オーストリア、シュタイアーマルク州の州都グラーツは、ローマ帝国時代に築かれた砦(グラデツ)に遡る古い城塞都市で、13世紀に帝国都市となり、15世紀以降は皇帝の居城都市のひとつとなった。オスマン・トルコのヨーロッパ侵攻時には帝国守護の戦略拠点として精彩を放ち、丘上のシュロスベルク城塞で籠城戦が戦われたこともある。そのとき水源確保のために掘られた井戸の遺構が今に残っている。
19世紀以降、工業化によって急速に発展したが、それにはヨハン大公(1782-1859)の活躍が大いに与かったという。
ヨハン大公は後に神聖ローマ帝国皇帝となるレオポルド2世(1747-1792)の13番目の嫡子で、先見性に富んだ才能豊かな人物であったらしい。シュタイアーマルクを愛し、地域の産業振興や学校、病院の充実に尽くした。順位はともかく皇位継承権を持っていたが、アウスゼー地方の郵便局長の娘アンナを好きになり、歳月をかけて結婚に漕ぎつけた。そのため皇族としてのさまざまな特権を放棄することになったが、幸せな結婚生活を送ったそうだ。大公は22歳年下のお嫁さんをナンネル(アンちゃん)と呼んだ。57歳になって子宝に恵まれた。
山歩きが趣味で、「アルプスの王さま」として庶民に親しまれた。1859年に逝去し、チロル地方のシェーナに埋葬された(後にアンナも)。その後、彼を讃える庶民の間でいつしか歌われるようになった民謡が、「ヨハン大公のヨーデル」である。
グラーツ旧市街の中央広場 ヨハン大公の銅像が樹っている。
大公は1811年、自然科学と工業技術の研究・教育機関となるヨアネウム(ヨハン館)をグラーツに開いた。のちにレオーベン鉱業大学、グラーツ工科大学、州立博物館、図書館等に発展してゆく。
旧市街ムール川西岸のヨアネウム・クオーターにある「ヨアネウム」は大公のプライベート・コレクションを中核とした自然史博物館で、2013年3月に改装(統合)オープンされたばかり。現在、生命科学部門と地球科学部門とが一般公開されている。
ヨアネウム 州立博物館
地球科学部門には当然ながら鉱物標本があり、数千点に及ぶ大公のコレクションを中核に、研究者やアマチュアコレクターからの寄贈を受けて、現在およそ8万点の標本が保管されているという。
展示は系統展示と地域展示とに分かれており、系統展示は2つのホールを使って、36棹のキャビネットに鉱物種700種以上、約3,500点が一般公開されている。宝石室と隕石室も併設されている。
第一ホール
第二ホール
キャビネットは大公がウィーンのシェーンブルン宮殿で使っていたもの。19世紀のチェルマック式体系に従って、キャビネットごとに分類された標本が並んでいる。チェルマック式は化学成分と結晶構造の双方を考慮した体系だが、今日ではほとんど用いられていない。
ヨハネウムはフリードリッヒ・モース(1773-1839)が1812年から1817年にかけて働いた場所である。大公の招請を受けてグラーツに赴任したモースは初代キュレータと鉱物学教授を務めた。モースの硬度計が考案されたのはこの時期(1815-1816)のことだった。
第一ホールの「酸化鉱物」の棚
第二ホールの結晶模型
地域展示ホールでは、オーストリア産の鉱物標本が地域ごとに整理して展示されている。博物館にはオーストリアでもっとも鉱産資源に富むといわれるシュタイアーマルク州(スティリア)産の標本が約2万点保管されており、1911年に寄贈された大公の最後のコレクションも含まれているそうだ。ヨアネウムでの研究によると、スティリアには550種以上の鉱物が産するという。
スティリアの主な鉱産資源は、鉄、滑石(タルク)、マグネサイト、岩塩であるが、ほかにも銀、銅、鉛、亜鉛、ニッケル、コバルトなどがかつて採掘され、あるいは精錬されていた。ヨハン大公は鉱山の開発や精錬技術の研究を支援し、フォルダールンベルクに精錬炉を二つ、西スティリアに圧延施設を持って、専門学者や個人研究家に提供した。こうして多くの鉱石標本や精錬資料が収集されたのだった。
1820年頃大公に招請された M.J.アンケルは、ヨアネウムにスティリア工業技術コレクションを設けて、地元の鉱石とそれを処理した中間生成物、最終製品などを展示した。ちなみに彼の名はアンケル石(鉄白雲石)に残っている。
地域展示の第一ホール
中央の巨大結晶はスティリア産の水晶で、約 90kg ある。ドイチェランツベルクの小さな石切り場で1972年に採集された。
「その2」以降でヨアネウムの展示標本をいくつか紹介する。
その3 オーストリアの鉱物2(エルツベルクの鉄の花、辰砂)
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