ひま話 日本とドイツ 鉱山と鉱夫のイメージ −2013.10.16


日本では昔から地下/地底をイメージした民話や伝承、文学がたくさん生まれてきた。地下は「人界との隔絶性、到達の困難さ、そしてときに死と闇と再生とに彩られた世界」であり、試練/イニシエーションの場として描かれる。
そして特に、苦しい探索と仕事とによって宝物が得られる鉱山は、人との関わりにおいて両義的価値が出会う場所として機能し、世俗性と聖性、物質と精神、生と死、希望と絶望、光と闇といった対照が顕著に現れることを(その1)に述べた。
また鉱山のイメージは、近世以降の機械化された大規模鉱山と近世以前からの手掘り鉱山との2層に分けて捉えうることを述べた。大規模鉱山では後者のイメージが重層しうる。

明治期、日本には歴史上初めて大規模鉱山が出現した。インテリと労働者階級とが生まれ、近代の名の下に人々の生き方に大きな変化の波が押し寄せた。そうした時代の流れを背景に、夏目漱石の「坑夫」(1908)は大銅山で働く坑夫たちの生活と、銅山に紛れ込んだうかうかしたインテリ青年の心の動きを二重写しに描き、優れて象徴的な鉱山イメージを浮かび上がらせている(⇒その2)。
漱石は文学という手法によって、鉱山の坑道を下降する道行きを青年が自分の心の深いところに触れる過程に重ね合わせたと考えられるが、そのような読み方の可能性、つまり鉱山(地下世界)という物理的な闇の領域と、意識することの難しい心の闇の領域とをオーバーラップさせるイメージの捉え方を、日本人は生来的に了解していたように思われる。我々にとって地底は古事記の昔から根の国であり、魂の去来する世界であったのだから。

★鉱山と人間の心の領域を、言語を媒介してメタフィジカルに交流させる文学手法は、ドイツでは日本の「坑夫」より1世紀早くに流行をみていた。1800年前後、鉱夫や鉱山の登場する作品がことにロマン派の作家によって盛んに提示され、鉱山は(作品の主題ではないにしろ)自然界の内奥を象徴する神秘的な場所として捉えられ、同時にある種の精神的志向−自然科学や真理、永遠性や女性性へのロマンティックな憧れ−の焦点・源泉・鉱脈として意識されていた。
先に紹介した E.T.A.ホフマンの「ファールンの鉱山」(1819)は舞台こそスウェーデンの銅山だが、紛れもなくドイツ精神から生まれた作品で、その代表的なものである。

ドイツ人自身はこの種の「鉱山文学」を一種のお家芸と自負している気配があり、例えば文学者ハインツ・シュラッファーに、「ドイツ語圏では深さを追求する三つの学が隆盛となった…地質学、考古学、精神分析学である」との言葉がある。ここに地下の深みに向かう探索と、年代の遡行と、人間の内面・深みへの問いかけは、はっきりと同じレベルに並べられている。
言われてみれば、地質学(鉱物学を含む)はフライベルク鉱山学校のウェルナー(1749-1817: 水成岩起源論)、ブライトハウプト(1791-1873)ヴィンクラー(1838-1904)、考古学は大森貝塚のH.シーボルト(1852-1908)やトロイ遺跡のシュリーマン(1822-1908)、精神分析はウィーンのフロイト(1856-1939)やチューリヒのユング(1895-1961 分析心理学)の名前がすぐに思い浮かび、なるほどと頷かされる(私としてはウィトゲンシュタイン(1889-1951)の論理哲学も加えたいところだが)。
18世紀後半から20世紀前半にかけて、地下深くの鉱脈の探索や宝石探し、化石や遺跡の発掘、古代への情熱とルーツ探し、人間を動かす不可解な衝動や憧れの原因を意識化する試みは、どうやら渾然一体となってドイツ語文化の担い手を惹きつけ、冒険と探求の旅へと駆り立てたもののようで、その力強い情熱は19世紀初にはつとに文学の中で表現され、夢の成就が予感されていたのである。

ちなみに19世紀前半(ロマン主義の時代:1800-1840を含む)は化石動物の復元が欧米で黄金期を迎え、恐竜(ディノサウリア)が発見された時期であった。地中からどんな驚嘆すべき真実が現れてくるのか知れたものではなかった。精神医学界には思弁的・心理学的色彩の強いロマン派と呼ばれる臨床家たちがドイツ語圏にあって、心の闇を探っていた。河合隼雄は彼らにフロイトの先駆を見ている。ドイツ・ロマン派を代表する作家ノヴァーリス(1772-1801)は、フライベルク鉱山学校で化学、数学、地質学、鉱物学を学んだ。

