軟玉の話1の本文を書いたとき、いろいろな書物を参考にしてお話をまとめましたが、いくら調べてもよく分からないことが沢山残りました。そのひとつは、ホータン玉が最初に華中(中原)に入ってきたのはいつか、という謎です。
BC2世紀の後半、武帝の使者張騫が、玉の産地を発見したのを契機として、大量のホータン玉が都に流入したことは、補記1に縷々述べた通りです。このことは、はっきり記録に残っていますが、実はそれ以前にも商人レベルではホータン玉の売買が行われていた形跡があります。
例えば戦国期(BC5〜3世紀)の、湖北省會侯乙墓から沢山の玉器が出土しています。この遺跡の玉器は、美術工芸品として非常に質が高く、優れた技術で加工されているのが特徴です。さまざまな玉材が用いられていますが、その中にホータン玉と思われるものがいくつもあります。青玉や白玉で、大変質のよいものです。戦国末期、河北省中山国王墓の玉器は、ホータン玉、しゅう岩玉、独山玉、めのうなどを使っていると鑑定されました。少なくとも、ホータン玉と「同質」のものがあったというのは確かです。
管子という書物には、「北は禺氏の玉を尊び、南は江漢の真珠を尊ぶ」と書かれています。禺氏とは、当時西域に勢力を持っていた月氏のことです。また、「楼蘭に玉が出る」ともあります。BC10〜7世紀頃にはホータンにも人が住んでいたといわれます。これらの断片をつなげると、ホータン人が玉を採集して楼蘭に送り、楼蘭は月氏の商人に玉を渡し、月氏の商人は華中に玉を売りに来たという交易パターンが見えてきます(月氏はホータンや楼蘭の国人と同民族という説もあります)。
管子は春秋時代に書かれ、後代にかなり加筆された書物ですが、もしこの記述が正しく春秋時代の状況を示しているなら、ホータン玉はBC7〜3世紀には、中原で知られていたことになるでしょう。
しかし一方で、当時の中国人が真の産地(ホータン)を知らなかったことも、ほぼ確かだと思います。
前漢以降のシルクロードでもそうでしたが、交易は隣国の商人同士で行われるのが普通です。人々は、それぞれ言葉が通じる範囲内で取引きし、いくつもの国を渡って遠くまで旅をすることはまずありませんでした。交易品は、みんな「隣の国」から来たものだったのです。また、商人は普通、商品の仕入れ先を詮索されるのを嫌がります。従って、消費者の関心は絹や玉など商品そのものに限られ、産地についての情報はかなり不正確にしか持っていなかったと考えられます。つまり、玉は、とにかくどこか遠いところから来た舶来品だったのです(後代の絹や鉄や香料といった交易品でも同じことがいえます)。
ちなみにBC5世紀は、イランなど西方からの民族が東方へと動き出し、中国に古代オリエント文化が伝わってきた時代でした。西方の技術を模倣したガラス製のトンボ玉などが、突然洗練された形で中国に出現しており、東西交流が頻繁に行われていたことが伺えます。玉もまた、その流れに乗って東西を往来した可能性があるでしょう。
武帝以前にもホータン玉はあったが、それがどこから来るかは知られなかった。その分、非常に貴重視されていた、といえるかもしれません。
さて、それ以前の時代は、どうだったでしょうか。
1976年に殷墟の婦好墓(BC11世紀頃の皇帝武丁の妃の墓)から、約2000点の埋葬品が発掘されました。756点が玉器でした。そのうち約300点の玉器について材質分析を行ったところ、大部分は軟玉でホータン産のものと認められたそうです。特に怪鳥、羊頭、牛などの玉器は典型的なホータン脂玉でした。とすると、この頃にはホータン玉が知られていたことになるでしょうか。
ところが不思議なことに、殷(商)の次にくる周代の遺跡から出土した玉器は、一般に材質が悪く、ホータン玉はほとんど含まれていないそうです。仮にBC11世紀以前にホータン玉の交易ルートが存在していたとしたら、その後、数百年間は忘れらていたのでしょうか。そして戦国時代になって再び甦ったということになるでしょうか?(殷・周の交代は、単純に文化が継承されたわけではなく、青銅器でも加工技術の後退が見られます。また周代の玉器とされる伝世品には、ホータン玉製が沢山あるという奇妙な現象が知られています。)
