イリノイの蛍石の話     −ケイブ・イン・ロックの消息


 

私の手元に、アメリカから届いた世にも美しい宝物があります。それは、イリノイ州(シカゴやゲイルズバーグ、スプリングフィールドのあるところです)の鉱山坑夫が、地下数百メートルという暗い穴の底から、はるばる地上にもたらした、蛍石と呼ばれる鉱物の結晶標本です。(これがそう

手のひらに乗るほどの大きさのこの標本を、私はついこの間手に入れたばかりです。それは、今、デスクスタンドの白熱灯に照らされて、こくのあるビールのような黄金色を浮かび上がらせています。ババリアの小暗い森林地帯で見つかる蜂蜜色の蛍石と比べるとやや軽やかな、スペインのレモン色をした蛍石よりは濃い、鮮やかで艶のある生き生きとした色の蛍石です。
虎斑(とらふ)模様の濃紫色の斑点が、結晶の表面を梨子地に飾っています。立方六面体の結晶同士が重なり合って、複雑な山稜と谷間を形作り、鉱物界の幾何学法則に忠実な、しかし興趣に満ちた姿で私の目を楽しませてくれます。今夜はひとつこの蛍石にまつわる話をしましょう。

アメリカの中でも、もっともアメリカらしい土地といわれる中西部、5大湖の南西。
夏さわやかな緑に包まれ、秋あざやかな紅葉に燃え、冬には厳しい寒さにふるえるところ。
イリノイ州南部と、隣のケンタッキー州にまたがる一帯は蛍石の大産地です。この国最大の鉱脈が、断層に沿って数キロにわたり地中を走っています。鉱脈の一部は地表まで顔をのぞかせています。これら巨大な鉱脈を追って、大小あわせて200以上の鉱山が開かれました。坑夫たちは170年間に亘り、ほとんど無尽蔵の大地の恵みを、何百万トンとなく、明るい空の下へ運び出してきました。掘り出された蛍石は、地上の光を初めて浴びて、なんと美しく輝いたことでしょうか。

19世紀の終わりから現代に至るまで、掘り出された蛍石の多くは、こなごなに砕かれて、鉄鉱石精錬用のフラックス(融剤)として利用され、熱くたぎる溶鉱炉の中に投じられてゆきました。フッ素とカルシウムの化合物である蛍石は、鋼の精錬にはまたとない霊薬だったのです。かくて大量の蛍石が工業原料として失われてゆきました。それでも何万個、いや何十万個という蛍石のかけらが、鉱物標本として保存され、長い年月にわたって人々の目を喜ばせるのを、妨げることは出来ませんでした。人々は、蛍石をただの消耗品ではなく、素晴らしい大地の芸術作品として認め、その姿を惜しんだのです。彼らは、蛍石の静かに澄んだ爽やかな色合いを愛しました。サイコロのような結晶が互いに接し、競いあって作り出す、世にも不思議な姿を愛しました。そして、自分たちの家の、もっとも目立つ場所に飾って訪問客たちに自慢し、あるいは地下室のガラスケースに収め、夜毎誰にも邪魔されずにこっそりと眺めては、この不思議な石を誉め称えたのです。

深夜、暗闇の中で紫外線を受けて青く蛍光するイギリスの蛍石。スイスアルプスの山懐に抱かれて、透明な水晶に寄り添うようにひっそりと花を咲かせるピンクや薔薇色の蛍石。極東ロシア、厳寒の地に生まれた、無色透明で氷よりなお冷たい蛍石.....。鉱物愛好家のキャビネットには、こうした世界の名品に混じって、必ずイリノイの蛍石が安息の地を見出していました。作家ブラッドベリやブロティガン、リチャード・バック、フィニィを輩出した国土に育まれた、澄んだ泉の水のような蛍石、夏休みと、下ろしたてのテニスシューズと、アイスキャンデーとソーダ水と複葉飛行機が似つかわしい、涼しげで、どこか懐かしい色をした蛍石が、そこにありました。

