連日、猛暑が続いている。釜の中を泳ぐ心地で歩く。屋内ではクーラーを入れないととても居れないので(PCも暴走するし)、ときにはほとんど1日中クーラーの吐き出す冷気に沈んでいる。体の芯は冷えて、むしろ冷え対策が必要な寒冷地仕様の身体になっているため、屋外に出たときのダメージはさらに大きい。困ったことである。
私が子供の頃は…などと言い出すのは些かバツがわるいが、なにしろクーラーなどなくて当然の時代だった(家にも車にも)。当時のモノクロ写真を見ると、夏場は大人はみなランニングシャツ1枚でウチワを片手に写っている。眉根にしわを寄せ、眼を細めているのは、日差しが眩しいからか、暑さにうだっているからか。「なんとかならんか、この暑さ」と、うんざり声が聞こえてくるようだ。
氷塊を買ってきてカキ氷を作る、手に塩をとって舐める、手土産の西瓜を流水で冷やして客と食す、そんな風情に懐かしさがあるが、今と比べてどちらの生活がよかったかはなんともいえない。仮にクーラーが世の中から消えてしまえば、ないなりのライフスタイルが再び社会的に作られていくだろうけれど、お金を払えば買える以上、資本主義社会からクーラーが駆逐されるはずはなく、(都市文化において)選択肢は存在しないに等しい。現代の都市住民は冷えと熱暑の多重波状攻撃の中でなんとか体を保っていく方法を見つけるほかない。
先日、弟が、日経新聞に2回に分けて掲載された見開き2ページ(計4ページ)のヒスイ特集記事(6/27&7/4)を送ってくれた。ヒスイの産地と古代文化について、いろいろなソースから取材したらしいトピックをショーウィンドウに散らすように綴ってあった。記事の意図するところはいまひとつ汲み取れなかったが、西都原考古博物館が昨年、国際交流展「玉と王権」を開催したとの記述がビビッときた。そういえば、そんなニュースをオンタイムで読んだことがあったのだが、私にとって宮崎ははるか遠い国で、見に行けるはずもないと忘れていた。
ともかくミュージアムショップに問い合わせ、図録を送ってもらった。ネットの噂によれば、西都原考古博物館は日本−韓国−中国の間に存在した古代の文化ネットワークについて、地元の出土品を足がかりに積極的に問題提起を続けている機関だそうだ。玉の流通(賜与)と政治権力との関連は、以前から何人かの研究者がシンポジウムや著作で語っており、数年前に開催された国立科学博物館の「翡翠展」図録にもアウトライン的な解説があった。しかし、いかんせん日本古代史はもっと根本的な部分が解明されていないので、突っ込んだ議論は難しい。
私は「日本独自の翡翠文化」というテーゼに、独善的な胡散臭さと視野の狭さを感じている。日本に玉文化があったことは本当だと思う。が、どの程度の独自性を持っていたか、ヒスイ文化として括るべきものだったのか(だって明らかに後期には碧玉の玉作文化も存在している)、「世界でもっとも古い」と主張すべきものなのか(古い攻玉技法は大陸由来の可能性が高い)、もっと勉強した上でとっくり考えてみたいと思う。なので、さほど負担なく手に入るなら、関連資料は集めておきたい。(とはいえ論文や研究学会誌は内容が専門的過ぎるし、経済的負担も大きい。)
[図録の表紙。タイトルの玉の英訳として、伝統的なJadeでなく
Gems(宝石)をあてているのが、いいセンスだ]
届いた図録は、私にとって目新しい内容がいくつもあった。殊に台湾・故宮博物院のケ淑蘋(とうしゅくひん)という方のテーマ講演「伝串間市出土穀璧が啓示するもの」は、趣旨と構成のしっかりしたフルーツフルな資料だと思う。宮崎県串間市に出土したと伝わる径33.2cmもある巨大な玉璧について、古代中国の玉文化の変遷を背景に、当時の政治的価値と文化交流上の意義を述べたものだが、璧が果たしたであろう役割を明晰に考察しており、この資料のためだけでも図録を手にする価値がある。ケ氏は古玉を専門に研究している女性らしい。原文は中国語だが、山田花尾里氏の訳が力強い文体で読ませる。
璧の起源について、「現時点における中国最古の玉璧となると、黒龍江省松花江流域の新開流文化(BC5000-4000年頃)の玉璧を挙げるべきであろう」、「東アジアにおける璧形玉器の最古の例はシベリアの旧石器時代(約2万年前)のもので、バイカル湖のほとりにあるブレチ遺跡とマリタ遺跡出土の軟玉や蛇紋石製の璧形飾である」とあったのは意味深長で、その他、璧(とjと圭)の信仰や用法に関する氏の指摘は一々小気味よく、私の玉史への理解はブラッシュアップが必要だと思った。
