ここに紹介するのは、アメリカの宝石/鉱物商、マーチン・レオ・エアマン氏の伝説的な鉱物探索行の一場面である。1904年、ロシアに生まれた氏は、貧しい移民としてアメリカでの生活を始めた。やがて小さなひすい細工の店兼自宅をニューヨークに開き、そこで鉱物収集を趣味とする多くの人々と親交を持った。
そのうち博物館や大学へ出入りするようになり、素晴らしい標本を扱うことで有名な、アメリカ屈指の標本商となった。氏は世界中どこへでも出かけて行き、人々が夢にも願わなかったような大いなる収穫を携え、満面に笑みを浮かべて博物館を訪れるのだった。彼には並みはずれた審美眼があり、素晴らしい記憶力と度量があった。紳士然とした魅力の持ち主で、旧大陸風の倫理観と礼儀作法を自然に身につけていた。
マーチンによってもたらされた何千という極めて美しい標本の数々は、今日でも世界中の博物館や個人の収蔵品として残っている。1972年に亡くなるまで、氏は常に宝石/鉱物への情熱を持ちつづけた。マーチンが標本を手に入れるため、未開の土地へと赴いた冒険談は、まさに鉱物収集の夢そのものであった。
大勢の友人たちは、今もあの優雅な気質と伝説的な探索行を懐かしく思い出すのである。
彼の友人だったビル・スミス氏とキャロル・スミス氏が、1994年のミネラロジカル・レコード誌に寄稿した「マーチン・レオ・エアマン」と題する伝記は、(おそらく)圧倒的な好意で読者に迎えられた。もちろん筆者もその一人で、早速日本語訳を作って、鉱物のコの字も知らない友人に無理矢理読ませたものである。
その中から、氏のミャンマー探索行、類希なるペリドットの結晶を見出したエピソードを紹介する。いくらかのダイジェストと補筆をしてあることをお断りしておく。興味のある方は、是非原文をあたっていただきたい(英語)。美しい標本の写真がふんだんに載せられている。
鉱物好きの方には言うまでもなく、ペリドットはかんらん石と呼ばれる造岩鉱物の一種で、美しいものは明るい黄緑色の(オリーブの一種、かんらんのような)透明な宝石になる。この石は夜間照明などの人工光線下でも輝きを失わず、むしろいっそう強く輝くので、夜会パーティーにぴったりの宝石である。ペリドットは普通、塊状であるが、ごくまれに自形結晶を保って産出することが知られ、古来紅海上の島、セント・ジョンズ島で採れるものが有名だった。その島の結晶よりはるかに美しいペリドットを、エアマン氏はミャンマーの秘境に見出すのである。以下スミス氏の文章から。国名は原文通り、ビルマとしたが、現在ではミャンマーが正式名称となっている。エアマンの発音だが、エールマンまたはアルマンとするのが正しいかもしれない。
マーチンが初めてビルマを訪れたのは、1955年のことだった。以来、1962年までに、7度ビルマを訪問している。途中ヨーロッパへ立ち寄ることもあり、1回の旅行は、たいてい2,3カ月以上に及んだ。彼はビルマを愛した。そのままいけば、終生訪れ続けることになろうと思われた。だが、突然、事情が変わった。1962年3月2日、ネ・ウイン将軍がクーデターを起こし、あっという間に軍事政権を確立したのだ。翌朝には、外国人の即時国外退去が申し渡された。まもなく、外国人のビルマ滞在許可(ビザ)は24時間以内に制限されることとなった。
すべての鉱山が国有化された。宝石売買は、政府機関を通じて行う以外、不可能となった。こうした措置は、宝石ビジネス(特にマーチンのような業者の)に破局をもたらすものであった。
だが、そうなるまでに、彼はビルマ各地の鉱山を精力的に訪れ、数々の素晴らしい宝石や鉱物標本をアメリカに持ち帰っていた。
旅行はおおむね単独行だったが、時には友人を伴うこともあった。
例えば、1960年、マーチンはロイヤル・オンタリオ博物館のビクター・ミーンをビルマへの長期旅行に誘っている。二人はラングーン(現ヤンゴン)やモゴック、モガウン周辺のヒスイ鉱山、フコン峡谷のコハク鉱山、ホンコンの研磨工房などを回った。その紀行はラピダリー・ジャーナル(ミーン、1962)に載せられている。
