孔雀の首の色の宝石   −カシミールサファイヤ2

 


 

インドという国は、広大な大地に、実にさまざまな人種があふれ、さまざまな匂いがあふれ、色彩があふれている。北の険しい雪嶺から、砂漠、ジャングル、果てもない沼沢地、岩肌の剥き出しになった高原地帯、モンスーンの吹き荒れる海岸、夏でも寒いヨイヨイヨイ、冬でも暑いホット・ホッター・ホッテストの土地、そのほか様々な地域がある。海を見たことのない人々、雪を知らない人々、穏やかで魚のにおいのするベンガル人、おそろしく辛いカレーを食べて、いつも喧嘩しているように話すタミール人、英雄叙事詩から抜け出してきたような美しい容貌のアーリア人、勇猛果敢なラージプート族、挙げればキリがないほど、この国は、この国の人々は、産物は、変化に富んでいる。
しかし、何億というインド人に共通している特長がひとつある。それは、みながみな、宝飾品には目がないということだ。インドでは、古くからさまざまな宝石類が産出した。ダイヤモンド、ルビー、エメラルド、真珠、山珊瑚、ガーネット、トパーズ、アクアマリンなどなどなど。人々はこぞって美しい石を購った。これら数ある宝石の中で、ほんとうに素晴らしい、真の意味でインドが世界に誇りうる石があった。それが、孔雀の首の青と呼ばれた、美しき青きサファイヤである。そしてこの清浄な青い石を産出したのが、全インドでもっとも魅惑的といわれる谷間の国、カシミールであった。

先年、カシミールサファイヤについて、インド訪問の体験を織り交ぜながら、小文を記した(美しき青きサファイヤの話)。その時はその時で、いろいろな資料を参考に産地の情報をまとめたのだが、一年半経ってみると、その後新たに知ったこともいくらかあり、ここでもう一度、内容を整理しておきたいと感じるようになった。

当時の文章をアレンジしてもいいのだが、もとの「香り」が失われそうな気がするので、別稿として紹介する。産地、発見年、発見の経緯など、前回に書いた情報に補足があるので、これから前稿を読まれる方は、ご留意いただきたい。ただ、ここに書いたことが、以前より正確な情報なのかどうか、相変わらず筆者には心もとない。どうやらカシミールサファイヤは、筆者にとって、永遠の謎−決して完全には知りえないもの−のひとつとなりそうな気配である。浴びるほどたくさんのカシミールサファイヤを見る日が来るまで、神秘は明かされそうにない。


この比類なき青い石は、インドの北西部、カシミール地方で、わずか100年ほど前に発見された。
1879年だったとも、80年だったとも、あるいは、81年、82年ともいわれている。発見されてからしばらく、誰もその値打ちに気づかなかったので、確かなことがわからないのだ。場所は、ザスカール山脈の懐、スージャム村付近のクディ峡谷である。従来、この村はザスカール地区にあると紹介されてきたが、実際の行政区画は、パダル地区に属し、ザスカールのすぐ南に接しているという。交通手段のろくにない辺境の地で、今でも、歩くか、ヘリコプターに乗るかしないと、辿り着けない。もっとも近い舗装道路はキシュワールにあり、距離にすれば100キロほどだが、そこから実際に歩くとなると6〜8日かかる。行程の大部分は狭い山道で、人間と小さな荷駄がやっと通れるくらいの幅である。途中、広い川を何箇所も渡ってゆかねばならないが、原始的なつり橋がかかっているだけなので、重い荷物をもって渡ることは叶わない。サファイヤは、クディ峡谷の北東壁、標高約4500mの地点で発見された。

発見に至る経緯は諸説あり、ひとつは、以前紹介した通り、丘の斜面が地すべりを起こし、晶洞が露出した中から発見されたというもの。もうひとつは、狩りをしていた猟師が落ちていた石を偶然拾ったというものだ。いずれの場合も発見者はその値打ちを知らなかったので、日用品と交換にラホールから来た商人に石を譲った。その商人も、やはりよくわかってなかったので、クルの村で食物と交換した。その後、順々にシムラ、あるいはデリーまで人手を渡り、ついに、その石がサファイアであることがわかった。ほとんど間をおかず、インド全土から宝石商がスージャムに集まってきた。しかし、すでに鉱山は、カシミール藩王軍の厳重な警備下におかれ、勝手に採掘することは、出来なかったという。