★「坑夫」との比較で興味深いのは、ドイツ・ロマン派の文学が、やはり近代社会の成立期、そして大規模鉱山の台頭期に書かれたことである。ヨーロッパにおいて市民意識と個人の能力への信頼が兆し、一方で自然科学の発達によって人間の活動領域が飛躍的に拡がった時代である。
産業機械の導入により鉱山ではかつてないほど深く長大な坑道が掘られるようになった。地表近くの鉱脈を掘り尽くして疲弊した古い鉱山が科学の力によって息を吹き返した。深い坑道の切羽は、自然界が長い歳月の間、人間の侵入を拒んでいた新たなフロンティア(最前線)であった。自然の力で固く守られていた宝物が人間の新たな英知によって掘り出される現場であり、また神秘のベールに包まれていた自然界の真の姿が古い観念や迷信を打ち破って科学の光の下に照らされるべき舞台であった。鉱夫は図らずもその過程の証言者として表象される存在なのだった。

とはいえ、あらゆる事象を科学の下に拝跪させようとする、啓蒙主義的な理性一遍倒の真昼の明るさは、ドイツ・ロマン派の行き方ではなかった。彼らは昼を認めつつ、むしろ夜の暗さを愛した(補記1参照)
人間が手にしたイケイケどんどんの力と世界との調和的な関わり方を模索し、自然界の法則の冷静な科学的記述者たらんとする一方で、そこに息づく神秘に憧れ、謙虚に学び、かつ豊かな感情をもって賛美する「自立し、完成された個人」としてのあり方を、(それはしばしば意中の女性に出逢う旅との二重映しになっているのであるが)、ひとつの主張とした。素朴な鉱夫はその象徴とみなされた。インテリの彼らを惹きつけた夜は鉱山の闇に通じていたのである(ということは女性もまた同じ闇に通じていたわけで、いま男性性を昼、女性性を夜に見立てると、地下世界(夜)に憧れる理性(昼)と、両性のバランスを実現しようとする探求とが二重映しになっていたと言うことができる)
鉱山の奥で発見されるのは、一方では有用な鉱石であり科学的な知見であろう。だが一方で、深い闇の中、人は太古の精霊や、忘れられた神々(ことに女神・闇の聖母)、夜の幻夢にあらわれる不思議な生き物、ときに怪物にもまみえることになるのではないか。地下世界とはそもそもそうした二面性を鋭く提示する場所なのであり、さらにまた、おそらくは永久に不可知に留まるであろう人の心の深部にも繋がっているはずだから…。
昼と夜、科学と幻想、人間と自然、男性性と女性性の出会いがはらむ微妙な均衡の上に、ロマン派の鉱山文学は心地よい場所を見い出し、我々「鉱石抒情派」を甘く誘うのである。

18世紀初(1719年)、ファールンの銅山で大崩落以前のとある古い坑道に再び手がつけられ、坑道の奥の緑ばん水の溜まりから数十年前に行方不明になった鉱夫の遺体が発見された。それはいわば、自然界が人界から取り上げ、あちら側に留めていた「永遠の鉱夫」を人間がこちら側に引き戻した、もっと正確には活動領域を押し拡げた人間があちら側をこちら側に取り込み、失われた時間を力づくで引き戻した象徴的な出来事だった、と見ることもできる(その結果が幸福であったとはいえまいが)。
ホフマンの「ファールンの鉱山」は、出来事から1世紀後、鉱山が機械化され大規模化した(過渡的な)時代に、このエピソードにインスパイアされた彼が一気呵成に書き上げた作品で、科学では説明できない啓示を享けたある若者の不思議な人生がオーバーラップされている。
若者はとある港町で精霊トルビョルンに導かれ、夢の中で自然界を体現する山の女王(太母)に謁見する。ファールンを訪ねて鉱夫になり、女王の恩寵の下に次々と鉱脈や宝石を見つける。その末、婚礼の日に地底に降って消息を絶つ。しかし50年の時を経て(旧坑の再開発を期に)、若者は当時の姿のまま地上へ戻ってくる。遺体を老婆となった許嫁が迎える。この日があることを、トルビョルンは彼女に予言していたのである。
ドイツ語圏ではホフマン以後も同じエピソードの再話がそれぞれに趣向を加えながら繰り返されていく。詳しくは機会を改めて。

