韮山反射炉の大砲鋳造 追記


追記1:2000.4.15
このコラムは、3月中旬の3連休に韮山の反射炉を訪れたときの感想などを、印象が鮮明なうちにバタバタと書いたのですが、その後、関連図書を読んでわかったことを補記しておきます。
まず、坦庵公が参考にしたヒューゲニンの著書。意訳して「大砲の作り方」としましたが、「鉄熕篇」、「大砲鋳造法」、「大砲鋳鑑」、「西洋鉄熕鋳造編」その他いろいろな呼び方をされたようです。正式名称は「ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」(1826年、ロイクはリエージュのオランダ語読み)。この本は、当時、日本の製鉄人の間で、超絶的に重要視されたバイブルだったとか。長崎出入りのオランダ商人を経て日本に入り、1850年までには蘭学者たち(主にお医者さんらしい)の手で邦訳が出されました。同時期に複数の翻訳が試みられたため、邦題がいろいろあるのですが、そのひとつには、釜石で高炉を作った大島高任も訳者として名を連ねています。彼はなんと自分で原典を訳出して、炉を作ったのですねえ。偉い、偉い。
なお、ヒューゲニンは、ヒュゲーニン、ヒユゲエニンなどと記載した本もあります。どれが正しいか私は知りません。
オランダ人砲兵将校、”Hugenin”です。(ゲーテはギョエテ、アナスンはアンデルセンというお国柄ですから、好きなように訛りましょう。関係ないけど、名探偵はホームズなのに、どうして湾岸戦争はホルムズ海峡だったんだろう?)

幕末に反射炉がバタバタ作られた背景。きっかけは欧米各国の船舶が和親通商を求めて来航したことですが、沿岸防備の必要を感じた幕府は、朝令として「お寺の梵鐘を毀して銃砲を作るでおじゃる」を宣下。これを受けて各地で手っ取り早く大砲を作れる反射炉の築造にかかったということがあったそうです(はじめは青銅砲の製作にかかったが、産銅の減少や、数量、費用的な面から鋳鉄製とする必要に迫られた)。製作年代順には、佐賀藩、薩摩藩、ついで伊豆となります。文中では、パンフレット通り、韮山を国産第2号としましたが、これは誤りの可能性大です。一方、高炉についても、島津斉彬公の英断により、薩摩藩で作ったのが第1号で、釜石(南部藩大橋)は2番目となります。ただし、出銑に成功したのは釜石が最初で、おそらく中国地方に並ぶたたら製鉄のお膝元のこと、優秀な職人芸が成功の原動力だったのでしょう。薩摩藩の高炉、反射炉は、試行錯誤の途中で斉彬公が 死去、その後、薩英戦争で灰燼に帰したため、半ば忘れられてる感じがします。

また、坦庵公が江戸で開いていたという「高島流洋式砲術教授」については、高島四郎太夫(秋帆)という人が、日本の軍備の立ち遅れを懸念し、私財を投じて、各種の鉄砲、大砲、砲弾類を購入、洋式の操法を教授したのが開祖であり、秋帆による、江戸板橋徳丸ガ原での大砲発射実演(1841年)は、それまで外国船打払い令を敷いていた幕府が政令を緩和、諸国大名に海岸線防備を促すきっかけになったといわれます。

 

追記2.2000.5.23
岩波新書「火縄銃から黒船まで」(1970)という本に次のような記述があります。
「1842年、幕府から大砲製造命令が出ると、諸藩で青銅砲の鋳造が行われ、次いで鉄製砲を志向した反射炉の建設が行われた。鋳鉄砲は、耐力で青銅よりわずかに劣ったが、廉価で大量に作れる利点があった。大砲作りで終始先頭に立ったのは佐賀藩で、1852年から65年にかけて鉄製砲だけで100門以上を生産し、長崎周辺、江戸品川の台場、紀淡海峡などの防備に一手供給した。薩摩、韮山、水戸でも反射炉は作ったが、いずれも青銅砲製造の段階にとどまり、実戦に役立つ鉄製砲の生産には至らなかった。」
この記述が正しいかどうか、今のところ私には判断がつかないのですが、もし、正しいとしたら、韮山反射炉においてある説明パネルは、まったく不可解だということになるでしょう。ここには青銅砲についての言及は一切なく、銑鉄の溶解、鋳造について触れているだけだからです。
また1853年に鉄製砲の鋳造に成功した佐賀藩を、韮山、江川のもとから八田兵助が訪れた記録があり、佐賀藩のノウハウを持ち帰って役立てたことが十分に考えられます。