この話のバリエーションをいくつか。
ヒマラヤ北西の小さな村でたくさんのサファイヤが採れるらしい、という話が明るみに出たのは1881年あるいは1882年のことだった。その年、ラホールからきた商人が、いくつかの石をシムラ(イギリス総督府の夏の政庁があった避暑地兼行政府)に持ち込んだのだ。商人は、これらの石をザスカールとの境にある山中で見つけたと証言した。地すべりが起こって、土の中から露頭が現われ、宝石の存在を露わにしたのだ、と。この頃、サファイヤは、露頭をちょっと掘るだけで、ザクザク採ることが出来た。藩王が封鎖するまでに、おそろしく沢山のサファイヤが現地人の手で持ち出された。買い付けに行った商人によると、ある村人は一人で50キログラム分のサファイアを所有していたという。

こんな話もある。1930年も半ば、アルバート・ラムゼイという人物がカシミール藩王ハリ・シン陛下の宮殿に滞在していたとき、ヨーロッパでは考えられないほどの夥しい宝飾品を載せた30枚のトレイを見せられた。トレイのひとつひとつが、百万ドルは下らないと思われる莫大な財産だった。だが、それはこのインド人紳士の所有物のほんの一端に過ぎなかった。
その夜、さらにシン陛下は、彼が所有する沢山のサファイヤをラムゼイに見せた。いずれも非常に大きく、ナスビより小さい石はひとつもなかった。陛下は問われるままに、それらが発見された経緯を語った。ずっと昔のことだが、あごひげを赤く染めた男たちの一団が、地すべりを起こしたカシミールの丘で、いくつかの青い石を見つけた。彼らはアフガニスタンからデリーを目指してやってきた隊商の分隊で、ラバを連れて、ザスカールの山を越えようとしていたところだった。彼らは、好奇心から、その石をラバの背嚢に積んで持ち去った。そして、デリーで、石と塩とを交換した。それから誰か、それがサファイヤの原石だと見抜いた人物に売られた。その後、次々と人手を渡ってゆき、最後にカルカッタで取引されたときには、40万ドル(当時)相当の値段がつけられていた。この取引のニュースが当時の藩王の耳に入ると、彼はサファイヤが自分の土地から拾い出されたものだということに気がついた。彼は激怒した。カルカッタに行き、自分の財産の返還を要求した。ここに至るまでの長い長い、すべての取引きが取り消された。カルカッタでサファイヤを買った男は40万ドルを払い戻され、石を売り手に返した。たくさんの町で同じことが繰りかえされ、デリーでサファイヤを買った商人には、最後にいく袋かの塩が返された。サファイヤは、藩王のものとなった。ラムゼイはいう。「私は小さなカケラをひとつとって、陛下に25000ドルのオファーをした。彼は私を見て軽く笑った。彼には、愛するコレクションのひとかけらたりと手放す気持ちはないのだった。だがしかし!私はどんなにこの宝物を買い取りたかったことだろうか!」

今度は、猟師が石を見つけた話。その地方では、煙草を吸うとき、こぶしくらいの大きさの水晶を打ち合わせて火を作る習慣があった。ある猟師が、狩りの間にふと煙草を吸いたくなったのだが、どこかで火打石を落としてしまった。そこで、地面を探して、小さな青い石を拾った。この青水晶は、普段使っている水晶よりずっと、具合がよかったので、これからも使うつもりで持って帰った。しばらくして、石をラホールの商人に譲った。商人はシムラに持っていった。そこで、サファイヤであることがわかった。探索が始まり、猟師が石を拾った場所が発見された。そこはカシミール藩王の地所だったから、最終的には王が軍隊を配備し、勝手な採掘を禁じたのだが、それまでに、膨大な数量のサファイヤが運び出された。ラホールの商人は捨て値で石を買い、シムラで大儲けをした。抜け目のない商人は、「火打石」を採ってきた猟師たちに、一人1ルピーずつしか支払わなかったのだ。