紀行によると、ビルマ旅行の最大の目的は宝石の原石やカット石を仕入れることにあった。それがスポンサーたちの意向だったが、彼自身はその上、第一級の鉱物標本を入手可能な限り、購入したいと考えていた。だが、もちろんこちらを優先するわけにはいかなかったので、結局ハーバート・フーバーグループが開発したボードウィンの銀、鉛鉱山や大規模な錫鉱山への訪問はあきらめねばならなかった。
彼のビルマ旅行は、いつも、最後にはモゴックへと向かうのがお決まりだった。モガウンのヒスイ鉱山やフコンのコハク鉱山へも何度か足を運んだようだ。
マーチンのビルマ旅行は、ラングーンでウ・キン・モーンという若い現地人を雇ったことから道が開けた。その時以来、モーンは、通訳兼ガイド兼交渉代理人として、マーチンの忠実な仲間となった。モーンはジープを持っていて、彼等の旅にはこの上ない助けとなった。マーチンがモゴックに滞在するときは、いつでも彼の両親の家に泊まり、彼の家族たちと一緒に暮らした。マーチンはあっというまにビルマ流の礼儀作法を覚え、現地で快適に生活してゆくのに不可欠な風習を実行した。その態度には、少しも、わざとらしさや、厭らしさがなかった。マーチンはアメリカ人であって、決してそれ以外の何者かになったふりをしなかったからだ。異なる文化に対して自然な尊敬の念と興味を持ち、彼らしい優雅な旧大陸風の態度を失わなかった。
マーチンは晩年、回想録を書き始め、6章分が書き上げられた。その中にビルマでのエピソードがある。ビルマでの宝石ビジネスの香りを味わっていただくため、以下にマーチンの手稿を引用しよう。最初のビルマのペリドットが、どのようにして西洋にもたらされたかという話である。
−ブローカーたちは、突然私の存在に気がついた。彼らはいつのまにか私の宿所の階段の前に一列に並んで立っていた。そして、お互いに言葉をかけあう様子もなく、自分の順番がくるのをただじっと待っていた。まるで彼らの生活のすべてがここにあり、他にすることは何もないといったふうに、すっかりくつろいで、ゆったりと構えていた。ウ・キン・モーンは先頭のブローカーを列から呼び出し、私たちの居間に連れてきた。その男は重たそうな大きな麻袋を運んでくると、目の前で中身をあけた。ペリドットの山が散らばり、私はとまどいながらそれを見つめた。
それがモゴックで見た、この貴重な原石の最初のロットだった。少なくとも75ポンド(約40キロ)はあるようだと、私は見積もった。想像をはるかに超えた、素晴らしい、巨大な結晶が山ほどあった。いずれもきわめてシャープな面を持っていたが、結晶全体にわたって、ごく小さな三角形状の蝕像があった。仲のいい博物館のキュレーターたちの顔が眼にうかんだ。彼らは、これほど大きなペリドットの結晶が存在するとは夢にも思っていないだろう。
すべてのものが結晶していたわけではなく、割れた破片もたくさんあったが、透明で美しく、カット用の原石として充分な大きさがあった。このロットからなら、10カラットから300カラットまでの石がカットできるだろうと思われた。一方、余計なキズがあるためにまったく値打ちのない石もたくさんあった。
石の山を吟味している間、私は何度かブローカーに目をやったが、彼は一瞬もロットから目を離さなかった。一度、体をゆすろうとしたが、神経質そうに引きつっただけだった。ブローカーと交渉を始める時がきた。私はこのロットを買いたいと思った。ブローカーは目をあげることなく、じっと黙っている。とうとう私は、ウ・キン・モーンに合図を送り、このロットを全部買いたい、と伝えさせた。その瞬間、ブローカーの心配は終わり、緊張がほぐれた。彼は再び完全にくつろいで見えた。
すぐに私は、彼が売りたいのはこのロットの3分の1だけだということに気がついた。ピョン・ゴーンにいる、このロットの持ち主がそう彼に指示していたのだ。ピョン・ゴーンという町は、具合の悪いことに不帰順地区であり、モゴックからわずか10マイルしか離れていないのに、モゴックの人間は誰一人あえて近づこうとしない場所であった。
モーンを通じての説得は何の効果もなかった。石の持ち主はお金には困っておらず、もっと必要なときがくるまで、ロットすべてを手放すつもりはないのだった。そして少なくとも3カ月後のビルマ正月が過ぎるまでその必要は起こらないだろうという。ブローカーが言うには、鉱夫やディーラーが全員、この石の値段は上がり続ける一方だと考えるようになれば、値崩れを防ぐことが出来ると持ち主は強く信じており、それもまた全てを売ってしまわない理由だという。