そして、彼ら愛好家の系譜は、現代の我々の血に脈々と受け継がれています。今でも土産物屋さんや、ちょっとした珍しいオブジェを扱う自然志向のショップでは、紫や水色のガラスに似た綺麗な八面体のかけらを見つけることができるでしょう。これは蛍石の塊が、特定の面で整然と割れる性質を利用して、職人たちが丁寧に割り開いて作り上げた遊び心の現れです。どこで採れたとも知られずに買われてゆく、これら宝物のほとんどは、イリノイ州やケンタッキー州の蛍石鉱山から世界中に広がっていったものです。鉱物標本の専門店へ行けば、「ケイブ・イン・ロック、イリノイ、USA」というラベルのついた標本が眼に止まるでしょう。ケイブ・イン・ロックは、この地方の蛍石の代名詞ともいえる、主要産地のひとつでした。

蛍石の美しさに惹かれる気持ちは、昔の人も、我々も、少しも変わるところはないと思われます。

 


イリノイ州の南部とケンタッキー州の州境をオハイオ川がゆるやかに東西に流れています。川はやがて大きく蛇行し、カイロでミシシッピ川に合流して南へと向かいます。このオハイオ川をはさんだ一帯には、昔から蛍石のかけらが沢山転がっていたようです。

イリノイ州は、アメリカの多くの土地がそうであったように、もともとインディアンたちの土地でした。彼らは、蛍石のかけらを刻み、さまざまな地上の生き物やものの形を作って楽しんでいました。そのころ、緑色や紫色、黄色、赤、すみれ、水色など、さまざまな色あいの透明な蛍石のかけらは、そこらを探して歩けば、いくらでも拾うことができたのでした。

大陸を白人たちが開拓し始めた時代になっても、蛍石は簡単に拾うことがことができました。この地方で最初の(白人が経営する)鉱山が開かれたのは、1835年のことでしたが、きっかけは、ケンタッキー州マリオンの近くで、畑仕事の最中に地面の中から蛍石や方鉛鉱の層が見つかったことだったといいます。鉱山の目的は方鉛鉱にわずかに含まれる(0.15%くらい)銀を抽出することにありました。当時蛍石は工業的にも、あるいはその他の用途にしても何の使い道もないただ綺麗というだけの存在でした。

1839年にはイリノイ州最初の鉱山が開かれましたが、きっかけはやはり畑の中から発見された鉱石です。翌年にも隣の畑から鉱脈が見つかりました。1842年にはロジークレアの近くの農場から蛍石と方鉛鉱が見つかり、これらの土地は、19世紀中頃の中心的な鉱山地帯となりました。最初のうちは方鉛鉱を鉱石として、ほそぼそと鉛や銀を精錬していたのですが、南北戦争が始まると鉛の需要が急激に増大したため、鉱山は俄かに活況を呈することとなりました。けれども戦争が終わると需要が冷え込み、鉛の価格はみるみる下落してゆきました。一方採れた鉱石を輸送するための手段が整っていなかったこともあって、ほとんどの鉱山がその後10年のうちに相継いで閉鎖されてしまいました。ただ一つ、名高いロジークレア鉱山だけが操業を続けることができました。
この鉱山はオハイオ川のすぐほとりにあり、水運に恵まれていたため、価格競争力があったのです。(ケンタッキー側の鉱山の多くは、鉱石をワゴンに載せて長距離を運ぶ必要があり採算が合いませんでした)
1880年代を迎えると、鉄の精錬技術が発達し、この地域に大量に埋蔵されていた蛍石は一躍工業原料として注目されるようになりました。
それまで道路用の砂利くらいにしかならなかった蛍石に突如市場価値が生まれ、イリノイ−ケンタッキーの鉱山は、合衆国でもっとも注目を浴びる蛍石生産地へと華麗な変貌を遂げることとなりました。このあたりは、合衆国屈指の複雑な断層地帯で、いたるところ途切れた石灰岩の裂け目に鉱泉が通って、蛍石その他の大規模な鉱脈を形作っていたのです。鉱泉は砂岩にぶつかって止まり、レンズ状の鉱脈をつくりました。脈は地表に近いところからかなりの深部まで続き、特に地表付近では、いわゆる「グラベル・スパー」(脚注参考)を採ることが出来ました。グラベル・スパーはその下に鉱脈が走っていることを示す徴しでもあり、これを目印にたくさんの鉱脈が発見されました。とりわけロジークレアの豊かな鉱脈は、19世紀を通じて、この地方の主要な採鉱資源となりました。脈は、もっとも地上に近い部分では厚さが6メートルもあり、平均しても2、3mの幅を持っていました。深さ100mから200mあたりで、脈の底部が方解石層にぶつかって狭くなるのが特徴でした。多くの鉱山がこの鉱脈を巡って開発されました。