というわけで、スージャム村のサファイヤについては、だいたいの様子が掴めたと思う。次に挙げる二つの話は、少し毛色が変わっていて、スージャムの話なのかどうかわからない。もしかしたら、他にもサファイヤの採れた場所があったのでは、と思わせる内容である。
ラプシュからシムラのバザールまで、ほう砂を売りに来た交易者の一団があった。彼らが、ある商人の店でバスケットを空にしたところ、ほう砂と一緒に石が転がり出た。商人は、石を通りに放り投げた。と、たまたま通りかかったヤコブ氏の頭に当たってしまったという。高名な宝石商だった氏は、それがサファイヤだということに気づいたが、本人曰く、文句かたがた石を返すつもりで店の中に入っていった。だが商人が、「ちょっち変わったものが商品の中に混じってたんで放ったんだよう、ぶつけるつもりはなかったんだよう」と言い訳するのを聞いて、どうやらこれはサファイヤではないらしいと思い直し、わずかのお金を払って、石を買って帰った。
この話は、未だ知られていないサファイヤの産地が、ラプシュのどこかにあることを示唆しているようだ。そうでなければ、何故ほう砂の中にサファイヤが混じっていたのか説明がつかない。ラプシュからシムラへの道は、スージャムを通らないからだ。

別の話。藩王は1882年、国禁のサファイヤを所持していた罪で二人の猟師を逮捕した。ところが、彼ら以外に知る者のない二つの鉱山があるという話を聞き、その場所を教える条件で彼らを釈放した。ひとつの鉱山からは青いサファイヤが、もうひとつからは赤いルビーが採れたという。猟師たちは、多額の褒賞金を与えられた。これらの鉱山について、それ以上のことは明らかにされていない。ただ、以前クルからスージャムへの道中のどこかで、赤いルビーのかけらが見つかったことがあるといわれている。それは本当に素晴らしい鮮血色のルビーで、まったく純粋無垢、水のように透明なかけらであったという。

このほかにも、クルやその他のヒマラヤ北西部で発見されたサファイヤを巡るさまざまな話が流布しているが、現在に至るまで、ほんとうかどうか確認されたものはない。もしあったとしても、それは密かに掘り続けられ、公にされることはついになかったのだろう。というのも…。

スージャムでサファイヤが採れると知ったとき、カシミール藩王は、有能な将校の率いるドグラ族の連隊を鉱山に送り、一帯を封鎖した。以後、鉱山の利益はすべて藩の金庫に入ることとなった。派遣された将校は、石を持っている、あるいは持っていると疑われる村人からサファイヤを徴発する全権を委任されていた。実際、彼らは完璧なまでにそのミッションを遂行した。お金にするつもりでサファイヤを持っていた者たち、また、売ったことかあると疑われる者、買おうとしている者はすべて逮捕して調べられ、石を取り上げられた。たとえ逮捕されなかったとしても、常に監視下におかれることになった。その結果、同じような石が拾われた産地を知っている者たちは皆、産地を秘匿し、一切の証拠を隠蔽するようになったといわれている…。


さて、1882年に藩王が鉱山を管理するようになってから、1887年までは、カシミールサファイヤの全盛時代だった。驚くほど巨大で、美しい結晶が次々と発見され、たやすく掘り出された。クディ峡谷は、大理石と片麻岩(花崗岩)が交錯する地域で、変成によって生じた透閃石−緑閃石の帯が地層を切っている。帯の中にペグマタイト(晶洞)があり、鉱山は、その露頭にあった。ここは現在「オールド・マイン」と呼ばれているので、以下、そう呼ぼう。晶洞の中は、白い粘土(カオリン)が一杯に詰まっていた。粘土を崩すと、巨大なサファイヤが顔を覗かせる。その様子は、「プディングの中からプラムを掘り出す」と表現された。実際、プラムくらいの大きさのサファイヤが採れたのである。大きいものでは、長さ13センチ、直径8センチくらいのものがあった。長さ30センチの結晶が採れたとの報告もある。後述するカシミール・ステイト・トレジャリーには、クロケットのボールくらいあるサファイヤが保管されているという。