殷(商)・周の時代には、今日のような国家はなく、各地にそこそこの人口と土地をもった村落(あるいは都市)が点在していました。王朝は、これらをまとめ、共通の祖先や天帝を祭る宗教上の宗主として機能していました。また西域の砂漠地方には、BC5000年くらいから農耕民が住み、BC7〜10世紀頃にはオアシス都市国家が成立したと考えられています。すなわち、当時の中国は、西の砂漠から東の海べりまでの広大な土地に小さな都市や村落がいくつも生まれ、それぞれが小さな経済圏を作って自給自足に近い生活を送っていたとみられます。多くの都市では、近隣との連絡はあったとしても、交易はあまり発達していなかったのではないでしょうか(数年に一度の交流程度)。
そんな状況を考えると、私としては、殷代(BC11世紀)に片道3000キロ以上離れた中原に、ホータンから大量の玉を運んできたとみるのは、ちょっと無理があるように思います。むしろ、同じ崑崙山脈でもより消費地に近いところ、あるいは殷墟の近くに、失われた産地があったのでは? という気がします(そのため殷の衰退とともに、玉の質が変わったのでは?)。
ついでながら、シルクロードの栄えた漢代でも、砂漠の旅は一日20キロ行程がせいぜいで、往還に数年かかることがザラにありました。それより数百年も昔に沙漠を横断する旅行が日常的に行われ、玉などの交易品を運んでいたとは考えにくく、そんなリスクを冒す必然性も薄いように思われます(それほど、玉が貴重だったということもあるかもしれませんが)。
さらに古い時代をみると、BC2600年頃、地中海に栄えた古代バビロニア遺跡の出土品の中に、軟玉製のバックルが見つかっているそうです。刻まれた文章から、中国で作られ、贈り物か交換物資として運ばれてきたものと推測されています。この時代は歴史的に民族の大移動があったと考えられており、どんな形かは不明ですが、東西間の交流が存在した可能性があります。ある学者は、中国に文明をもたらしたのは、エジプトやメソポタミアから来た人々だった、彼らは天山山脈の北を通る東西に帯状に伸びた草原地帯(ステップ)を東進したと主張しています(エジプトの神話と中国の神話に類似が認めれるそうです)。しかし、砂漠を通るルートの開発はもっと時代を経てからのことであり、当時玉が交易に使われたとは断言できないと思います。ホータンを通る通商路があったかどうかもわかりません。
このあたりは、いわば古代史のミステリーで、どう考えるかは、断片的な情報を、いかに一本のストーリーにまとめるか次第だといえるでしょう。決定的な証拠を見つけるのは、なかなか難しいことです。
陳瞬臣氏は本文中に紹介した著書の中で、「シルクロードの歴史は、たまたま張騫や玄奘三蔵やマルコ・ポーロのような人々が訪れて記録を残すことがあるから、その時代の様子がわかる。しかし、ほかの時代のことは、すぐにわからなくなってしまう。人間の営みはそれが普通であり、中国人のように何もかも書き留める方が異常なのだ」、と感想を洩らしています。
とはいえ、よくわからない部分があるからこそ、古代史やシルクロードには想像力が介在する余地があり、ロマンに想いを馳せる魅力があるのかもしれません。玉については、まだまだ知りたいこと、わからないことが沢山あります。そして、ホータン玉を巡って展開された西域の交流と歴史は、私にとってシルクロードのロマンそのものといっても過言ではありません。
追記:2009年に西都原考古博物館で開催された「玉と王権」の図録に、台湾 故宮博物院のケ淑蘋(とうしゅくひん)氏が寄せた「伝串間市出土穀璧が啓示するもの」に非常に興味深い言及がある。
「文献資料の記述からは確認できないものの現在まで知られる実物資料から導き出せる事実として、戦国時代には華東で新しい玉鉱が発見され深緑色や蒼緑色の地に灰黒色が点在する玉材が大量に使用されていた」「こうした特徴の玉材は、早くから広く使用されていた西方の崑崙山系で採掘される、明るい色調が特徴のホータン玉とは外見が大きく異なっている。」
氏は殷代の玉はホータン玉であるとし、戦国時代の玉にはホータン玉と特徴を異にする深緑〜蒼緑色の華東に産する玉材が大量に使われているとしているのだ。これは遼寧省のしゅう岩玉のことだろうか。
一方同じ図録の中で、岡村秀典博士は、「いまから3300年ほど前の河南省殷墟婦好墓から出土した玉器は、1970年代に理化学的な分析によってホータン玉と報告されたが、これも疑わしい。分析技術の進んだこんにちですら、成分から玉の産地を判定することはむずかしいからである。」(東アジア古代の玉器)と述べている。こちらも古代中国に関する著作を多数発表している学者さんの言葉として興味深い。 (2010.8.4)