★漱石の「坑夫」は大規模鉱山の普遍的なイメージを読者に定着させた。同時に鉱夫を、生死にかかわる過酷な労働に従事する労働者の象徴として印象づけた。
実際、鉱山が大がかりになるほど、その奥の地下世界は地上から遠く隔たってゆく。地下へのフロンティア拡大は、より多くの富(鉱石)を社会にもたらしたが、一方で鉱夫たちをより危険な領域へと追いやった。彼らは坑口から何百m、何千mの奥底に赴くことになり、ひとたび事故が起これば生還はほとんど期待できなかった。
もちろん近代以前の鉱山が安全だったというのでは決してない。試みに、荒川鉱山の請負師の家に嫁入りし、あとに選鉱女工として働いた女性の人生を描いた松田解子「おりん口伝」(1974)の一節を引くと、「畑鉱山みろ、…昔からの金山で、藩の金山方が直轄したころは、南座千軒、北座千軒とて、たいした栄えたものだども、享保13年(1728)の大水で大落盤して鉱夫が千人も死んだと言わ。怪我は何百人あっただか。死んだ鉱夫の数がわかったのは、坑内(しき)さはいるとき坑口さ脱ぎすてていった上衣(かたびら)の数が、あとで見つかっただけでも千あったということでな。」
また荒川鉱山は「この鉱山も古い鉱山(やま)で、鉱夫なら何千死んでるかわからねえだ」と語り、明治以降、財閥資本が経営するようになってからも、鉱山の仕事はすべてが命がけであったこと、地上でも地下でも作業中の事故が絶えなかったこと、また製錬所で発生する青い毒煙が地を這うさま、農民を泣かせる青い川の毒水、ヨロケ(銅肺)死などが語られる。
鉱山での事故や災害は大規模化・機械化を経てもなくならず、むしろ一層絶望的な状況をもたらしたのである。そして近代以前には、(文学として、ときに資本主義権力に対立して)、こうした出来事が人間の尊厳と結びつけて明瞭に語られることはなかった。

★鉱山は予期しない、しかも不可避の危険に満ちた場所、極限的なフロンティアとしてイメージされ、鉱夫は同じ切羽で働く同胞のほかは外部から孤絶した劣悪な労働環境で働く者たちの像を示した。逃れることもならず、決死の覚悟で働く彼らは、漱石が描いたように、獰猛で気性が荒く、漢気(おとこぎ)はあるが刹那的な生き方をする人物としてイメージされた。
逆に鉱夫を持ち出してくることで、荒々しく気風(きっぷ)のよい、しかし芯は優しい男のイメージを出現させることが出来た。(「大丈夫だて。−鉱夫や土方は、見た目はおっかないようだども、本性はとってもええもんだで。」(おりん口伝))
このあたりはドイツと大分違うようだが、ドイツ鉱山文学の場合、作者は特権的な知識人の理想の生き方を、理念として寡黙な鉱夫に重ねたのであり、日本ではむしろ労働者の等身大の生き方を、幾分かはインテリの社会派的視点を交えつつ、ストレートに語ろうとしたのである。

例えば「幸福の黄色いハンカチ」(1977)という映画がある。刑期を終えて網走を出所した中年の男が、もしかすると一方的に離縁させた妻が昔住んでいた家で自分を待っていはしないかと、逡巡しつつも炭鉱の町夕張に戻る旅を軸にしたロードムービーである。
高倉健演じるこの男は飯塚(いいづか)出身の川筋者、景気が悪くなった筑豊を出て北海道に渡ってきた根っからの炭鉱夫という設定である。その出自と経歴が男の性格や行動に説得力を与えている。

筑豊という土地は、昔から燃える石(石炭)の産地として知られ、江戸時代には地元の農民らが煮炊きに石がらを使っていた。五木寛之の「青春の門 筑豊編」(1969-)を引くと、「明治初期の筑豊は、富国強兵をモットーに高度成長をひた走る近代日本国家のエネルギーのすべてをささえる石炭王国として発展しつづけていた。各地から流れてきた貧農や、素性のしれない流れ者があつまり、荒々しい戦場のような空気がみなぎる土地だった。」「炭鉱で働く男たちのなかには、前科のある者もいたし、荒っぽい外題人たちも幅をきかせていた(補記2)。飲む、打つ、買う、の明け暮れとともに、命がけの激しい労働がつづく。だが、この土地にいるかぎり、その人間の出身も、人柄も、過去も、誰もほじくりだして問題にしようとはしない。地下でのつらい労働をいといさえしなければ、三度の飯と、酒と、雨露をしのぐ屋根だけは、ついて回った。原始的な採掘である。事故も多い。体と気力がなまれば、稼ぎも少なくなる。」
筑豊をつらぬいて流れる遠賀川の川筋に住んだ彼らは川筋者と呼ばれた。

「(筑豊は)北九州のなかでも古くから『川筋気質』(かわすじかたぎ)という独特の気風をはぐくみ、女も男同様に勇気と腕力を誇った土地柄だ。」「『なんちかんち言いなんな。理屈じゃなかたい!』 川筋の男たちは、しばしば決断をせまられたときに、そう言いはなって起ってきた。男だけではない。」「明治のころは筑豊のあちこちに名のとおった女親分たちがいて、その侠気をうたわれたものだった。」「明治から大正、そして昭和と、時代はかわっても、ヤマの女のそんな気性の激しさだけは失われてはいない。」
五木が川筋気質といい、また一般に鉱夫からイメージされる激しい性格は、鉱山の苛烈で危険な労働に迫られて育まれたものだったのであり、いくらか美化されているにせよ、黄色いハンカチの炭鉱夫勇作にも色濃く反映されている(ちなみに高倉本人も筑豊の出)。

