長い間、ひま話を書いてなかったので、短めですが、久しぶりに書きたいと思います。
私が初めてインドに旅行したのは20年以上の昔で、場所は当時のマドラスでした。撮った写真のいくつかを旅のひとコマ No.2
に載せてあります。
この旅行は、私にとって今でももっとも印象が強いというか、トラウマチックなエピソードに富んだというか、思いがけない出来事がこれでもかっ! とばかりに詰め込まれたものでした。
敬愛するクリシュナジの最晩年の頃で、私はこのときが最初で最後でしたが彼のパブリック・トークを聞くことが出来ましたので、行ってよかったと思うのですが、ほうほうの態で帰国したときは、無事に生きて帰れたことを神に感謝し、もう2度とかの地には足を踏み入れたくないという強い気持ちを抱きました。
(その後も何回か旅行してインド好きになるとは知るよしもなく。)
今想えば、大げさで恥ずかしいのですが、あまりにカルチャーショックがひどくて、拒否反応が激しかったです。とにかく、自分はここでこのまま日本に帰れずに死ぬのだけは絶対イヤだ、とか真剣に思いつめて、肩を上げて、むせるような匂いのする暑い埃っぽい道をずんずん歩いてました。
例えば、道端で寝て起きて生活している人たちがいくらでもいて、鉄道駅やバス停ではコンクリートの床や土の上(空き地)に敷布を引いて寝転んで(おそらく)数時間も電車やバスを待っている家族の群があって、ホテルでは学校の旅行行事らしき女生徒たちが部屋がなくて廊下にあふれて寝ていて…といったこと、南インド料理のやみくもな辛さや香草の耐え難い匂い、リキシャ(人力タクシー)の運賃で揉めたり、買い物でふっかけられたり、次から次と物乞いに肘をつかまれ後を追われたり…といったこと、水牛やら牛やらブタやら鶏やらが路上をあちこちほっつき歩いていたり(さすがに象は多くない)、ホテルの部屋においた食料をなにものか(小動物)に齧られたり、夜中金網を齧るリスの歯音に恐怖したり(寝てると鼻をかじられそうで)…といったことは、書いていけばいくらでもエピソードが出てきます。夜更けのシタールの演奏会、ステレオセットのある冷房の利いた応接間でいただいたホットレモン、ベサント・ビハールの午後のお茶会、アンバサダー(自動車)の乗り心地。乾いた牛糞の円盤を頭に載せて運ぶ少女、電気のない暗いあずま屋に眼ばかり光らせて座っている老人、何事につけまるで喧嘩しているように聞こえる激しいタミール語の会話。
ただ、そうしたもろもろのことは、出来事として客観的に見れば、インドを旅行した多くの日本人が同様に体験しただろう(するだろう)ことで、本屋に数あるインド旅行記の頁を開けば、同じようなハプニングと同じように過剰な日本人の反応があふれているのが分かります。
結局、私は日本の画一的な文化にどっぷり浸って、日本的価値観の下に育ち、あるときふと、そうでない世界が厳然と存在することを知って、愕然とした日本人のひとりに過ぎないわけです。
しかし一方でまた、そうした体験が私にもたらした価値観の変化も確かにあったと思います。インドから帰ってきてしばらく経った時に、思ったのはこんなことです。
自分は今までそうしてきたように生きてゆくのが人生だと感じていて、ほかに生きようがあるとは思いもしなかったけれど、またほかの選択肢が社会から認められるとは信じていなかったけれど、でも、それは今自分が属している日本社会から抜け出す可能性を知らなかったからそうだったのであって、人としての存在のあり方や生き方には実は絶対的な基準などないのだ、と。
日本(という場所)には日本らしい精神様式みたいなものが充満していて、その土地にいると自然と否応なく順応してしまうけれど、一歩土地を物理的に離れれば、また別の精神様式を持った人びとがつくる精神圏があり、それはその中で生活する人には絶対だけれど、旅人であってまだ慣れていない人は、もとの精神圏の束縛から自由になる一方、新しい精神圏には囚われていないので、自由に息をし、社会的な決まりごとから距離を置いて、人間のありようを見ることが出来る、とか思っていました。数年間は旅行するたび(飛行機が日本を離れると)そういうことを感じていました。今はもうあまり感じないのですが、それでもやっぱり、そうなのじゃないかと思います。
文字に書くとヘンに生硬になりますが、まあ、私はそういうことを考える性質らしいです。
で、いま私は、はたの人からはちょっと変ってると思われているか知れませんが、自分がどうありたいかとか、どういう生き方をしたいかとかは、自分で好きなように決めればいいことで、例えば、鉱物にむやみとのめり込んでいたり、新しい仕事着を買うべきお金を標本代に回したり、仕事の合間を縫って本を読んだり、いつまでも同じことを悔やんだりしているとしても、それが自分の心に適うなら、それでいいではないか、と思うわけです。
今日、アラスカの自然を撮り続けた写真家の星野道夫さんの随筆を読んでいました。
次のようなことを書かれていました。大都会の東京で電車に揺られたり雑踏にもまれている時に、ふっと北海道のヒグマが頭をかすめる。自分が東京で暮らしている同じ瞬間に、どこかの山で一頭のヒグマが倒木を乗り越えながら力強く生きている、その不思議さ。
自分が仕事に追われている同じ瞬間に、アラスカの海でクジラが飛び上がっているかもしれない。そういうもうひとつの(ゆったりした)時間の流れがあると知っていること…。
私が思うのも同じことです。そもそも私にとっての鉱物は、鉱物が産した土地と環境と、そして鉱物が担う物語とに、時間と距離とを越えて想いをはせるためのアンカーポイントにほかなりません。そこには標本の数だけさまざまに異なった世界への扉があるはずです。その広がりを意識すること。また自然界だけではない。同じ人間であっても、同じ時間に星の数ほども、違った生き方をする人間がいて、それはあたりまえのことで、どの生き方も絶対ではなく、またどの生き方もほかのどれより優れているというわけではない、と知ること。そうした公平さの感覚の中で、自分がどうありたいか考えること。そしてそうしたければ、いつでもその方向へ踏み出す力を見出すこと。
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