サファイヤが、主に透閃石−緑閃石の帯の中から採集されたことは確かだが、その外縁のざくろ石を含む片麻岩帯からも採れたかどうかは伝えられていない。初期のサファイヤは花崗岩(片麻岩)の晶洞にあったともいわれているが、はっきりしない。そうした情報を含め、どのように鉱山を掘り進んだか、ピットはどのくらいの深さがあったか、といった具体的なことは、一切秘密にされていたようだ。
この数年間に採れた大量のサファイヤは、あまりに素晴らしく、世界中どこを探しても、これほどのものはないという評価をまたたくうちに確立した。当時産出した石は、現在でも語り草となっている。カシミールサファイヤは、それだけでサファイヤの特権階級を形成した。以後、美しい色の上質のサファイヤには、産地の如何に拘わらず、「カシミール」という尊称が与えられていることが何よりの証拠だろう。

オールド・マインで採れたサファイヤの多くは、融蝕のない整った結晶面をもっていた。孔雀の首の色、あるいはヤグルマギクの色と称えられる美しい青色は、主に結晶面近くの外縁に層を作っていた。内部は、無色透明であることが多かった。ときには、中心部がピンク色や紫色になったものもあり、また、色が非常に濃く、ほとんど真っ黒に見えるサファイヤもあった。一方、透明感のない白色の結晶、水のように無色透明な結晶もあった。周辺部が青く染まった美しい結晶からは、最良質の巨大なサファイヤがカットされた。それらは、雪のように散らばった、きわめて微小なルチルの針状結晶を含み、もやがかかって見える独特の光彩を放っていた。もしいつの日か、私たちが宇宙空間に出て、太陽光を散乱するオゾン層を直接目にすることがあったとしたら、おそらくこのような美しい色なのではないかと思わせる、ビビッドでしかも柔らかな深みを帯びた青色であった。

このように、世紀を越えてなお絶賛されているカシミールサファイヤだが、一方で、ほかの鉱山のものと比べて、(ごく微小な)空隙やインクルージョンが多いということも銘記しておいた方がよい。ここのサファイヤは、しばしば、「窓」、空孔、あるいは負晶を含み、色もぱっとしなかった。なかには、結晶面が激しく融蝕されたものもあった。その場合、鮮烈な青色の層は、ほとんど削られてしまっているか、あったとしても、ごくわずか残っているくらいであった。このような石は、表面にカオリンがしつこくこびりついていることが多く、磨いてみなければ、中がどうなっているのか、わからなかった。カットには専門的な技術が必要だった。それでも、この素晴らしい色が一部にあれば、他の部分は色の抜けた状態だったとしても、凝縮された青によって、カットした宝石全体を光り輝かせてみせることができるのだった。もっとも、そんな原石からは、小さなカット石しか得られなかったのだが。サファイヤの結晶は、よく知られているように両端のとがった六角紡錘形をしており、青色の層を活かすため、結晶の錐面がテーブル面となるようにファセットされた。また、カボッションの場合は、底を厚く残して研磨されることが多かった。
青色の層が失われた無色透明の結晶は、カットするにはあまりに貧弱だった。(最近の研究によると、無色の結晶でも、適切な熱処理を行えば、美しい青色を出すことが出来るそうだ。スリランカ産のギウダ(無色のサファイヤ)を処理するより、ずっときれいな青が得られるという。ただ、無色の原石さえ、現在ではほとんど入手不可能なのだが。)

インクルージョンとしては、無色のジルコン、黒茶色のトルマリン、閃ウラン鉱、パーガス閃石、黒雲母、ルチル、磁鉄鉱などが報告されている。この中でルチルは、インドのほかの産地のサファイヤやルビーがスターを示す原因となっている含有物だが、カシミールサファイヤでは、きわめて微小なため、スター効果を起こすことはほとんどない。ルチルのヘイジー効果や、負晶の中に生じる黒色のトルマリン、ジルコンなどのインクルージョンは、カシミールサファイヤの鑑定に大いに役立つ要素である。
因みに、結晶は複数かたまって貫入双晶を作ることがしばしばあり、結晶面に付着した濃茶色のトルマリンと併せると、カシミール産の原石を見分けるのは、比較的たやすかったという。(入手しやすい資料では、日本ヴォーグ社の「完璧版 宝石の写真図鑑」P.95にカシミールサファイヤの結晶が載っているので、持ってる方はご覧下さるとよい。)


