夏目漱石 「坑夫」 −還るための旅
いささかの私見を交えつつ、夏目漱石著「坑夫」の組み立てと粗筋を述べる。
◇組み立て
主人公は裕福な家に生まれた19才の青年である。社会的地位のある親の下で何不自由なく育った坊ちゃん。高い教育を受けているが、働いた経験はない。世間の荒波をかぶらず大きくなったので気持ちが純。反面、理性的に考えようとするあまり、つねに判断に迷いがあり、ふわふわしてハラが座らない。明治以降に現れた「労働者階級」に対比していえば「インテリ」である。
生まれたときからある少女(艶子さん)との約束があった。しかし別の少女(澄江さん)に恋をし、恋された。おとなしい許嫁に済まないと思うけれども、奔放な後の少女への感情を抑えられない。このままでは間違いを起こしてしまうかもしれないと怖れるのだが、自分の気持ちがバラバラでどうしていいか分からずに苦しい。親や親類に知られて、いろいろ意見もされた。誰かなんとかしてくれないかと思ったり、死のうかと思ったり、駆け落ちしようと思ったり。しかし結局自分一人で家出をした。世界からの消失を試みたのである。
小説は回想記の体裁で、若い日の自分があてもなく家を出た後、周旋屋に声をかけられるまま坑夫として働く気になり、銅山へ連れられて行き、ある飯場頭の世話を受けて坑内を見学し、坑内でインテリの坑夫に出会って彼のようになろうと決心する、しかし結局は坑夫にならず、帳付けの仕事についた次第が事細かに語られる。そして5ケ月働いて、また東京に帰った、と簡単に述べられる。
その折々の言動や、言動にいたった心の動きを回想し、ずっと年を取って落ち着いた(世間ずれした)今の自分の目を通して、成り行きを筋道立てて分析してみるというスタンスをとっている。ただ、たいていの状況分析は「辻褄が合わない」という見方に収斂する。ひと言でいえば、若かったなあ、おろかだったなぁ
しかし青年時代とはそもそもそんなもんであろう。いや、人間というのがそんなものかもしれない。
ふわふわした青年の心の中には、世間から消えたいと思う気持ちの一方で、人間として扱ってほしい気持ちや人恋しい気持ちがある。その両方にひかれて、うかうかと周旋屋の誘いに乗って銅山まで旅をする。飯場頭に親切な扱いを受けると坑夫として働かないと面目が立たない気持ちになる。獰猛な顔つきの坑夫たちの前では神妙に黙り込んだり虚勢を張ったりするが、包容力のあるインテリ坑夫の安さんには素直になる。安さんの人間的な生き方に触れて、後に倣おうとする。それは新しい生き方、居場所を模索しているということでもある。
一方で坑夫の(労働者の)境遇に身をおくことの大変さや世間の厳しさも、自分の甘さも目の当たりにする。残してきた女性たちのことも忘れられない。困難に直面したい気持ちと逃げ出したい気持ちの両方がある。死にたい気持ちと生きたい気持ちも、いつも両方ある。いろいろなことが混ざり合って、青年の心をつねに振らせている。
そしてクライマックス体験として、鉱山の坑道の最深層まで降り(≒心の深いところに触れて)、また地表まで戻ってきた経緯が語られる。青年は坑内への下降と上昇の過程で、死の極から生へ(また生の極から死へ)の振幅と転回とを体験する。
その転回を経て、青年は自分のおかれた状況をこれまでになく明晰に意識するのだが、だからといって物事がすっきり整理されて、ぶれない生き方が天啓のように提示されるわけではない。そんなにちょろくはない。心はやっぱり振れ続ける。人間の心は振幅の極点において明瞭であるが、中間に戻ればまた不明瞭になるのだ。
しかし結局のところ、その後青年が坑内へ降ることはなく、2日後には帳付けの仕事につき、5ケ月間、坑夫たちの銅山生活をいわば傍観した後で東京に帰る。
その成り行きは、小説に語られた体験が、青年にとってある種のイニシエーションだったと考えると納得しやすいように思われる。
本来自分が属していなかった世界に紛れ込むことがイニシエーション体験となることは、現代の青年にもあることである。ときには異世界に馴染んで帰ってこないことも、また帰るに帰れなくなることもあろうが(それも決して珍しいことではあるまいが)、たいていの人はいずれ元の世界に戻って、自分の居場所を発見する。家を出て異世界を見聞する旅が、本来の立ち位置を受容するための下地として作用するのである。