初期の鉱山では、深さ2,30mの縦坑(シャフト)を掘って、はしごを下ろし、脈に当たると、横坑を掘り、ロープを結んだバケツに鉱石を入れて滑車を使って運び上げるという、簡素な採鉱が行われていましたが、脈を追って地下数十メートルから100メートルの深さまで切羽が降りてゆくにつれて、採鉱法も機械化され、縦穴には巨大なヘッドフレームが建てられるようになりました。デイジー縦坑やブルーディギンズ縦坑は、隣接した同じ高さの鉱層で、地下坑道でロジークレアとつながっていました。坑道はおよそ1.5kmにわたって地中をうねうねと走り、その間途切れることなく、連続的に採鉱できたといいます。膨大な量の蛍石鉱石が掘り出されました。ロジークレアの町は、鉱山会社の支配化で繁栄に酔い、活況に沸きました。
そして第一次世界大戦。蛍石の需要は、かつて誰も想像しなかったほどに膨れ上がりました。この時期には、新しい鉱脈が熱心に探索され、さらに数多くの小規模な鉱山が開発されました。

ところが.....。
1923年、未曾有の活況に沸く鉱山に、大災害が起こりました。
ロジークレア鉱脈に連なる水平坑道は、当時すでにかなりの長さまで掘り進められていましたが、その一端がオハイオ川の水脈にぶつかってしまったのです。流れ出した水は、地底深く穿たれ、互いにつながっていた坑道を次々と水没させてゆきました。施設をサルベージする復旧作業のかたわら、毎分1万2千リットルの湧水を排出する強力な揚水機が導入され、休む間もない排水作業が続けられました。その甲斐あって翌年の春にはロジークレアの支脈であるブルーディギンズを掘る坑道からは水が引きました。けれども、採掘の中心であり、長く深く、網の目のように坑道が広がったフェアビュー・ロジークレア鉱山は水没したままでした。

さらに1937年には、追い討ちをかけるようにオハイオ川の水位が異常上昇しました、この地域の鉱山は、どこもみな、地上施設が損壊し、約2カ月間の操業停止を余儀なくされました。道路も町も鉱山のヘッドフレーム(文末参照)までも冠水し、輸送手段はボートだけ、通信手段は短波放送だけが頼りといった有様でした。結局、ロジークレアから水が引いたのは、1940年に入ってからのことで、その間17年間というもの、かつて繁栄をきわめた鉱山は水底で深い眠りについていたのでした。

ロジークレアが災害のため壊滅的な打撃を受けている間に、採鉱の中心はヒルサイドやデイジー(ロジークレアから2キロほど北)、またケンタッキー州の鉱山へと移っていきました。そしてかのケイブ・イン・ロックの時代がやってくるのです。


第一次世界大戦以降、イリノイ州で最も重要な採鉱地と目されたのが、先に名前の出たケイブ・イン・ロック地区です。ロジークレアの北東、オハイオ川の北岸にあり、蛍石地帯としてはもっとも北東の端にあたります。そのため、開発はほかの地域よりも遅れましたが、ここには合衆国最大の鉱床が眠っていました。ロジークレアとは違って、石灰岩の岩床に頁岩の層がかぶり、上昇する鉱泉をせきとめて、石灰岩層とのあいだに水平な(あるいはやや傾いた)2−6mの鉱脈の層を作っていました。いわゆる接触交代鉱床です。その長さは6キロにも及びました。初期の主産地、スパー・マウンテンの急斜面は、鉱脈が地上近くまで上がってきている場所で、1920年頃から開発が進み、二次大戦にかけて最盛期を迎えました。その後も斜面を削って、70年代中頃まで稼動を続けました。

