鉱山、特に石炭鉱山に対する私の原イメージは、子供の頃に見たテレビ番組や映画に強く影響されていて、また長じて読んだ幾冊かの鉱山労働の回顧談に拠っている。これについては何年か前、「日本とドイツ 鉱山と鉱夫のイメージ」などに思うことの半ばを書いたが(続きを書かないまま随分時間が経った)、長崎の離島(岩礁)の炭坑については上野英信の「地の底の笑い話」(岩波新書
1967年)7章の生々しい描写を脳裏から拭うことは出来ない。
なので、2015年に長崎県の端島(はしま)が高島炭坑と共に世界文化遺産に推薦された時は、随分とびっくりした。これが日本の産業文化として誇れる遺構なのかと首を傾げたわけだが、その後、明るいイメージで語られる島での生活ぶりを繰り返し耳に聴かされるようになって、なるほど世の中そういうものなのだと知った。これが日本流の鎮魂文化なのかもしれない。
で、まあ、気持ちにひっかかりのあるクセに、私もやっぱり観光で行ってみたのである。
本土から約4.5km
の海上に顔を覗かせた岩礁から石炭が発見されたのは
江戸後期 1810年(文化年間)のことという。
明治期の産業振興の波に乗って縦坑を開削し、海底深くに伸びる
良質の石炭(強粘炭)鉱脈を追った。
岩礁の周囲を埋め立てて居住施設を作り、島の中に坑夫を生活させて
昼夜分たぬ採鉱が行われた。
波の荒い外海に浮かぶ島は、周囲を10m高さの防波堤で囲まれているが、
台風などで海が時化ると、乗り越えた高波が島内を襲ったという。
そのため建物は窓を小さく作った。
1974年に閉山して、3ケ月後には無人島となった。その後の半世紀間に
自然の力で崩壊が進み、今見る廃墟の島となる。
記憶の風化も進んだ。
2001年に高島町に譲渡され、2009年から上陸許可がおりるようになった。
風化は現在も進んでいるが、観光施設化したことから修復・補強の手も入っているそうだ。
正面奥に見えるのが小中学校。渡り廊下で連接する左の建物は9階建の居住
アパート。その屋上の10階が幼稚園になっていたという。
島には乗用エレベータがなかった。つまり幼児を連れて階段を上り、
屋上まで預けにいってから働いたわけ。
(このあたりが埋め立てられたのは昭和初期)
半世紀も放置するとこうなるのは自然の理か。
それとも、まだこれだけ残っているのがすごいのか。
左手の高台はもとからあった岩礁の部分で、下の平地は埋め立てて
作られた石炭の運搬・出荷施設(貯炭場)の跡。コンベヤを載せていた支柱
だけが残っている。潮のかからない高台の上の建物は幹部社員が
住んだ高級アパートで、一般鉱員の憧れだった。
部屋は3間あり、しかも内湯があった。
島には飲料水が湧かなかった。最初は海水を蒸留して真水にしたが足りなくなり、
次いで長崎港(市内)から水を運んできたが、それも間に合わなくなった。
1955年に 6.5kmの海底パイプを引いて本土から水道が引かれた。
ようやく真水の風呂に入れるようになった。
引いた水は高台の上の貯水槽に貯めた(左端に錆びた送水管)。
その左に白い灯台が見えているのは、閉山後に建設されたもの。
鉱山が稼働中は 24時間島から灯りが絶えることがなく、灯台は不要だった。
右下に塞いだ坑口が見えるが、往時はここにもベルトコンベアが伸びて
石炭を貯炭場に流していた。
質のよい島の石炭は燃料用でなく、主に鉄鋼製造の原料炭となった。
防波堤の下部に開いた口。ここから水道を島に上げた。
左上あたりの赤い土質は、粘土と石灰とフノリ(海藻を煮て作った
膠状物質)を混ぜた接合材で、これで丸石やブロックを繋いだ。
コンクリートが風化崩落するなかで、しぶとく堤を固めている。
島内で見学できるのは南東側 1/4程度の部分だけ。
かつ見学通路を境界して、その先に踏み込まないよう定められている。
ガイドさんが在りし日の島の賑わいを説明してくださる。
掲げている写真は第二縦坑の櫓。
中央のレンガ壁(背後を足場櫓で補強している)は石炭倉庫の跡。
その右に補強足場で支えられた階段が見え、その先が第二縦坑の櫓の残部。
坑夫たちは、ここから秒速 8mの速度で落ちるように深さ600mの坑道に
下っていった。そこから鉱脈は斜め下に海底深くに伸びていた。
切り羽は最終的に 2,500m先まで進み、深さは更に400m下った。
一度坑道に降ると 8時間(戦前は12時間と)は上に戻ることなく、
海面から約1,000mの深さで働いた。
坑道は温度 30-35℃、湿度 95%のサウナ状態。
仕事を終えて戻ってきた坑夫は目と歯以外は石炭が張り付いて真っ黒。
作業着は固着して脱ぐことが出来なかった。
縦坑を出たあたりに3つの風呂が設えられていた。
最初の風呂は海水で、作業着も靴もつけたまま入浴して、汚れを落とした。
服を脱げるようになると、次の風呂に進んで体の汚れを落とした。
最後に真水の風呂に入って、塩気を落とした。
島の南端あたり。明治30-32年頃に拡張(埋め立て)された部分。
ちなみに陸の炭鉱では選鉱後の低品質の石炭をあたりの野山に
捨ててボタ山をなしたが、島にそんな土地の余裕はない。
ズリは海に捨てた。
正面の建物は第30号棟アパート(鉱員社宅)。大正5年(1916年)の建造で
日本最古の鉄筋コンクリート造りの高層アパートという。
(上述の通り、乗用エレベータはない)
その左側は第31号棟アパート。地下が共同浴場。
端島の説明写真。島の東側は主に鉱山の生産施設。
中央の高台に業務施設や幹部アパートや神社。
西側が居住施設で、北側は市場、学校、病院などがあった。
長さ(南北)480m, 幅(東西)160m ほどの狭い空間。
自然な崩壊がつねに進んでいる。
南東から眺めた端島
南西から眺めた島。居住棟の他、公民館や映画館もあった。
この角度から見た端島は、軍艦「土佐」の遠望によく似ているといわれた。
ひと呼んで、「軍艦島」の名の由縁。
すっかり廃墟。左に見えるロケット状のものは、島に唯一の神社(端島神社)。
この下に拝殿があったが、いつかの台風で倒壊したそうだ。
北西からみた端島。島の北端にある病院/隔離病院は
昭和33年(1958年)に完成したという。
この頃から昭和40年代にかけて、島の生活レベルは随分よくなったようだ。
末期の鉱員の給与は世間の倍くらいあり、電化製品の家庭普及率は
日本で一番だったという。ことにテレビの導入は早くて、
ほぼ全世帯に備わっていた。
生活用品や食品は毎朝島に運ばれてきたが、いつも午前中で売り切れたそうだ。
ちなみに島の出炭量の最盛期は戦時中だが、戦後の高度成長期も
20-30万トン/年の出炭が続いた。島内人口は1960年頃が最大で
約5,300人を数えた。国のエネルギー政策転換で斜陽産業化。
閉山時の人口は約2,000人ほど。
風化が進んで、防波堤にもヒビが入っている。
このあたりは観光客は立入禁止らしい。
長崎市内の波止場から出る観光船で、島まで片道約40分のクルーズ。
帰路、船内でビデオの上映があった。
こういう風に伝説は語り直され、姿を変えていくのだと思った。
いろいろモノ思わせてくれる異世界体験。
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