★「青春の門」の主人公信介の父重蔵は背中に蜘蛛の刺青を背負い、「のぼり蜘蛛の重」と呼ばれて周囲から一目おかれた鉱夫だった。あるとき、彼は別の鉱山の坑夫集団との喧嘩に出張るが、その最中、相手方の鉱山で落盤事故が起こったと知らせが入った。第一坑道に非常水が出て、30数人の坑夫が閉じ込められているという。重蔵はすぐに鉱山に駆けつける。彼らを救うには、下を交差して通る新坑道との間を爆破して、水を下へ落とすほかはない。増産体制の構築を急ぐ会社は乗り気でなく、むしろ坑夫を見殺しにする構えで虎の子の第二坑道に厳重な見張りを敷いていた。重蔵はダイナマイトを腹に巻き、喧嘩相手の竜五郎らが見張りを引きつける隙に単身坑内に潜入した。やがて坑内で爆発が起こり、第一坑道から水が引く。閉じ込められた者たちは救かって上がってくる。が、重蔵は戻ってこなかった…。
彼の自己犠牲的な行動が表沙汰になることはもちろんない。しかし筑豊の炭鉱労働者なら誰もが承知のこととして語られる。重蔵は常に死と隣り合わせにある彼らの願望を担う理想の川筋者として、イメージの中で生き続ける伝説のヒーローとなった。
彼と張り合った竜五郎は後に信介を引き取って育て、「まあ、川筋にもああいう男は、ちょっとおらんじゃったろう。しかし、結局あいつもマイトで死によった。それも喧嘩相手のヤマの坑夫どもを助けるためにな。馬鹿といえば馬鹿、偉かと思えば偉かもんたい。」と回想する。

死と炭鉱夫の結びつきはことのほか強い。もろい岩盤や出水に加え、有毒(メタン)ガスの突出、坑内火災、粉塵爆発等に悩まされる炭鉱は極限的な作業現場だった。
「黄色いハンカチ」の回想シーンに、事故が起こった坑内から上がってきたばかりの勇作に妻がとりすがって泣く光景がある。彼の左には担架に乗せられた坑夫が仲間に運ばれて上がってきている。生と死の狭間が紙一重で交錯する鉱夫生活のイメージを、そして男の人生を、鮮やかに切り出した場面である。
夕張では小さな事故は毎日のようにあったという。 大きな事故は 1960年代には夕張炭鉱第二坑で死者42名の爆発事故(1960)、第一坑で死者62名の爆発事故(1965)、また北炭平和鉱でも死者31名の爆発事故(1968)が起こっている。映画は1977年発売のファミリアFR4を運転する内地の若者が、6年半の刑期を終えた勇作に行き遇う設定である。ならば勇作が服役したのは 1970年頃、回想シーンは60年代のこれら大事故のいずれかに重なっているのだろう。
どこの鉱山でも、坑内で命を落とした仲間の遺体を地上に連れ戻ることは最優先事項だった。仏が坑道を上がるときは同じ坑内で働く坑夫全員が行列に加わって一緒に上がってきたという。死者となっても地上に連れ戻さなければおさまらない気持ちは、理屈ではない。理屈ではないが、坑夫になった者なら誰もが共有した絶対感覚だったのだろう。
鉱山と鉱夫のイメージには生と死とが、坑内での事故、生還を求めて走る者、仲間を助けようと奮闘する者、死ぬ者と生き残る者、そして同じ坑内で働いた誰かの死によって発現する盟友感覚が分かちがたく結びあっている。そこには生き残った自分の命もまた、誰かの犠牲の上に成り立っているのだ、という感覚もあるかもしれない。

★円谷プロの特撮TV番組「ウルトラセブン」の第17話「地底GOGOGO」(1968 放映)は、炭鉱での人命救出ドラマである。
ご承知の通り(かどうか分からないが)、ウルトラセブンはM78星雲から地球の観測にやってきた恒点観測員340号、つまり一介の宇宙人である。彼が地球にきて初めて目にした人間は、仲間と一緒に山登りをしていた青年だった。青年は岩壁から滑落して、前を登る仲間にザイル一本で支えられていたが、仲間を巻き添えにしないようザイルを切り、自ら200m下の谷底へと落ちていった。セブンはその勇気に感じて、気を失って落下してゆく青年を助けた。地球上で活動するため、青年の魂と姿とをモデルに人間モロボシ・ダンに変身した。そして侵略の脅威にさらされている地球を見過ごしにできず、地球防衛軍ウルトラ警備隊に入隊したのである。