採鉱の方法について、少しだけ書いておきましょう。(後の話の伏線として)
ケイブ・イン・ロックのような接触交代鉱床では、チャーンドリルを用いた探鉱(試掘)が効果的で、一次大戦頃には盛んに用いられました。二次大戦以降はダイヤモンドコアドリルを使った探鉱がメインとなりました。コア穿孔は脈状の鉱床探査に向き、きわめて正確に鉱脈の位置を特定できます。速度も速く、m/深さあたりのコストにすると、もっとも経済的な方法です。この地方に多い脈状の鉱床(ロジークレアなどがこのタイプ)では、脈の厚さが数センチから20mくらいまで頻繁に変化したり、断層で切れたりするため、マルチプルコアリング(複数のコアを開けて探鉱する方法)は、なくてはならない探鉱法でした。断層による相対的なずれを計測することができたからです。また、コアドリルは深さ500mまで掘削でき、地表近くの浅い層にあった蛍石が採り尽くされていったこの時代には、より有効な探鉱法となりました。(普通は、200mくらいまでで採鉱しました。そのあたりで脈の底に当たることが多かったのです)

採鉱には、主にルーム&ピラー法が採用されました。これは縦坑から地中の鉱脈に達した後、脈を追って水平方向に掘り進めながら、鉱石の一部をアーチ状の柱として残し、上部の岩盤を支えるもので、ケイブ・イン・ロックのような水平に伸びる鉱脈に向いた採鉱法です。こうして掘ったルームの上部または下部を掘るときには通常、高さ方向に約30m以上の間隔をあけて進みました。丘の中腹などで鉱脈が見つかると、縦坑を掘らず、横坑から脈に接近して、すぐにルーム&ピラー法を使いましたが、これを「オープン・ストーピング」と呼びます。通常、鉱石は縦坑から運び上げるのですが、有名なクリスタル鉱山では横坑と縦坑から鉱石を運び出しました。先に名をあげたスパー・マウンテンは露天掘りで、昔掘った古い鉱山のピラー(鉱柱)を取り崩し、およそ30m分の表土を取り除いて鉱床を掘りました。

もちろんケイブ・イン・ロック以外でも、数多くの鉱山から、蛍石が採掘されました。イリノイ-ケンタッキー州の蛍石鉱山は、大戦後も盛んに稼行され、合衆国内で生産される蛍石の大部分を供給しました。1880年から1980年にかけて産出した蛍石はおよそ12百万トンにのぼるといいます。蛍石だけではありません。この地方では、副産物として、大量の亜鉛や鉛、また重晶石(硫酸バリウム)が採れました。また方鉛鉱の鉱石からは銀が、閃亜鉛鉱からはカドミウムやゲルマニウムが抽出されました。
砕石加工のときに生じた蛍石の破片は、州道のいたるところで、舗装用の砂利として使われました。鉱山に通じる道は、ほとんどが蛍石を敷き詰めたもので、その上を走ると、紫色の綺麗な蛍石がキラキラと光って、オズの魔法の国を旅するようだといいます。

20世紀初頭から現代までのイリノイ−ケンタッキー地域の主要な鉱山を挙げてみましょう。

イリノイ州側 ケンタッキー州側
アナベル・リー#1
ブルー・ディギンズ
クリスタル#1
デイジー
デントン#1,3
ガスキンス#1
ヒルサイド
ミネルバ#1
ロジークレア
スパイビー
ヴィクトリー#1
ウエストグリーン#1
バブ
ビッグ・フォー
コロンビア
ホッジ
ハットソン#2
クロンダイク
ラファイエット
メリー・ベル
メンフィス
ピグミー
イエンデル

これらは、ほんの一部にすぎませんが、私たち鉱物愛好家にとって親しいのは、やはりイリノイ側ケイブ・イン・ロックにある鉱山でしょう。イリノイ-ケンタッキー蛍石標本の多くが、当地のラベルをつけているように、このあたりでは、とりわけファンタスティックな結晶が産出したのです。(蛍石鉱石の大部分は結晶ではなく、塊状や脈状で産出します)