「坑夫」の青年にとって銅山(鉱山)は、そのような異世界として通過されるべき場所であった。還るためにする旅。
実際のところ、このインテリ家出青年が労働者たる坑夫にならない−坑夫としてやっていけない/いかない−であろうことは、青年以外の誰しもにとって
-おそらく周旋屋にさえも-最初から明白な理であった。だから飯場の頭も坑夫らも、坑道の中で出会った安さんも健康診断をした医者も、みな一様に(帰れなくなる前に)元の世界へ戻るよう勧めるのである。その理に納得せず、戻ってもどうにもならないからと異を唱えるのは青年だけである。
しかし、その青年の気持ちもしばらく銅山に身をおくうちに自然な変化を迎え、憑き物が落ちたかのように元の世界へと帰っていく。
核心的な出来事は家出をしてから数日の間に起こり、小説に語られる。そしてその濃密な体験は銅山にとどまったその後の数ケ月を経て、彼の心の中でひそやかに熟したのである。
若い日の物語を語るかつての青年は、自分でそうと気づかないままイニシエーションを通過し、元の世界に戻って「横着者」となった。おそらく父親同様それなりの社会的地位を得て、厚顔に生きる術を身につけたのだろうと思われる。そうした変化は家出をする前には期待出来なかったことであろうし、また銅山での体験を経てこそ、あるいは積極的ではなかったにしろ、受けとめることが出来るようになったのである。
小説の末尾は次のように結ばれる。
「自分が坑夫についての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。」
当時の青年には自分が体験したことの内的な意味というか、その体験がどんなふうに自分を導いていったのか、理解がつかなかった。不明瞭な中をただ生きるほかなかった。
振り返って分析している今も、おそらくすっかりは見えていないだろう。彼のイニシエーション体験は、けっして「小説」的な、悟りを開いて一丁あがりといった直截なものではなかったからだ−漱石はそのように筆を運んだ、と私には思われる。
しかし考えてみると、小説的な体験によって小説的な成長を遂げることの方が、実生活においてはむしろ例外な出来事ではないだろうか。それではいかにも作り事めいている。
ふつうの人間は、ある決定的な体験が起こり、その体験を核に成長を遂げたとしても、変化のプロセスは意識下で緩やかに進み、本人も気づかないうち、いつの間にか完了しているというのが現実に近そうである。
もうひとつ。
この青年が抱えた問題(恋愛問題ではなく、自己がある環境の下で形成されたこと自体に伴うインテリ問題)は、おそらく現代の日本人にも共通するものと思われる。恵まれた生活を送っているために主体的に何かを実現しなければならない必然がなく、生きることに切実感がない。一方では、自主的に何かを選択をすることを封じられて育ったために、本当は何をしたいのか自分でも分からない(考えてみるがまとまらない)。生き甲斐がなく、中途半端に生きている気がして、これではいけないんじゃないかという漠然とした不安に悩まされて日を送っている。
連載当時、この作品に共感出来たのは、近代小説を読む類の一部のインテリ層に限られたと思われるが、現代の、大多数の人が「中の上」を意識する日本社会では、小説を読まない人も含めて潜在的な理解者の層ははるかに大きく広がっているだろう。そういう意味では今日的な作品といえそうである。
以下、作品の筋を辿るが、ご自身で作品を読まれたか、読まれるつもりの方はご覧いただく要はないものと思う。原作の味わいを留めていないことを予めお断りしておく。
◇「坑夫」のあらすじ
働かないか
銅山に向かう
飯場に入る
坑内に入る
最下層へ
初さんとはぐれる。安さんに出会う
その後の顛末
お話は松原を歩いているところから始まる。家出して東京を出て千住大橋まで歩き、八幡様のお堂で夜を明かした翌日。また歩き出して、どこまでも続く松原にかかったところである。
松原を歩いていると、どこまでも曇った世界にいるような気持ちがする。歩くほどにだんだん現実ではない異世界へ、抜け出せない闇の世界に入っていくのではないかと感じる。自殺の名所(華厳の滝とか)へ行っていっそ…と思ったりする。が、そうなるにはまだ時間があるとも思う。至近にない死を思うことが慰めになるのだ、などと分析する。
何か劇的なことが起こるのを受身で待っている状態である。そして劇的なことが起こり始めるが、最中にはそうと気づかない。