17話はダンが助けた青年、薩摩次郎が出てくるお話で、次郎の職業は炭鉱夫だった。彼が地下1,000mの坑内で働いていたとき、原因不明の落盤が起こった。次郎は仲間と共にいったんは坑口へ向かうが、ペットのネズミを切羽に忘れてきたことに気がつくと、仲間の制止を振り切って連れに戻った。そしてその後の崩落で退路を断たれ、チューキチと地底に取り残されたのだ。
ダンらウルトラ警備隊員は、地中潜航車マグマライザーを駆って次郎の救出に向かった。
ヘッドランプと黄色いヘルメット。煤で黒く汚れた顔。首に豆絞りの手ぬぐい。カーキ色の作業服を着た若者。坑道の壁に突き立つ削岩機の轟音。ショベルとベルトコンベア。掘り取った岩石を積んだトロッコ。これらは坑夫、トンネル工事の作業員といった地下で働く労働者の典型的な映像イメージであったろう。そして笑顔の爽やかな好青年、仲間思いでよく働き、ペットの命も自分の命と同じ重さで大切にする男らしいハンサムな青年の像は、やはり侠気に富んだ頑丈な鉱夫のイメージを継承したものと受け取られる。少なくとも1960-70年代、一般人が鉱山と鉱夫について抱いたイメージはこうした要素で構成されていたのである。

先に夕張で起こった炭鉱事故を並べたが、筑豊ではもっと大きな事故が起こっていた。三井三池炭鉱の三川坑では 1963年11月に炭塵爆発が起こり、落盤により458名が死亡した。現場は第一斜坑から約1,500mの深所で、一酸化炭素中毒者は 839名を数えた。戦後最大の産業事故である。1965年6月には三井鉱山の第二会社山野炭鉱でガス爆発が起こり、死者237名を出した。「地底GOGOGO」は時期的にそうした社会背景を負ったドラマだった。もちろん子供にはそんなこと分かるわけもないが。(補記3)

★話の顛末に簡単に触れておくと、外観からはとても地底を掘り進んでゆけると思えないマグマライザーだが、そこは人類の高度な科学技術の結晶であるゆえなんら問題はない。堆積土壌は尖頭のドリルコーンで掘削して進むし、花崗岩地帯はレーザービームで破砕しつつ進む。やがて火山帯の風穴(溶岩からガスが抜けて生じた洞穴)に出たため、風穴を突っ走って時間を稼ぐ。ところが、どうやらそれがワナだったらしく、前方を遮蔽扉が塞ぎ、後方もまた扉が降りてきて進退を絶たれてしまう。強力な爆薬を仕掛けて扉を破れば、その奥には正体不明の地底都市があった。不審な事故はどうやらこの都市が原因だったらしい。あたりをロボットが徘徊している。隊員たちは都市に潜入して爆薬を仕掛け、殲滅を図った。
一方、ダンはセブンに変身して次郎を救出し、マグマライザーに乗せる。工作を終えた隊員も戻り、全員揃って地上への帰還を果たす。ただ、次郎の相棒チューキチをセブンは一緒に連れて出たのかどうか、そこがどうもよく分からない。
また地底都市が何だったのかは(宇宙人の侵略基地なのか、人類より古くから地底に住んでいた者の文化都市だったのか)、なにしろ発見と同時に問答無用で壊滅させてしまったから、謎のままで終わる。そのあたり、高度経済成長をひた走る 60年代の日本人の感覚は、一貫してまつろわぬ者を切り捨てる方向に向かい、地底の神秘的な存在に憧れを抱いたドイツ・ロマン派から、はるか遠いところにあったようである。

とはいえ、地底潜航を命じるキリヤマ隊長は、「地底はいわば未知の世界だ。何が潜んでいるか分からん」と注意を与え、部下たちの帰還後には、「地震源が地底都市だったとは夢にも思わなかったよ。我々は地球に関することすら、まだまだ知らないことが多いんだな」と感懐を述べた。地下を未知のフロンティアと捉え、SF的なセンス・オブ・ワンダーを抱きつつ対峙する心構えは持っていたらしい。
(もっともその「何が潜んでいるかわからん」深さの地底で、民間人の次郎たちは働いていたのである)

★キリヤマが地底に対して抱いた感懐は、同じ円谷プロの先行番組「ウルトラQ」(1966)の第一話ですでに表明されている。そもそもこの話の冒頭はトロッコに乗った作業者たちが坑口から地表に出てくるシーンで始まる。東海弾丸道路のトンネル工事現場である。折しも日本は高速道路の建設ラッシュで、1963年に名神高速の栗東-尼崎間が開通し、65年7月には全線開通を迎えていた。この後東名高速が整備されて、1969年5月に東京−神戸間が一本に繋がる。放映の頃はちょうど東海地方あたりでトンネルが盛んに掘削されていたのだろう。工事の最中、ブルドーザが洞窟を掘り当てる。その奥で太古の生物、怪獣ゴメテウスが目を覚まし、地上にあがってくる。また怪鳥リトラリウスのさなぎ(卵に見えるが…)が発見されるのである。
騒ぎを知った新聞記者の由利とパイロットの万城目は、現場に駆けつけると勝手に2人で洞窟の中へ入っていく。由利ちゃんが言う、「わああ。こんなに広いとは思わなかったわ。神秘的じゃない? だあれも知らないところに立っている。何千年も眠っていた洞窟」と。
そして万城目は洞窟を行き迷ったあとに、「何千年も眠っていたこんな場所が僕たちの身近にあったんだってことが分かっただけでも」とつぶやく。
これらの言葉は、たぶん我々鉱物愛好家が鉱物標本を前に抱く感慨にもつながるものであろう。我々が知るようになる前から(あるいは生まれるはるか前から)存在した世界やモノに対する畏敬の念であり、また自分の知識を超えたところに存在するものに感じる驚きと好奇心とである。