彼らは皆、お金が必要になるまでは宝石を手元においておくのが、賢いやり方だと信じていた。私はただただ信じられないという顔をして座っていた。
最終的に私は、不帰順地区に行って原石の持ち主と会い、ロット全部を売ってくれるよう交渉することに決めた。ウ・キン・モーンは反対した。相談した他のディーラーたちも同じ意見だった。最後に下級官吏のS.D.O.を訪ねて、彼のアドバイスを求めた。彼もまた、こんな大それた冒険には反対だった。ただ一人、私のピョン・ゴーン行きを危険だと言わなかったのはペリドットのブローカーだけだった。彼は実務的に私の身の安全を保証してくれた。
ただ一つ問題があった。(ピョン・ゴーンでは)誰一人英語を話せないというのである。だが私は、紙に絵を描いたり、身振り手振りで交渉が出来るだろうと考えた。
反対はあったが、結局ブローカーと私が、私たちのジープに乗って、翌朝早くその町へ向かうことに決まった。金目のものを一切持っていかないというのが条件だった。交渉が成功したら、私たちはペリドットを持ってモゴックに戻り、代金はここでブローカーに支払うということになった。
次の朝、私たちは約束通り出発した。ほぼ1時間かかって、ピョン・ゴーンから2マイルの地点まで来たとき、ブローカーは、ジープを停めるよう求めた。そして彼が戻ってくるのを待てと言った。彼は、不帰順民の首長(おそらくシャン族の軍隊長)と会い、私の訪問の意図を話すつもりだった。首長が許可しないようなら、引き返してきて、私たちはおとなしくモゴックへ戻るほかない。だが、うまくいった場合は、馬を連れて戻ってくるので、ここから村までの2マイルを騎馬で進み、そうして私はペリドットの所有者との交渉に臨むことができるという段取りだ。
1時間後にブローカーは馬車で戻ってきた。馬車には首長が乗っていた。首長は、私を村に入れるかどうか決めるために、自ら出向いてきたのだ。
彼は50歳くらいの、ビルマ人としても背の低い、ほてい腹のごく小柄な人物だった。真ん中で分けた髪は黒く、ヘアトニックのせいで、てかてかに光っていた。驚いたことに、彼はたどたどしいながら、意味の通る英語を話した。はきはきした感じのよい声で、物腰は優雅で軽やかだった。
「あなたはイギリス人なのか?」というのが最初の言葉だった。
私はアメリカ人だと答えると、彼は微笑んだ。その答えが気に入ったようだった。
私たちは政治問題も含めて、いろいろなことを話した。おしまいに彼は、不帰順民はおそろしいか、と訊ねた。私は、あなたは私が初めて出会った不帰順民だ、と答えた。そして、不帰順民がみんなあなたに似ているなら、少しもおそろしいとは思わない、とつけ加えた。
それを聞くと、彼はジープに乗り込んだ。それ以上何もしゃべらなかった。私たちは車を走らせ、10分で村に着いた。
そこは30戸ほどの家屋からなる集落だった。わらぶき屋根の家が何軒かあり、その他の家は錫の波板で屋根を葺いていた。いずれも高床式の脚柱の上に建っていた。1軒の大きな家が目に入った。首長の住む屋敷だった。村のすべての営みは、この屋敷を中心に回っているように感じられた。私はある家の前で降ろされた。幸運を祈るよと言って、首長は唐突に別れを告げた。私は家の前に立ったままおいていかれた。どうしたらいいのかわからないので、ただ待った。馬車を引いたブローカーが現れるまで少なくとも10分はそうして立っていたのだ。それから二人そろって階段を上がった。居間へ入るために靴を脱いでいると、声をかけてきた人物があった。それがペリドットの持ち主だった。彼の言葉はすべて私の理解出来ないビルマ語だったが、礼儀正しく丁重に迎えてくれていることはわかった。
袋が再び開かれ、ペリドットが床の上に散らばった。石の持ち主は、選り分けもせず、その3分の1をひと山にした。そして、これが今日売る分だ、残りはお金が必要になるまで売るつもりはない、と言った。私は身振り手振りで、ロットを全部買い取りたいと思っており、後から売った場合と比べても少しも損にはならないことを保証するために、とてもとても高い値段で買うつもりなのだということを、彼にわからせようとした。