さて、大量に採れたオールド・マインのサファイヤは、1887年に入ると、めっきり採れなくなった。

鉱山からの収入が急激に悪化したことに気づいた藩王は、インド総督府に、産地の調査と開発の援助を要請した。同年9月、熟練した地質学者である T.H.D.ラ・トゥーシュが、鉱山に派遣された。彼の報告書は、この地域に関する最初の科学的な調査報告となった。

ラ・トゥーシュが到着したとき、オールド・マインは閉鎖寸前だった。彼はすぐに綿密な調査を行った。しかし、ペグマタイトはすでに掘り尽されていた。ラ・トゥーシュは、ペグマタイトを帯びた岩の縁を北側に辿って、サファイヤを含む花崗岩の塊を発見しようとした。彼は、岩塊を抱えるはずの斜面に地すべりを惹き起こすため、巧妙な手段を試みた。しかし、サファイヤは見つからなかった。それ以来、多くの専門家たちが裏側の斜面を調査し、晶洞を探しているが、現在に至るまで、成功の報を聞かない。依然、可能性だけが指摘されている。

オールド・マインの再開発を断念したラ・トゥーシュは、南東に250mほど下った、峡谷の底を覆う砂礫層(崩落した岩石が堆積した、ガレ場)に注意を向けた。ペグマタイトの砕片があれば、そこでサファイヤを見つけることが出来ると考えたのだ。しかし、結果は芳しくなかった。いくつかの石が発見されたが、品質は概して低かった。結晶は、激しく融蝕されたものが目立った。外縁にあるはずの美しい青い層は、こそぎ落とされていた。とはいえ、933カラットのパーティー・カラー(雑色)の巨大な結晶を発見するという収穫もあった。彼は翌年もう一度スージャムを訪れ、再び砂礫層の調査を試みた。が、やはり成果は上がらなかった。2年間の調査ではっきりしたことは、結晶面のきれいな良質の石は、ほとんどすべて、オールド・マインの晶洞から、それも1882年から87年の間にだけ産出したということだ。

1887年を境に、オールド・マインの時代は、事実上終焉した。89年から、鉱山は休止状態に入った。その後1906年まで、ときおり、隠れてやってくる盗掘者たちを除けば、誰もこの荒涼とした峡谷に足を踏み入れなかった。

1906年、藩王は、カシミール鉱山会社と名乗る私企業に採鉱権を貸与した。社のC.M.P.ライトは、綿密な調査を経て、ガレ場を掘り返し、良質のサファイアをいくつも採集した。1907年には、オールド・マインの南東2〜300メートルの小さな一画に目星をつけて、溝を掘った。後年、盛んに採掘されることとなる「ニュー・マイン」である。しかし、彼にとって、ここの環境はあまりにひどかった。そもそも鉱山は、かなり標高の高い地点にあったので、もっとも天候に恵まれた年でさえ、作業は7月から9月までの短い夏の間に限られた。その他の季節は常に雪が地表を覆っていた。大雪のため、たった30日間しか採掘できない年もあった。僻地のため、機材の搬入は思うに任せなかった。作業は、もっぱら人手に頼って行われた。高山病もおそろしかった。ライトは幾多の困難に直面し、3年後、ついにそれ以上の採掘を断念した。

だが、もちろん、これで終わりではなかった。幻のカシミールサファイヤを求めて、多くの採鉱者たち(盗掘者も含め)が、峡谷にやってきた。1911年、ジョティ・パーシェイドが、カシミール政府(=藩王)おかかえの主任技師として鉱山に入り、ニュー・マイン南東の開口部を掘った。成果は乏しかった。1920年、ジャンムーのソーヌ・シャーが採鉱権を得て、掘りに掘った。やはり収穫は貧しかった。もはや、カシミールサファイヤは完全に終わってしまったと誰もが思った。しかし。