★地底から怪獣が出現する事態は、所詮テレビの(子供だましの)特撮番組といってしまえばしまえるし、今となっては怪獣モノの定跡手法に過ぎないであろうが、初めての眼で見るなら示唆するところは大である。

鉱山や地下世界の特質のひとつは、時間的にも空間的にも現在から断絶していることである。地底は過去-太古に、彼方に属している。地層を掘ることは時間を掘ることであり、異世界への扉を開くことである。そこには現実に何百万年も前に生じた鉱物や、太古からの形態・生存様式を継ぐ生きた化石が潜んでいるが、地底と古い時間と心の深みとがつながっているという見方をすれば、(そのようなメタファーが成立するイメージの世界を我々が体験するのなら−映画やテレビはまさにそうだ)、地底はすでに滅びたはずの恐竜-怪獣が現れるにふさわしい場所である。
また同様に、心の底に沈めて忘れたはずの面影、あるいは生きてこなかった未来の可能性が甦ってくる場所としてもふさわしい。地底は「夜」であり、我々が「昼」の意識を生きるとき、選ばなかったもの、忘れたもの、生きなかったもの、抑圧したものは「夜」に、つまり無意識に沈み込んでゆく。もしか鎮めたものに意識が再び出会える場所があるとすれば、それは無意識への通路が開く夜の夢の中であり、「夜」の地下世界であろう。
闇は死であるだけでなく、眠りであり、また新しい生命が萌芽し育まれる場所でもある。失われたものから新しい希望が立ち上がり、我々は夜を通して今とは違う生を生き直す。

怪獣を人類(日本人)が抑圧してきたもの、負として切り捨ててきた物理的・精神的遺産の象徴、文明へのアンチテーゼ、あるいは補償作用とみる見方は、ゴジラからウルトラセブンあたりまでの時期 (1954〜70年頃) にスクリーンに映し出された作品を対象として、多くの怪獣ファンというか特撮マニアというか文明批評家、私の先輩世代や同世代人が表明してきたことである。
明治以降、日本は富国強兵・殖産興業を旗印に西洋の技術を貪欲に取り入れ、列強諸国に並ぶべく戦争と領土拡大に精を出し、戦後は(西ドイツと同様に)奇蹟的な復興と高度経済成長を遂げた。日本人は1世紀にわたって、いわば真昼野を休みなく疾走し続けてきたのだが、その間に振り捨ててきたものも多かった。
そのことを文明の暗部として鋭く意識せざるをえない局面は、まず「生きねば。」ならなかったある世代層の誰しもの胸の中にあったはずで、そんな鬱憤の爆発を怪獣の出現に託し、昼によって生じ(例えばゴジラは核によって現れた)、昼によって否定されたものが、生命力に溢れて嵐のように存分に荒れ狂うさまに重ねた。そして最後には昼の正義によって後退させられるものとして悼んだのである。

と、これまたそんなことを怪獣ブームを支えた巷の子供たちが意識したはずもないのであるが、怪獣映画や番組が幼い心にひそめた破壊衝動(と正義感)を満足させてくれたことは疑いない。そして年長けて振り返ってみれば、やはり怪獣は夜を象徴するものであったように思われる。あるいは我々にとっては昭和戦後期の子供−我々自身−を象徴するものであったのか?(補記4)

その視点に立てば、地下の深所から古代の(始原的な)形態を伝える生物が、破壊の力と暴威とをまとい、ひたすら科学と効率主義を信奉する文明社会を根底から揺るがして現れてきたのは、むしろ必然といっていい。当時、鉱山や洞窟やトンネルの奥で怪獣やその卵が発見された例はおびただしかった。彼等は我々のふいをつき、行儀のよい理性を笑うかのように、未知の怪物の姿をとって闇の中から繰り返し現れた。我々がそれを望んだのだ。

16世紀初のアグリコラの時代、鉱山にはおそろしいデーモンが棲んでいた(→ドイツの鉱山に棲む山鬼)。18世紀初、ドイツ・ロマン派は鉱山の地底に自然界を統べる山の女王の冷厳で魅惑的な相貌をみた。20世紀後半、我々日本人はしかし、地底に太古の怪獣のイメージを、そしていつかまた述べたいと思うが、ある種のアルカイックな郷愁に満ちた桃源郷を見たのである。