彼はもう一度3分の1に分けられた山を指差し、お金は必要ではないのだ、だから売るのはこれだけだ、あなたはいくらの値段をつけるのか、と言った。
私は、私の方からは値段をつけない、あなたが値段を言わねばならない、その値段に満足したら、私は石を買おう、と言った。彼は値段を書いた。かなりリーズナブルに思えた。
しかし、ビルマ人というものを知っていたので、このまま承諾してはいけないということが、私にはわかっていた。私は、彼が提示した3分の1の値段を書いた。彼は微笑みながら、「クエアー」、とんでもない、と言った。私は、ロット全部を売ってくれるなら、一山あたり今書いた2倍のお金を払おうと、身振りで伝えた。はじめのうち、彼はその提案に惹かれたようすだった。だが、2,3分考えると、また3つに分けた一山を指差し、新しく値段を書いた。私は自分の書いた値段を少し上げ、とうとう私たちは、この一山については合意に達した。だが、私はロットの残りをあきらめる気持ちになっていなかった。
私は、またも身振りで、もしロットを全部売ってくれるなら、彼が実際に期待しているより、はるかに沢山のお金を払うつもりだが、彼はそのお金を今すぐに受け取る必要はないのだということを説明した。そのお金は、モゴックにいる彼の信用を受けた人間に対して支払うことにすればよく、彼は、1カ月後でも、2カ月後でも、あるいはビルマ正月の後でも、いつでも自分の好きなときにその人物からお金を引き取ればいいではないか。
彼はこの誘惑には抵抗できなかった。ついに彼はロット全部を売ってもいいと言った。
私に原石を渡して、代金を受け取る役目はブローカーが引きうけることになり、持ち主が必要とするときにその分のお金を届けるということに落ち着いた。
いつか私が、百万ドルもするルビーやサファイヤの素晴らしい原石を手に入れることがあるとしても、それに比べたら取るに足らないペリドットを手にいれた今ほどの感激は味わえないだろう。たしかにこれはささやかなものだ。だが、これほど珍しく、美しく、またこんなにも素晴らしい宝石のロットをまるごと買い付けることが出来たという事実が、私には途方もなくうれしかったのだ。
さらに多くの会話が、終始完全な威厳と礼儀を保ちながら交わされた後、私は彼のもとを去った。ブローカーは原石のロットを携えて後に続き、それをジープに載せた。そして、帰りは私がモゴックまで運転してもいいだろうか、と訊ねた。−
マーチンが持ち帰ったペリドットは、比類のない豊かな深みのある草緑色をしており、セント・ジョンズ島で採れる、しばしば薄い板状になるものより、ずっと均等な柱状結晶だった。この旅で得られた原石から取れた最大のカット石は、1962年にUSNM(訳注:アメリカ国立自然史博物館−ニューヨーク)が入手した、287カラットのクッション・カットの宝石だろう。それは今も公開展示されており(NMNH
G3705)、ポール・デゾーテルの著書(1970,1972)に写真がある。
ジョン・シンカンカスはこう書いている。
−彼が最初にもちかえった、あの有名なビルマ産のペリドットのことは忘れられない。四角柱状あるいは板柱状のきらきらと輝く結晶だった。注目すべきはその巨大さで、いくつかの結晶は数百カラットもあった。また透明度と色の美しさも特筆すべきものだった…。
最後に、ペリドットの結晶標本について補足。実は現時点では、比較的簡単にペリドットの結晶にお目にかかる事が出来る。94年頃からパキスタンでペリドットの結晶が大量に産出しており、市場に流れているからだ。もちろん珍しいことには変わりがないし、いつまで供給が続くかわからないので、欲しい人は今のうちに入手しておくとよい。(その後、2000年頃から中国産の結晶も出回り始めた。)
[ペリドット No.36 パキスタン産、No.465 ミャンマー産]
1999.2.20
<SPS>
エアマンとミャンマーのルビー:ここに紹介したエアマン氏には、ほかにもさまざまなエピソードがあります。その中でミャンマー産のルビーの話を簡単に紹介します。