たとえば、1934年から1976年まで操業されたクリスタル鉱山は、その名前の通り、美しい結晶が採れたことで有名です。

アナベル・リー鉱山の名前は、エドガー・アラン・ポーの同名の詩に由来するといわれ、ミネルバ鉱山の北西6キロにありました。ケイブ・イン・ロックに多い接触交代鉱床で、縦坑は300mの深さがありました。ここもコレクター向けの美しい標本が産出しました。
安い外国産の蛍石に対抗できるコスト力を持った、国内で唯一の会社である、オザーク・マホーニング社が経営し、1995年まで操業。合衆国最後の蛍石鉱山のひとつとなりました。

ミネルバNo.1鉱山こそは米国最大の接触交代鉱床を掘る大鉱山でした。この鉱脈が発見されたのは1940年のことですが、その経緯には、愛すべきエピソードが残っています。
鉱脈がまだ知られていなかった頃、ミネルバ・オイル・カンパニーは、この地域の探鉱を盛んに行っていました。鉱脈の発見者となる当時のチャーンドリル・オペレータは、第三直(深夜勤務)を志願していました。そのわけは、ドリルが動いている間、ガールフレンドとこっそりおたのしみに耽るのに都合がよかったからなのでした。
さて、月日が経ち、鉱脈はいっこうに見つからず、会社としてはそろそろこのエリアから手を引くべえか、と考えるようになりました。困ったのはオペレータで、もしそうなったら深夜の逢引きが出来なくなってしまいます。どうしたらいいのか。危機を脱するため、彼は、貯鉱場から高品位の蛍石のかけらをバケツに詰めて持ち出し、試掘したサンプルにまぶすという壮挙に出ました。(鉱山を高く売りつけるために良質の鉱石を故意に混ぜるというテは、よく知られていて、俗に「塩漬け」といっていました)
サンプルを検査した地質学者は、新鉱脈が見つかったと判断し、オペレータに続行を命じました。そうして次に開けられたドリル穴が、なんと、ミネルバNo.1で最初の鉱体を貫いたのです。かくて、万事がうまく運びました。めでたし、めでたし。(その後、オペレータとガールフレンドがどうなったか私は知りません)

鉱山会社は1942年に200mの縦坑を掘り、翌年にかけて南西部の鉱体を採掘、44年からは北西へも横坑を伸ばしました。ここには蛍石だけでなく閃亜鉛鉱の鉱体があって、蛍石の価格が輸入品に押されて下落していったときも、操業を閃亜鉛鉱主体にシフトすることで、30数年間連続して稼動し続けることが出来ました。75年、鉱山は別の会社に売却されましたが、所有者を転々と変えた挙句、88年、オザーク・マホーニング社の手に渡りました。マホーニング社は、ほぼ一年を費やして湧水をくみ出した後、翌年から採掘を再開しました。同社は、他の鉱山会社が発展途上国とのコスト競争でどんどんふるい落とされていく中で、合衆国の牙城として90年代になっても現役の鉱山を抱えていた会社でした。けれども、95年、とうとうこの大鉱山も鉱脈が尽きました。坑道の深さはすでに500mに達しており、最後にはピラー(鉱柱)まで採り尽くした後、閉鎖を余儀なくされました。(脚注参照)

ここは稼動期間が長く、沢山の蛍石標本が供給されました。もっとも素晴らしい標本のいくつかは、ここから産出したものです。77年以前の標本にはミネルバNo.1のラベルが、88年以降のものにはマホーニングNo.1のラベルがついているはずです。

その他、いくつかの鉱山についても簡単に触れておきましょう。

ケンタッキー側でもっとも多くの鉱石が取れたのは、ピグミー(小人)鉱山です。ここでは重晶石もたくさん採れました。

バブ鉱山は、20世紀始めから精力的な調査が行われてきたバブ鉱脈を掘る3つの大鉱山のひとつでした。1970年に行われた調査では、今なお100万トンの蛍石が埋蔵されていると報告されています。この鉱山は4つの縦坑を使って200mの深みから5万6千トンの蛍石を運びあげました。縦坑は数年前に埋没してしまいましたが、将来この地域で蛍石鉱山が再開発されるとしたら、もっとも有望なところです。