(補記1)ドイツ・ロマン派の作家たちにとって、夜は無限であり霊感の源であった。英知の光(昼)は夜に抱かれて育つ、と宣言された。

 「あの聖なる、何とも説きがたい神秘の夜へと、私は降りて行く−深い洞穴の底に沈んで−、夜の世界は、はるか遠くの下界、荒涼とした寂しいところだ。」「暗い夜よ、おまえもまた、私たちを好きなのか? 目に見えない力をもって、私の魂に迫って来るもの、おまえの外套の下に隠しているものは何だ?」「私には光がいかにも幼く、哀れに見えるのだ。」「夜が私たちに開いてくれた無限の眼こそ、私たちには、あの大空にかがやく星にもまさって貴く思われる。その眼はあの無数の星の群のうちのもっとも霞んでいる星よりもなお遠くの方を見て−光の力を借りずに、言い知れない快楽をもって、なおも高い世界を満たす−愛の心情を見とおすものだ。世界女王のうちの女王よ、けだかき死者の、聖なる世界の、幸福な愛を育てるものの第一人者よ。」(第一讃歌)

「しかし、私の秘密の胸は夜に対して、それが作る愛とその娘に忠実でありたいのだ。」「私たちに霊感を与える一切のものは夜の色彩を帯びていないか? 夜はおまえ(注:はつらつとした光)を母のように抱く、そこで、おまえの立派さは夜のおかげなのだ。もし夜がおまえを抱きしめていなかったら、おまえが再び温かくなり、燃えつつ世界を生もうとするために、おまえを縛っておかないとしたら、おまえは自身の中で消滅するだろう−無限の空間におまえは滅びてしまうだろう。」(第四讃歌)

「大地の胎内に降れ、光の国を去れ。苦痛の激動、烈しい衝動こそ、喜ばしき船出の兆しだ。」「讃えよ永遠の夜を、讃えよ、永遠の仮睡(かりね)を」「我らは不安な憧れを抱いて、暗い夜の中に包まれた前時代を眺める」(第六讃歌)
ノヴァーリス「夜の讃歌」笹沢美明訳

「理(みち) ratio は、疑いもなく、深みと暗い地底との語」「理は、精神の夜の相、知は昼の相をなすもの。前者には夢、ヴィジョン、エクスタシイのもつ知恵が、後者では知識がはたらくのだ。」「むしろ直観を光の領域に、そして把握ということを逆に触知、暗黒の領域においてみるべきではないか。」(エルンスト・ユンガー「言葉の秘密」菅谷規矩雄訳)

補記2:外題人(げだいにん)。「青春の門」では大正・昭和初期に筑豊の町々で幅を利かせたある種の無頼なキケ者、と説明している。上野英信はこの語を、炭鉱夫たちが自らを自嘲的に呼ぶ言葉「げざいにん」と重ねる。げざいにんは下罪人で、刑を受けて地方に(鉱山に)下った者の末裔をイメージしたものではないかという。
「おりん口伝」に「むかしから鉱夫(かねほり)などになる者は藩主さ盾ついた謀叛人か強盗殺人した囚人と相場がきまっていたもんだで」という一節があり、一脈通じているかもしれない。
マンフォールド著「技術と文明」(1934,1962) は鉱山業について、「その職業自体が人間的尺度をあてはめればもっとも低いものの一つであった。山をあてるという好餌がなければ、文明化した国では比較的近代になるまで、戦争の捕虜か囚人か奴隷かでもなければ、誰も鉱山に入ろうとはしなかった。鉱山業は人間のやる仕事とは考えられず、一種の刑罰ともいうべきもので、土牢の恐怖とガリー船の肉体的嫌悪感とを組み合わせたようなものであった。」「鉱脈を下に降りれば降りるほど、危険はますます大きくなり、地熱はますます高くなり、しかも機械的困難はいや増す。人類の無残で激しい仕事のうちで、旧式の鉱山業に比較できるものはただ近代の塹壕戦だけである。」云々と指摘している。またロザリンド・ウィリアムズは「地下世界」(平凡社 1992)に、「鉱山業もまた日常の生活や労働からかけ離れたものだった。人里からはるか離れたところで行われているのがふつうだったからである。どの場合でも、地下で働く人の大部分は農奴、奴隷、犯罪人、戦争の捕虜だった。彼らは全く非人道的な条件に耐えねばならなかった。...採鉱作業は一種の刑罰だった。地下労働が社会から下劣なものとみられたことと、意識されない心理的恐怖が、なぜ地下世界が悲しみと死の領域として恐れられたのかを説明する。」と書いた。民話レベルでは鉱山労働をモチーフにしたバジョーフの民話群の、水の出る切羽に鎖に繋がれた農奴のイメージが生々しい。つい200年ほど前の出来事である。