1926年、ジャンムーのジャハン・ナスが、再びニュー・マインを開き、約64キログラムのサファイヤを回収した。彼の採鉱権は、わずか一年で、契約違反を理由に撤回された。これはいかにも不審な措置だった。翌27年、政府から派遣されたジョティ・パーシェイドとラブー・ラム博士は、昨年ナスが掘った坑道を更に掘り進め、15日の間に454キロものサファイヤを掘り出した。けれども、10カラット以上の良質のカット石はほとんど得られなかった。そして、ナス鉱脈は尽きた。

ニュー・マインで採れたサファイヤの多くは、結晶面が激しく融蝕されていた。洗っても落ちないくらいしつこく、カオリンがこびりついていた。ベルベットのような柔らか味のある優しい青色の層はほとんど失われていた。優れた品質のものは数が少なかった。青い色が表層や先端部に集中しているため、大きなカット石を得るには、それよりはるかに大きな原石が必要だったが、そんな石はないに等しかった。20世紀のカシミールサファイヤは、宝石愛好家のラブコールがいよいよ高まる中、いつも極度の品薄状態にあった。

28年から32年まで、鉱山は再び眠りについた。33年から38年にかけて、改めて系統的な採鉱が始まった。この数年間の収穫は、年平均128キロあったというから、まずまずの結果といえよう。39年からは第二次世界大戦の影響で、採掘が抑えられた。44年、カルカッタ駐留米軍所属の地質学者、R.V.ゲインズとR.C.ライスが、休暇を利用して鉱山を訪れた。ほとんどのピットが、盗掘防止のため、頑丈な壁でふさがれていた。鉱山を一望に見降す高台に、警官の詰め所が設置されていた。3名の警官の孤独でわびしい生活を想い、二人は、クディの詰め所をブラック・ハウスと名づけた。数年後、ブラックハウスは火事で焼け落ち、以後、再建されなかったという。
盗掘は、いつの時代も厄介な問題だった。かくも辺鄙な土地では、たとえ警備に怠りないとしても、盗掘を完全に封じることは、非常に難しいというのが実情だった。

二次大戦後、疲弊したイギリスが植民地インドから撤退を決め、無数の国に分かれていた亜大陸は、インドとパキスタンの二国にまとめ上げられた。しかし、要衝の地カシミールは、どちらに帰属するかを巡って、果てしない闘争に巻き込まる運命にあった(一応、インドが獲った)。鉱山は半睡の状態に入り、以後十数年の間、採鉱権を借りた私企業やカシミール州政府によって、散発的に採掘されることはあったが、これという収穫は得られなかった。

1960年、鉱山の経営は、州が関与するジャンムー・カシミール鉱山社に引き継がれた。1979年ごろまで、鉱山はこの会社の管理下にあった。
1981年、地質学者の D.アトキンソンと R.Z.コッタバーラが、鉱山の詳しい調査を行った。この数十年来、初めて訪れた外部の人間であった。彼らは、オールド・マインから100mほど離れた地点を重点的に試掘した。サファイアを含んだペグマタイトを発見すべく、大規模な発破が仕掛けられ、一連の横坑道が掘られた。彼らの調査は、現在までのところ、この鉱山における最後の活動とみられている。
以後、カシミール州政府が鉱山を貸与するとのうわさが何度か流れたが、実施されたことはない。
80年代後半になると、この地域はイスラム教徒のゲリラ活動が活発化し、1994年以降は、不帰順地帯とみなされるようになった。
ニュー・マインの坑道は侵入者を防ぐため厳重に閉ざされている。オールド・マインの面影はすでになく、試し掘りした2,3の浅い穴だけが、わずかに残っているという。(⇒最近の状況は追記2


1927年の豊作以来、ニューマインは、何度も掘り返されたが、巨大で良質なサファイヤは、ほとんど見つかっていない。また、新たな鉱脈も発見されていないようだ。しかし、サファイヤが、この地域のどこかに眠っているはずだと考える関係者は多い。彼らは、闇雲に夢を追っているのではなく、産地の地質学的な状況から、そうした推論をしている。