掛茶屋がある。人相のよくない一人の男が休んでいる。気味が悪いと感じて通り過ぎようとした。しかし男の視線に掴まってしまう。「働かないか?」といきなり問われるが、青年は声をかけられたことがふいに嬉しくなって、「働いてもいい、何をするんですか」と返事をする。
「儲かるよ、やってみるか?」と言われ、「やってみてもいい」とすぐに答える。
「きっとやるか?」と念を押されて、お茶を飲ませてもらった。それでもう引っ込みがつかない。内心では自信がなくなっているのだが、断れない。
青年は菓子台の前の皿に揚饅頭があるのを見て、食べたくなった。ハエがたかっているのをみてためらう。茶屋のカミさんが「食べるならとってあげよう」と取り分ける。仕方ないから受け取って、相手の男に勧めた。男は平気で食べる。それを見ると、すぐに自分も食べる気になって取り合いになる。お代わりをして、今度は先に自分が食べた。
そして、ハエのたかった団子を食べる気になったと同じように、男が平気な顔で誘うのに安心して勧誘に乗ったのだった。
内心は危ない気がしないではないのに、口にしては「神聖な労働なら何でもやる」などと言い出す。男はそれを聞いて青年がまだ働いたことがないと分かる。
「働くからにゃ、儲けなくっちゃあね」と男は言う。彼にとって労働とはお金を儲けるためにすることだからだ。それからやっと銅山(やま)の仕事であることを明かし、自分が斡旋すればすぐに坑夫になって稼げるからと請け合うのだった。
青年は坑夫は牛や馬に次ぐもので、世の中でももっと苦しくてもっとも下等な仕事だと考えていた。だから男の言うことはおかしいと思うが、なにしろ状況に流されて口に出せず、結局その足で銅山に行く話がまとまった。
受けてしまうと、「働きながら、人のいない所にいて、もっとも死に近い状態で作業が出来れば嬉しい」などと思い出す。態よく自滅を目指すために坑夫になろうという考えである。
青年と男は連れ立って歩き出した。家出の経緯を思い出したりしているうちに、銅山へは汽車に乗って行くことが分かる。すると、こんなに親切にされるのはおかしい、と青年の心はまた迷い出す。連れ小便をしているうちに、この男は周旋屋なんだと気がついた。また気持ちが変わって、それならそれでもいいと思う。
お金がないので汽車賃はほとんど男に出してもらう。(持っていた上等の財布は男に渡したまま返ってこない)
汽車に男の知り合いが乗っていた。男は、また一人やまへ連れていく、と話す。「だいぶん儲かるね」と相手が言う。それを聞いて青年は窓の外へ唾を吐く。唾は風で戻って自分にあたる。身から出た錆なのである。
やがて青年は寝入ってしまい、汽車が止まった気配で目を覚ます。
駅を降りると緑したたる山に向かって、まっすぐな広い平らな道がすっと延びている。どんどん歩いていくと日は暮れて、おなかも空いてくる。なにか食べたいと思いながら歩いていると、飯屋の前で男が立ち止まった。晩ごはんか?と思ったがそうではない。男はそこにいた赤毛布の男に働く気はないかと誘ったのである。こうして銅山へ行く連れが一人増えた。
その勧誘の仕方が自分が受けたのとまったく同じだったので、青年は漸く自分の立場を理解した。同じ仕方で扱われたのが人格を認められなかったようで面白くない。自分は特別という気がしていたから、世間の誰とも同じという事実が受け入れ難いのだ。
青年は赤毛布に自分を見るような気がした。しかも赤毛布が坑夫になるのを承知したのを見ていて、おろかだなあと思った。3人連れ立ってまた歩き出した。道連れができて嬉しい。
芋で空腹を満たした。芋はおいしいと思っているうちに宿外れまできた。川を越えると人家は尽きる。橋の向こうから小僧が歩いてきた。周旋屋が呼び止めた。芋を勧めると、ぐいぐい食べる。儲けさしてやると誘うとついてきた。青年は、世の中には「自分のように右へでも左へでも誘われしだい、好い加減に、ふわつきながら、流れて行くものがだいぶんあるんだ」と感心する。
こうして4人になって、橋を越え、小道を左へ切れ、暮れかかる山道を進んだ。道は細くなり、上りになった。木々の茂る下のデコボコ道を文句も言わずに歩いた。
「自分はこのときから神妙になって鉱山で神妙の極に達して、いまは横着者になった」などと振り返っている。そうして夜道を何里も歩いて疲れきったところに牛小屋があり、山越えは大変だから泊まっていこうということになる。