植村直己の「青春を山に賭けて」(1971) には、若い日の彼がアメリカで不法就労して検挙され車で移送されている時に次のように考えるシーンがある。「親や兄弟の意見をきかず、無鉄砲にアメリカにとび出したオレ…。罪人となって日本へ送り返され、親、兄弟に、学生時代山行をともにしてきた山仲間に、山を教えてくれた先輩に、どのツラさげて会えようか。オレは親不孝ものだ。どこかで自殺でもしてしまいたかった。死ねないなら、帰って、九州か北海道で炭鉱夫でもやって一生顔を合わせずにすむようにしようか。…」
戦後昭和期、鉱山で働くという選択肢はまだ生々しい(抜き差しならない)感情を伴って想起されるものだった。漱石の「坑夫」や植村の思考の進め方は、捨て鉢なところと自罰的なところがないまぜになって、いかにも思いつめた日本の若いインテリらしい。

補記3:今の人は、ウルトラセブンを子供向けのヒーロー番組に過ぎないと思うかもしれない。が、当時、一般家庭では日曜19時のゴールデンタイムには家族が茶の間に揃い、同じテレビ番組を一緒に見て団らんを楽しんでいたのであり、セブンの視聴率は30%を超えていた。言い換えればテレビを所有する家庭の3分の1が、大人から子供までこのドラマを見た。
(逆に子供たちは、物心ついた時から銭形平次や水戸黄門やキーハンターに馴染んでいた)

補記4:正義を行使するのは、はじめのうち人類(の軍事力)であったが、やがて人類と手を携えた理想的な宇宙人・神が加わった。その神は人類に尽くした後、光の国(昼)に去っていき、キリヤマは「地球は我々人類、自らの手で守りぬかなければならないんだ!」と宣言したのであるが、その後どういうものか、神はまた何度も戻ってきた。平成になるとずっと地球に残って、人にまぎれて人として生きていたりする。アンヌと結婚していたりする。光の巨人ティガなんかは人間自身である。
怪獣もまた、いつしか馴らされて人類の側−正義の側に取り込まれてしまった。そうでないものはずる賢い宇宙人の手先に落ちた。つまり管理されてしまった。

ちなみに今の子供たちはゲットされたポケモンで、モンスターボールの中に保管され、バトルは闘技場の中限定である。それでも彼らには One piece の海賊たちがある。心に海賊旗をかかげる子供たちがいると思えばうれしい。

補記5:ヨーロッパ世界では19世紀頃から、神話や寓話でない地底探検物語が流行しはじめた、と井辻朱美氏は指摘している。イギリスでギデオン・マンケルがイグアノドンを発見したのが1822年、チャールズ・ライエルの「地質学原理」の出版が1830年。以来、前世紀からの洞窟探検の流行や化石採集が広く「人々の夢想の中に入り」こんだ。1865年にはベルヌの「地底探検」とキャロルの「ふしぎの国のアリス」(初稿タイトルは「アリスの地下の冒険」)が出版された。
「このころから、地底という場所は、単なる別世界あるいは地獄や冥界の場所ではなく、ほろびた過去、失われた時代と強く関連づけられるようになりました。地層を下へたどってゆけば、そこには古い時代(時間)が残っている。ですからドードーのような絶滅動物も棲息し、地球の空洞まで下れば、恐竜さえ生きのびている。そういう垂直な時空観が生まれたのが、地質学の時代たる19世紀ではなかったかと思われます。だから、地底への憧れは、言ってみれば、時の始原への憧れなのです。」
ブルワー・リットンの「ポンペイ最後の日」(1834)。シュリーマンのトロイ遺跡の発掘開始が1870年。こうした現実の「過去の文明の発掘も、地球の垂直構造と時間の遡行構造の重ね合わせに拍車をかけ」た。
19世紀末から20世紀にかけて、ライダー・ハガードの「ソロモン王の洞窟」「洞窟の女王」などの秘境探検小説や、E.R.バローズの「ペルシダー」シリーズを含めた地下世界物語が陸続と書かれた。
(井辻朱美氏 「影のオンブリア」(2005)訳者あとがき−夢の地層へ−より)

補記6:大西巨人「神聖喜劇」より、川筋について。(巻1 p.468-469)
『「川筋じゃ人殺しはあんまりめずらしゅうもありまっせん。」「それも人が人を殺すだけじゃのうして、ガス爆発やら出水(でみず)から落盤からなんやらかんやらが、年がら年中バサラカ(おびただしく)人を殺しとります。」』
『この地方は、住民(その代表は炭鉱労働者ならびに鉄火打ち)の気風が殺伐であることによっても知られている。』『「川筋の人間を嘗めたか。」というような切り口上は、なかなかに虚仮おどしならぬ(次ぎの場面には流血の惨事も多分にあり得るというような)実質的威力を持ってきたのである。』


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