ミャンマーのルビー   −マーチン・レオ・エアマンの回想2


マーチンがビルマ(ミャンマー)からもたらした素晴らしいルビーについて簡単に紹介したいと思う。

彼がラピダリージャーナル誌に寄稿した読み物に、ある年老いたアヘン愛好者の話がある。マーチンはその男から非常に美しいルビーを見せられ、ぜひ譲って欲しいと何度も持ちかけたのだが、男は最後まで首を立てに振らなかった。しかし、絶対に売らないと言ったわけではなく、「多分いつかは」と微笑んで、その話を打ち切るのが常だった。ジャーナルの話はそこで終わっているが、そのあとルビーがどうなったか、次のガス・マイスターの談話が顛末を語ってくれる。

−私がマーチン・エアマンと妻のリタに出会ったのは、1968年以降のことだったと思う。彼は、私が同じキールの出身だということを知り、同じ学校に通っていたことがわかると、いろいろな昔話を始めた。彼は長い間会わなかった従兄弟のように私をもてなしてくれた。やや遅れてワーナー・リーバー博士が訪ねてきた。マーチンは私と私の妻、それにリーバー一家を、ミッドウイルシャーの洒落た店に連れ出し、豪華な夕食をご馳走してくれた。食事の後、私たちはビバリーヒルズの彼の家に戻った。そして暖炉を囲みながら、巨大で完璧なルビーを持っていた、この年老いたビルマの宝石商の話を聞いたのだった。

彼とマーチンは長年にわたって膨大な取り引きを重ねてきた友人同士だった。マーチンはときどきこの宝石を売ってくれるようもちかけたが、どんな条件を出しても老紳士は話に乗らなかった。そうこうするうちに歳月が流れ、宝石ビジネスの醍醐味は失われていった。もはやめぼしい宝石が現れることなど期待できない時代になった。マーチンがビルマを訪れることもなくなった。
60年代も終わりのある晴れた日のことだ。中国人の若い紳士がマーチンのオフィスに現れた。小さな包みをそっと机の上にのせると、おもむろに自己紹介を始めた。あのビルマの老紳士の孫だった。彼は簡潔な言葉で、祖父が亡くなったことを告げた。そして、この宝石の扱いについて、まず最初にマーチン・エアマンに連絡をとるようにという、特別の指示を受けていると話した。若者はある値段を提示した(だが、マーチンがその値段に触れたかどうか覚えていない)。マーチンはただちにシンジケートのメンバーと連絡を取り、買い取りに必要な資金をその場で用意したそうだ。若い孫は代金を受け取り、祖父の遺言を無事に果たすことが出来た。

マーチンが手に入れたルビーはかなりの大きさで、およそ2X4センチほどの、まったくキズのない石だった。彼のグループは、この投資をもっとも有効に活用する方法を、たっぷり時間をかけて検討し、最終的に、3つか4つに割ってファセットカットを施した宝石に磨き上げることに決めた。相当な利益が得られたということだ。その宝石がその後どうなったか、今誰が持っているのか、私は知らない。−

もうひとつ。マーチンが「ルビーの王」と呼んだ原石がある。上述のルビーよりもさらに大きい石で、彼のシンジケートはこれに30万ドルを投資した。「ルビーの王」もいくつかに小割りされたが、最大のものは、99.99カラットという巨大な宝石となったという。

また別のビルマ旅行の際には、交渉を重ねた末、1090カラットのサファイヤ原石を買い付けたことがあった。この原石からは、135カラットのキズのない部分が切り出され、さらにいくつかのカット石に分けられたという。最大のカット石は65カラット。キズのない、純粋で鮮やかなベルベッティ・ブルーの石だった。

マーチンはこれらのビルマ・コレクションこそ、宝石世界への彼の最大の貢献であると考えていた。莫大な資金が注ぎ込まれ、数多くの素晴らしい宝石、最高水準の標本が西洋にもたらされたのだった。


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