デイジー鉱山は、先にも書きましたが、ロジークレアが水没した後、ロジークレア鉱山会社の活動の中心となりました。1926年には縦坑の深さは120mでしたが、41年に閉山される頃には250mまで掘り進められました。

デントン鉱山は1979年に操業を始めた比較的新しい鉱山で、1993年には枯渇して閉山されましたが、隣接するアナベル・リーと同じくオザーク・マホーニング社の経営になり、短い期間ではありましたが、この時代のもっとも大きな標本供給地となりました。ここで採れた方解石は、非常に多くの結晶形を示し、他に類を見ないものでした。


このほかにも実にたくさんの鉱山が、あるいは泡沫の夢のように生まれては消え、あるいはたくさんの栄光と挫折を繰り返して、長期にわたって輝き続けました。けれども、時代の流れは確かに鉱業の世界にも新たな潮流を生んでいたのです。古くからある鉱山は命脈が尽き、また高騰する採鉱コストのため、相次いで閉山してゆきました。採鉱の主流はアフリカや南アメリカなどの発展途上国に移っていきました。

星の数ほどあるといわれたイリノイの蛍石鉱山も、1980年代になると、もうほんの数えるほどしか残っていませんでした。鉱山は、ひとつ、またひとつとその使命を終えてゆきました。そんな中でマホーニング社は、まだ3つの鉱山(デントン、アナベル・リー、マホーニングNo.1)を現役で稼動させていました。しかしそれとても、いずれは滅びゆく、旧き良き時代の残光でした。
93年、デントン閉山。そして、1995年10月。アナベル・リーとマホーニングNo.1が時を同じくして閉山しました。
この日、イリノイ蛍石鉱山の時代は静かに幕を降ろしたのです。
それはまた、アメリカ最後の蛍石鉱山が、終わりを告げた時でもありました。

その後もマホーニング社はこの地域の鉱脈の探査を続けていますが、鉱山が再開される見込みはほとんどないようです。現在世界の蛍石の7割を生産しているのは中国で、この国には豊かな鉱脈に加え、安い労働力が膨大にあり、また東部沿岸にある鉱山の立地は、船荷輸送に至極便利なのです。中国の蛍石との競争は、たいへんに困難だといわねばなりません。

こうして、かつて多くの男たちが響かせた槌音は次第に遠ざかり、今や忘却の中に消え去ろうとしています。とはいえ、イリノイ州ケイブ・イン・ロックの名を高からしめた蛍石の標本が失われたわけではありません。世界中のどこの国へ行っても、自然史博物館の鉱物展示室のガラスケースの中に、かの蛍石のもっとも素晴らしい逸品が、ライトを浴びて、輝いているのを、これからも目にすることが出来るでしょう。そして多くの鉱物愛好家たちのコレクションの中にも、その精髄が大切に保管され、折に触れて取り出され、感嘆のため息をつかせることでしょう。蛍石は静かに光芒を放ち続けます。

 

−了−

(1999.9.27)

SPS


付記:このコラムは96年頃に綴っていたものを、半分以上書き直したものです。ちょうど最後のイリノイ蛍石鉱山が閉山したというニュースを聞いたばかりの頃で、たいへんにショックだったのを覚えています。書き直しにあたり、いくつか資料を当たりましたが、鉱山事情などの主要な情報ソースは、MR誌、28巻第1号(1997)に拠りました。本文の記述に誤りがある場合は、もちろん筆者の文責によるものです。


蛍石の色について:様々な色を示す蛍石の出来た順番。

■用語の簡単な解説 (になっていないかも...)