カシミールサファイヤは、石灰岩を切るペグマタイト中に生じていた。貫入したマグマの熱は、石灰岩を大理石に変成させ、その辺縁にコランダムを晶出させた。こうした変成作用は、小さなエリアだけに生じるのではなく、もっと広範囲に作用するのが一般的だという。とすれば、ペグマタイトも、これまでに見つかっているより、ずっと広い範囲に散在していると考えられる。サファイヤは、片麻岩(花崗岩)に接する緑閃石−透閃石帯、全体に広がっているはずだ。このような産地での採掘は、大当りをとるか、そうでなければ、なんにもなし、となることが多い。数メートルあるいは、数日間、鉱脈が見つからなかったために閉山された鉱山が、後になって、巨大な晶洞を暴露した例は、過去にも沢山あった。同様に、谷底で、おそらく堆積物に埋もれているだろうサファイヤの層も、かつて、ラ・トゥーシュやライトが採掘した範囲を越えて広く分布していると考えることが出来る。そうしたわけで、彼らは、まだ希望を捨てずにいるのである。

とはいえ、この数十年にわたって、新たな産地が確認されていないことも、また事実だ(ろう?)。現時点では、こうした議論は、絵に描いた餅にすぎない。それなら、なぜ大規模かつ科学的な探査を行わないのだろうか。一年の大半を雪に覆われている上、僻地にあるという地理的な困難も確かにある。しかし、最大の障害は、むしろ政治的な部分にあるだろう。カシミールの帰属を巡る確執(独立も含め)。この問題が、何らかの解決策を見出すまで、麗しきカシミールのサファイアは、氷の御座で、静かに眠り続けるのだろう。


最後に、ジャンムー・カシミール・ステイト・トレジャリーの宝物に触れて、結びとしよう。

かつて大量に産出したカシミールサファイヤはどこへ行ったのか。それらのほとんどは、どこかに消えてしまった。誰かが持っているに違いないが、誰が持っているかはわからない。時折、遺産処分のオークションに姿を現すことはあるが、それ以外の場所では、カシミールサファイヤを目にする機会はほとんどない。カシミールサファイヤとして売られている新しい石は、実際には、大半がスリランカ産の石だといわれている。

だが、世界でただ一箇所、オールド・マイン以来の巨大な原石、巨大なカット石が大切に保管されている場所が、カシミールにある。それが、カシミール・ステイト・トレジャリー・チャンバー(カシミール州財宝保管室)である。1990年時点で、65カラットを超える大きなカット石は、トレジャリーのコレクション以外には、公表されていないそうだが、逆にいえば、トレジャリーには、それより大きなサファイヤがごろごろしているのだろう。

共和国以前のインドでは、どの時代もそうだったが、土地で採れる最良のものは、決して市場に出回らなかった。それらはすべて、土地の統治者、マハラジャやニザム、シャーやナワブたちの個人的な財産になった。カシミールサファイヤの最良の果実、オールド・マインの巨大な結晶の多くは、当然のように藩王(マハラジャ)のもとに集められた。何人もの関係者が、サファイヤの原石やカット石を詰めた大量の宝石箱が、彼の宝物庫に納められたと証言している。ニュー・マインで採れた石も、もちろん、納められた。これらの宝石は、1882年以来、数十年にわたって産出した石の中でも選りすぐりの逸品であり、文字通り「王の身代金」に匹敵する、カシミールサファイヤの精髄であった。1930年代には、藩王の好意を受けた訪問客たちの幾人かが、この素晴らしい宝物を鑑賞する機会を与えられたようである。その一人、ミドルミス氏は、「トレジャリーにある巨大な石のひとつは、クロケットのボールより大きい。ほかの小さな石も、みな素晴らしく豊かな青色である。ペンダントサイズのカット石をつめたケースが沢山あるが、どの石もフロリン銀貨より大きい」と記している。
この時代、大勢の商人たちが、石のいくつか、あるいはすべてを購おうとして、ジャンムーやスリナガルを訪れた。しかし、彼らの申し込みはいつも拒絶された。インド独立以降、藩王の収集物は、国家の財産として、州政府の管理下に入り、外部の目から遮断されることとなった。トレジャリーの宝物に関する風聞はとても少ない。

