鉱石というものは、どこか遠い山の中で、自分の日常世界から離れたところで採れるのが、心理的に正しい、というか腑に落ちる気がする。そしてはるかな異世界から生活圏にやってくるものは、ありふれた鉱物よりも珍しい鉱物の方がふさわしい気がする。不定形の塊でなく、奇妙な形の結晶を示して現れるのが王道のように思われる。
そのテイストに従うと東欧トランシルバニア産の鉱物は、(西欧文明圏のはしくれである日本の)我々にとって、今なお神秘の帳の向こうからかすかなため息とともに届く、ありがたい福音のように受け取られる。
そもそもトランシルバニアとは森の向こう、あるいは森の奥地、といった意味の言葉なのである。地理的に現在のルーマニア北西部あたりの土地を指すが、広義にはさらに北東方のウクライナあたりまで、つまり西欧圏からみてさらに遠ざかる地域までを含むニュアンスがあった。古代ローマ帝国時代から産金が知られた神話圏であった。
狭義のトランシルバニアはドイツ語でジーベンビュルゲン(Siebenburgen)、ハンガリー語でエルデーイ(Erdely)と呼ばれる土地を指した。歴史的に長くハンガリー王国の一部だったが、昔からドイツ人やルーマニア人も住んでいた。通説にジーベンビュルゲンはドイツ語の「7つの城」が語源とされるが、本来はシビウ市の古名に由来し、(ドイツ人が入植した)「シビン川畔の町」の意味だという。
入植はライン右岸に住んでいた人々が 9世紀後半頃からエルベ川の東部の開拓を始めたことに遡る。彼等は暗く深い森を拓いて陽光を導き、土地を耕して農地に変えた。やがて職人や坑夫、商人らを呼び寄せて町を作った。12〜13世紀には開拓村の態をなし、自給率の高い自立的な生活圏が形成された。周囲にはスラブ人やマジャール人など異文化の民族が住んでいたが、なにしろ森の奥であるから、互いに必要以上の干渉をせず、文化的な軋轢も少なかったらしい。ひとつの隔離されたユートピアに近かったのであろう。
紀元前後、ダキア人が住んでいたトランシルバニアはローマ帝国の支配に下って、金の採取など資源開発が盛んに行われた。3世紀半ばにローマ人が去ると、マジャール人が中央アジアを席巻する
9世紀末頃まで、さまざまな民族が入り乱れた。
1003年から 1526年までの数百年間はハンガリー王の支配下にあった。1526年のモハーチの戦い(オスマントルコとの戦い)の後、王国が3つに分割されると、サポヤイ・ヤーノシュの治める東ハンガリー王国(1529-1570)に編入され、それからトランシルバニア公国(1571-1711)となった。公国はトルコを宗主に戴きつつ自治を許されていた。
トルコによる第二次ウィーン包囲(1683)後はハブスブルグ王家が宗主権を獲得した。実質的な領土経営はハンガリー総督が行った。1867年にオーストリア=ハンガリー(二重帝国)が成立すると、二重帝国領とハンガリー王冠領とに分かれた。第一次世界大戦によって二重帝国が解体するとルーマニア王国に併合された。
このように複雑な歴史を持つ土地であるが、多数の素晴らしい標本がヨアネウムに収蔵されているのは、やはり近世以降、長くハプスブルク王家の勢力下にあったためだろう。
ジーベンビュルゲンからは、金、銀、テルル、アンチモン等を含むさまざまな珍しい鉱物が出た。産地の標識に(ルーマニアでなく)ハンガリーとあることが歴史を偲ばせる。
余談だが、1284年6月26日ハーメルンの町から失踪した130人の子供たちは、このジーベンビュルゲンで再び姿を現した、という伝説がある。(補記参照)
さまざまなテルル鉱物
シルバニア鉱 (テルル文字金銀鉱) ジーベンビュルゲン、オッフェンバーニャ産
Blattertellurerz 葉状テルル(ナギヤグ鉱) ジーベンビュルゲン、ナギャーグ産
ジーゲンビュルゲン産 ヘッス鉱の結晶!
ナギャーグ産とカプニック産の菱マンガン鉱
カプニックがルーマニアでなく、ハンガリーと標識されている
ナギャーグ産の菱マンガン鉱 いと美しし
補記:「ハンメルの笛ふき」(ラング むらさきいろの童話集)より。
子供たちが失踪して150年ほど経ってから、ブレーメンの商人たちがハンメルの町を訪れて語った。トランシルバニアという山の多い土地に滞在していたが、そこの住民はまわりの人たちがハンガリー語しか話さないのにドイツ語しか知らなかった、その人たちは、どうしてこんなふしぎな国へ来たのか分からないが、自分たちはたしかにドイツから来たのだと言っていた、と。「だから、あのドイツ人たちは、むかし、ハンメルでゆくえのしれなくなった子どもの子孫に違いないでしょう。」
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