用語 英語  説 明
縦坑:(竪坑) シャフト  通常鉱脈は地中にあり、地面を垂直に掘り下げて、脈に達する穴を掘る。これを縦坑という。接触交代作用による鉱床は地底に水平に広がることが多く、このような場合に縦坑が必要となる。脈と同じ深度に達したところで、横穴を掘り、脈に沿って採掘にかかる。縦坑は排気口となり、作業者を送り込む出入口となり、また鉱石を地上に運び上げるための巻上げ機を設置する玄関口ともなる。初期の鉱山では、縦坑に、はしごを立てかけて地中に降りた。切羽に爆薬(発破)を仕掛けて、縦穴の位置まで伸ばした長い導線に火をつけると、作業者は爆発が起こる前に必死ではしごを駆け上った。近代的な鉱山ではもちろん機械仕掛けのウインチに、かご(スキップやケージ)をつけて鉱石や作業者を地上に運ぶようになった。竪坑、立坑。
横坑: アディット 縦穴が脈と同じレベル(深度)に達したところで、鉱石を採集するために横に掘る坑道。主要坑口をもつ横穴。大規模な鉱山ではトロッコの線路を引いたり、側壁を角材や厚い板で補強して長いトンネルを作った。運搬坑道であり、必ずしも脈そのものを掘るとは限らない。
横坑: ドリフト ひ押し(沿層)坑道のこと。専門的にはアディットと区別するようだが、私にはよくわからない。探鉱と採鉱準備を目的とするものという。「ひ」とは鉱脈のことで、日本では、鉱脈に沿って掘り進み、これを同時に運搬坑道とする方法を「鏈押し」といったが、ドリフト(漂流)という語感からは、脈が導くまま成り行きまかせで掘っていくという感じが漂う。

ついでながら、探鉱を目的として、人ひとりが、やっと這って出入り出来る穴を上下左右縦横無尽に掘り、よい鉱脈(なおり)を探す方法を日本では狸掘りといった。

鉱井: ウィンズ 通風や連絡のために、一つの切羽から他の切羽へ抜けるようにした掘り下げ。別に本文中にはでてこないので、どうでもいいのだが、こうして坑道をつなげると、その間に通風が生じて、切羽でのガス中毒事故を少しでも回避できた。ちなみに小規模な鉱山では、こうした換気が十分でなく、坑内は暑いは、蒸すは、空気は悪いはで、ひどいものであったらしい。
なお、鉱石や廃石を貯蔵したり、搬出するための専用の小縦坑を鉱井と呼ぶこともある。
階段採掘: ストーピング 多くの鉱山で行われていることだが、水平に伸びる鉱脈を採掘するためには、一連の水平な横坑道をいくつも掘って採鉱する。このとき、脈を追いながら、今ある切羽より高い位置に新たな切羽を作って掘り進める方法を上向きの階段採掘、より低い位置に水平坑道を作って掘り進むのを下向き階段採掘といった。

鉱山によっては、運搬坑道(上記のアディット)で出たズリ(鉱石にならない掘削片)を、鉱脈を掘った後の埋め戻しに用い、それを足場として上方への掘削を進めた。

ルーム&ピラー採掘   鉱床が主に水平方向に大規模に広がっている場合、採掘は横坑に沿って進めるが、坑道はしばしば巨大なホールのようになる、このとき、鉱石の一部をアーチの柱のかたちに掘り残して上部の岩盤を支えるために用いる。こうして坑道を鉱石で支えながら掘り進めていく工法をルーム&ピラーといい、ケイブ・イン・ロック地域では典型的な採掘方法だった。

岩盤を支える鉱柱を鉱石として採掘してしまうのは、閉山前の最後の手段であり、また後先考えずに鉱柱を削ることは、文字通り鉱山を台無しにしてしまう愚挙でもあった。

なお、日本の佐渡金山などでは、この種の鉱柱を「竜頭」(ドラゴンヘッド)と呼んだ。

立坑櫓: ヘッドフレーム 巻き上げ機の滑車を支えるフレーム組み立ての櫓。地表から見て、鉱山がある標のようなもの。
  グラベル・スパー 堆積岩に混じって見つかる礫状、砂利状の鉱石。地表近くで見つかるので、20世紀に入る頃までは主要な鉱石だったが、やがて採り尽くされてしまった。
  チャーンドリル ドリルを何回も落下させて掘削する削岩機。掘削速度は遅いが、絶大な掘削力を誇る。

このページ終わり