1980年前後のことだが、トレジャリーの警備員が、サファイヤを盗もうとしたというニュースが話題になった。犯人は、一日に一個ずつ、弁当箱の中に石を隠して持ち出していたらしい。もちろん、彼は捕まった。そして盗まれた石は、すべて取り戻されたという(本当か?)。現在、カシミールの宝物が、どうなっているのか、筆者は知らない。いつの日か、この宝物が再び世に出る時を、はるかに待つばかりだ。

(2000.11.3 SPS)

(備考)文中、花崗岩と片麻岩を( )で併記している箇所がいくつかあります。片麻岩は、花崗岩と同じ、または類似の組成を持った岩石で、異なった鉱物の組合わせによる薄い層を繰り返すため、縞目模様が現れたものです。ここでは高温による変成を受けた花崗岩と解して戴いて結構です。本来、黒雲母の多い層と少ない層の縞目の現れたものですが、ホーンブレンドを含むもの、ざくろ石を含むものなどのバリエーションがあります。わざわざ併記した理由は、資料によって、片麻岩と書いたもの、花崗岩と書いたものがあり、同じものを別の名前で書いたままだと、誤解のもとになると思ったからです。

(追記)S氏からのご教示。
ニュー・マインの場所は、オールドマインから100mほど離れて、北東に少し昇った4550m地点をいい、文中にある南東へ2,300mの地点とは違うとのこと。この情報における一帯の写真と鉱山の位置を次の画像に示す。文中、1981年にアトキンソン氏らが調査した場所も、ここに一致すると思われる。(2000.11.4)

カシミールサファイヤ原石とルース(Hanni氏撮影)

カシミールサファイヤ原石とルース(SSEF/Hanni氏撮影)

追記2)鉱山の最近の状況
1994年以来、不帰順地帯とみなされていたザンスカール山脈だが、1998年になって、ジャンムー・カシミール・ミネラルズ社が地質調査を始めた。これはサファイヤ鉱床から上がる歳入の可能性を漸く評価し始めた州政府の肝煎りベンチャー事業で、地質調査局の学者数人が同行した。1989年以来9年ぶりの鉱山訪問だったが、そこで彼らが目にしたのは、さんざん盗掘され、崩された坑道であった。封鎖していたはずのゲートは残らず破壊されていた。
彼らの最初の仕事はその後始末だった。それからシーズンいっぱいをかけて(7〜9月)、サンプルの採集と付近の地質調査が行われた。以後数年間、毎年開発が続けられた。警備体制は厳重になり、監視塔に重装備の警官が立って、夜間鉱山の周りをうろつく者があれば、問答無用で発砲するきまりになった。
鉱石運搬のための車道が整備されて、鉱山とアトリの町とを結んだ。ラバの踏み跡を辿りながら、もろい断崖絶壁に沿って6日間も歩かざるを得なかった行程が大幅に短縮された。おかげで採掘に現代的な技術を導入することが可能になった。現在、イコノス提供の衛星写真を使って有望な探査スポットを分析・選定する作業が進められているが、いずれ豊かな鉱脈が見つかった時には機械化採掘が視野に入れられているという。

2000年のシーズンは地元の鉱夫や政府関係者により、数kgの原石が採掘された。州財務部の公式発表によれば、1998年から2002年の間に採集された原石は2kgで、その1割弱が(1000ct?)が宝石質であった。採掘地点は、旧坑とか新坑とか呼ばれているが(ニュー・マインとオールド・マインのことと思われる−SPS)、お互いに100mも離れていない場所にあり、ただ宝石質の原石の割合が異なるだけだという。ベルベット・ブルーの石はどちらからも出るが、大きく透明な石は旧坑に多い。最上質の石はどちらも同じくらい素晴らしい。

新しく採掘されたカシミールサファイヤの流通は現在、州政府経由の販売、あるいは許可を得た地元民からの正規ルートに限られているようだが、これまで1世紀前に作られたアンティーク品の還流を待つしかなかった市場はあらたな供給によってじわじわと活気づけられ、カシミールサファイヤの魅力に接する人々が増えて、価格も上昇傾向にあるという。
(2006.5.5)   新産の標本の画像⇒ギャラリー:No.458


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