〜40%も高いのです。従来、錬鉄で作られていた構造材や鉄道のレールは半鋼に置き換えられ、飛躍的に性能が向上するでしょう。同じ性能なら錬鉄より少量で済み、一方従来のどんな鉄鋼よりも安価な素材なのですから。ベッセマー法には明るい未来が広がっている、と彼は想像を羽ばたかせました。
未完成のまま発表
しかし、精錬プロセスはまだ完成したわけではありません。激烈な爆発を制御する問題、有利な炉のサイズや送風量の問題、空気の吹送によって不可避的に発生する無数の気泡や過酸化の問題。その他多くの課題について、まだこれから解決法を見出していかなければなりません。ベッセマーはもちろん着実に克服してゆく覚悟でした。
この時点で、彼は新しい方法が「井の中の蛙」でないこと、学術的に正しい理論の上に成り立っているのかどうか、客観的な意見を知っておく必要があると考えました。そこで技術界の重鎮ジョージ・レンニーに手紙を書き、コンバーターでの作業を見ていただけないかと依頼しました。レンニーが田舎町の工場を訪ねてきました。そしてたちまち新しい精錬法に強い感銘を受けました。
「これはとても重要な発明です。」とレンニーは興奮した口調で話しました。「来週チェルトナムで大英科学技術振興協会の講演会が開催されます。是非この発明を発表してください。私の権限で真っ先に発表の機会を作ります。私は講演会の議長なのです。」
ベッセマーは狼狽しました。そんな晴れがましい場に立った経験がなく、プロセスも未完成でした。しかしレンニーは譲りません。「発明の骨格はすでに出来上がっています。些細な問題点は製鉄業界がなんとでもします。大切なのはこの福音を一日も早く発表することなのです」
とうとうベッセマーも同意させられました。
こうしてベッセマー法が世に問われることとなったのです。ベッセマーはレンニーに励まされて原稿をしたため、チェルトナムに臨みました。講演のタイトルは、「火なしでの鍛鉄と鋼の製造」。劇的効果を十分に狙った演題に彼の意気込みが感じられます。その挑戦的な−そして飛び入りの−講演は、全国から集まった来場者を大いにひきつけました。ただし、ほとんどの人は、そんなことが可能だとは少しも信じていませんでした。発表の前日、ホテルで朝食を摂っているベッセマーの前で、ある大手製鉄メーカーの社長がこう言っているのが聞こえました。「明日の講演会には是非いらっしゃらなければなりません。お笑い草が聞けますよ」
講演は、お笑い草どころではありませんでした。ベッセマーは、革新的な精錬法について明確なビジョンを打ち出し、新しい方法がもたらす未来を、生き生きと描写して見せました。精錬法の原理、その利点について、自ら試行錯誤を繰り返してきたものだけが持つ深い説得力を込めて語りました。講演の始めにあったクスクス笑いはすぐに消え、聴衆は息をひそめて彼の言葉に耳を傾けました。終わると万雷の拍手。製鉄界の重鎮の一人、ナスミス卿が立ち上がり、「これこそイギリスの真の金塊だ」と賛辞を送りました。翌日のタイムズ紙は、彼の原稿を一字一句の修正もなしに掲載しました。ベッセマーは一夜にして時の人となったのです。大手製鉄メーカー数社が莫大な特許料を支払い、この新しい製鋼法の導入に名乗りをあげました。お笑い草、と言った社長が、その一番手でした。
備考1:当時のヨーロッパ砲の主流は青銅砲で、ナポレオン3世はその熱心な支持者でした。後にクルップの鋳鋼砲がドイツ軍に取り入れられて後も、長く青銅砲にこだわっていたといいます。ベッセマーが新型反射炉の開発から方向転換した経緯には、そのあたりの事情が絡んでいたかもしれません。(戻る)
備考2:ベッセマー法で使われる西洋梨(ビルネ)型の独特の炉を、ベッセマーはコンバーター(転換炉)と呼びました。この炉は、溶銑の注入、溶鋼の取り出し時には傾けることが出来、精錬時には立てた状態で使う回転式の炉で、日本では転炉と呼ばれています。(「ひま話−よもやま」のページに使っているポンチ絵がそれ) (戻る)
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