締めくくりは神武天皇が日本へもたらした三種の神器−鏡・剣・玉−に話が及ぶ。「一般的には鏡と剣は漢代の中国からの渡来品、玉は日本の「勾玉」であるとみなされているが」「玉とは双身動物面紋玉璧のこと」ではないかと、伝串間出土品にダブらせて玉璧説を提起しているのが面白い。
「日本の歴史や文化に疎い中国人」の「空想に過ぎない」と結んで、国際交流展に合わせたリップサービスの気配もあるが(徐福が神武天皇になったという説も紹介している)、鏡と剣が渡来品なら、玉もまた渡来品であっておかしくない。
(※この神器は一般に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の名で知られている。「瓊(に)」は、丹塗り(にぬり)という語があるように、赤い色が古義らしく、Wikipediaには赤いメノウが示唆されている。しかし、瓊の玉⇒奴の玉⇒奴奈川の玉⇒糸魚川産のヒスイ玉、という解釈もある)
図録にはほかに韓国語の論文(邦訳付)が1点、あとは邦人の著述が数点収録されている。それぞれ専門的な内容だが、岡村秀典氏「東アジア古代の玉器」の一節に、おやっ? と気を惹かれた。
「いまから3300年ほど前の河南省殷墟婦好墓から出土した玉器は、1970年代に理化学的な分析によってホータン玉と報告されたが、これも疑わしい。分析技術の進んだこんにちですら、成分から玉の産地を判定することはむずかしいからである。」
岡村氏は中国古代王朝の研究者で、古代文化史や玉器に関する著作を出版されている。そういう専門家が玉材の産地を(従来の研究報告を)疑ってかかっている。特に根拠は述べられていないが(分析データにどんな理論的な欠陥があるのか)、職業柄、古い玉器に実地に触れる機会も少なくないだろうから、なにかノンバーバルな手応えがあるのだろう。あるいは古代の半ば集落的な地域国家とはるか西方の砂漠地方とを結ぶ点と線にリアリティが見出せないということかもしれない。実は殷墟出土玉器の鑑定に疑義を挟む日本人研究者の声は、すでに80年代から上がっている。
とはいえ、上述のテーマ講演ではケ氏が、戦国時代よりずっと古い時代の文化圏で「西方の崑崙山系で採掘される、明るい色調が特徴のホータン玉」が「早くから広く使用されていた」と定説を述べた。
私は従来のホータン産説にロマンを感じているが、もし河北・河南省あたりでホータンに匹敵する玉の産地・採石跡が見つかったら、それはそれで手を拍って喝采するだろうと思う。職業的な玉器の製作や技術の向上は素材となる石材がある程度容易に手に入ってこそ成立するもので、それには産地または集散地と加工地が近い方が有利だし、でなければ安定した交易ルートの確保が必要になる。玉器が産地以外の地域で希少価値を認められたり、財貨的・精神的価値を伴うようになるのは別のフェーズの話だ。
余談だが、ミャンマー産と信じられていた日本のヒスイ玉は、糸魚川流域に宝石級のヒスイが発見されたことによって国産の可能性が拓かれ、よりムリのない形で製作・流通経路の説明がつけられるようになった。
糸魚川のヒスイはミャンマー産に非常によく似ており、肉眼での区別は出来ないといわれている。XRF(蛍光X線分析)を用いて副次成分の組成比に着目し、各産地のサンプル集団についてSr/Fe
比とSr/Zr
比とをパラメータとした2軸グラフを作ると、両者の分布範囲は大部分の領域で重なっている。つまりサンプルの多くは成分分析をしても、やはり産地の区別がつかない。しかし重ならない領域も存在しており、組成比ペアがその領域に入る場合は、ある程度の確からしさをもって推定が可能だそうである。(この方法で糸魚川産と判定された遺物がいくつかある)
ミャンマー産説が消えたわけではないが、14-15世紀以前の中国ではヒスイが知られていなかったとされているので、当時、中国・朝鮮半島からヒスイ材が輸入されたとは考えにくい。そのため、大方の研究者は日本のヒスイ玉は付近に製作工房跡の見つかった糸魚川産を用いたという考えを支持しているようだ。
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