原料の銑鉄をどこから持ってきたかについては、同著者の「小判・生糸・和鉄」(1973)に、
「溶鉄を作るための資材として佐賀藩は石見産、薩摩藩は自領内産と伯州産、幕府韮山は南部産、水戸藩は雲州産と、いずれもたたら銑を用いたが、水戸藩は釜石高炉銑も試用し、佐賀藩は、後にヨーロッパ銑使用に切り替えている。」
という記述を見つけました。氏は、「還元不足で酸素を多量に含むたたら銑を用いたのでは、酸化炎で温度を上げる反射炉でスカルが多量に発生するのを防ぎえず、湯の成分を十分に均質にすることが出来ない。どうやっても最初の試射で破裂する程度の大砲しか作れない」としています。

佐賀と水戸(那珂湊)が出雲産を使って、いずれも砲身破裂を繰り返したのは事実として、私としては、南部産鉄を用いた韮山が同じ困難を経験したかどうか、もう少し調べて見たい点があります。というのは、同じたたら銑といっても、産地によって成分はかなり違っているからです。
例えば、一口に出雲産といっても、代表的な真砂(鋼用)、赤目(銑鉄用)をはじめ、質によって4〜15種類の区別があったといいます。東北の砂鉄も事情は同じですが、赤目系が多く、出雲産と比べ、スラグの流動を阻害するチタンを多く含む傾向があり(つまり不純物を除去しにくく)、一般的に決して良質の銑鉄素材ではなかったようです。その上でなぜ坦庵公がこれに目をつけたのか、逆にいえば南部でのたたら製鉄は出雲とは違う技術を生み出していたのではないか、「南部鉄瓶、金気(さび)なし」と謳われた、南部鉄の良さはどこにあったか、マンガンの含有量はどうだったか(マンガンには脱酸作用があり、また鉄の粘りを増すので、優秀な銑鉄が得られる。本文中のシュタイエルマルク銑やスエーデン銑なども高マンガン鉄)。

ついでにいえば、反射炉の中で一旦銑鉄が完全に溶けた後でスカルができたのか、装入した桁組の銑鉄塊の表面が一度も融けないまま鋼質化してスカルになったのかによっても、この議論は違ってきます。後者の場合は、非常に厄介な状態になるのは間違いなく、氏もこの立場で論証しているのですが、私には十分予熱した炉で、還元炎によって炉温を1100度くらいに保って銑鉄を融かしきることが可能だったのではないかと思えます。佐賀藩の記録では、挿入した銑鉄は必ず内部から溶け出して、外側が溶けずに残る、とあるそうで、この場合後者の見方が正しいのですが...。

 

追記3.2000.6.10
大橋周治氏の「近代鉄工業のあけぼの」によると、天領韮山の反射炉で製作された鋳鉄砲は、坦庵公の名前とともに広く知られているが、資料によって確認できるのは、18ポンド砲2門にとどまる、とあります。

氏は、続けて、「反射炉における石炭使用、石炭蒸留によるタール製造、良質の耐火煉瓦の焼成などの面で部分的には技術進歩が認められ、また、江川家の家臣・門人のなかからは明治の日本海軍と造船業の創設を担った多くの人材が生まれている。にもかかわらず、その製砲事業における直接の成果は乏しかった。」旨、述べています。

次の資料は、同氏の「幕末明治製鉄論」からの孫引きです。

場所 操業開始年 炉数 製砲数
肥前

薩摩

幕府

島原

水戸

鳥取

長州

備前

佐賀

鹿児島

韮山

安心院

那珂湊

六尾

大多羅

1851

1853

1855

1855

1856

1857

1865

約200

58?

2?

30以上

20以上

52以上

また、法政大学出版局の叢書に「反射炉」(2分冊、1995)があり、韮山反射炉についてかなり詳しい記述がありますが、ここでも、「詳しいことはよくわからないが、実際に作られた大砲は、数門にとどまったと思われる」としています。

どうやら、私の追っかけも、このあたりが潮時でしょうか。


このページ終わり [戻る]