翌朝は朝ごはん抜きで出発して山越えをする。途中で天気が怪しくなり、まるで雲の中を歩く態になった。雲に自分の姿が隠れるのが、ちょうど世間から隠れたい自分の気持ちに添うようで、青年は嬉しく思ったりする。
やがて雨が降り出す頃、かすかに見える山が禿坊主になって丹砂のように赤いことに気がついた。銅山が近づいてきたのだと思う。
周旋屋がやっと着いたという。それから15分くらいで町に入ると、そこは近代的な設備が整い、なにもかも新しく見える町だった。白粉をつけた女性までいる。
橋を渡って左にゆくと、坑夫の住む粗末な小屋がたくさんあった。その間の細い道を縫うように登ってゆくと、岩崖の下に長屋がいくつも並んでいた。長屋の窓から異様に顔色の悪い人々が見える。それらは飯場だった。そうして午後1時に目的の飯場に着いた。
ここまで、銅山に着くまでの経緯に、小説の前半部(4割くらい)が費やされる。当初予定していた30回連載なら、辿り着く前に話が終わってしまう。
坑夫たちはそれぞれの飯場に属して、万事、飯場をまとめる飯場頭の差配を受けるしきたりである(この見解は間違いだ、という方もあるかしれないが…)。周旋屋は飯場頭に「この男は坑夫になりたいと言っているから使ってやってくれ」と言い、飯場頭は「じゃあ置いておいで」と言う。それで話がまとまった。
周旋屋があとの2人を連れて去ると、飯場頭は丁寧な物言いで青年に向かった。あなたは生まれ落ちての労働者ともみえない、坑夫という仕事はなかなかただの人にはできない、学校へ行って教育を受けたものは勤まりっこないから考え直したらどうですか、と言う。青年はそんなふうに人間らしく扱われて嬉しくて泣きそうになる。
飯場頭はこれまで書生が何人も来て、10日ともたないのを見てきている。「悪い事は云わないから御帰んなさい、帰る気なら相談に乗りましょう」と言う。
青年はその情のある態度にほだされつつ、自分の気持ちを一生懸命言葉にしようとする。しているうちにだんだんと気持ちがはっきりしてくる。家出をしたときには考えもしないことだったが、自分はどうしても坑夫にならなければ気が済まないと思う。1日でも2日でも試しに使ってほしいと言った。
そこで飯場頭(原さん)は、じゃあやってみなさい、その代わり苦しいですよ、と言う。原さんはこんなやりとりにも慣れている。それで気が済むなら好きになさいというのだ。
「案内をつけてあげるから明日坑内へ入ってみなさい」
それからその体格では坑夫は難しいでしょうと説明する。銅山では、坑夫のほかに、掘子(ほりこ:坑夫の下働き)、シチュウ(司厨? 輜重しちょう?)、山市(やまいち:坑夫見習いで石塊を欠く仕事)といった仕事がある。坑夫なら間がよければ1日に1円、2円にもなることがある。しかし坑夫以外の仕事はそんなに稼げない。掘り子なら年中35銭である。5分は親方がもっていく。布団の貸し賃(1枚3銭)、食事代(14銭5厘、おかずは別)が引かれる。病気の時は手当ては半分になる(つまり生活費を引くと赤字になる)。
そういった細々したことを教え、その上で掘子になる気はあるか、と問う。青年は「なります」と答えて、長屋に上げてもらう。
銅山では1万人が働いている(かなりの大鉱山であることがわかる)。組々に分かれているから、面倒もいろいろ起こる。日に2,3人は逃げ出すし、病気になったり死ぬものも出て、日に5、6組は弔いがある、といった事情を教えられる。(計算すると年に2,000人くらい死んでいることになる…)
だが青年は、親切に扱われて、ともかく一生懸命働かないと原さんのためにすまない、という考えになっている。
お婆さんに案内されて2階へ上った。数十畳のだだぴろい広間に囲炉裏が2つあり、その周りに14、5人ずつかたまって坑夫らが座っている。その様子−純然たる坑夫の獰猛な顔つき−を見て、すぐに決心がぐらつく。
彼らのそばに萎縮して座っていると、声をかけられる。軽侮と嘲弄と好奇の念もあらわに見られている(気がする)。黙っていると、どっと笑われる。育ちのよさそうな青年をみて、「辛抱できないのは分かっているから早く帰れ」、「ここにいるのは食い詰め者ばかりで、儲かる所ではない」、「帰るに帰れなくなる前に、出て行きなさい」と忠告する。
黙っていると別の坑夫が「いる気ならいてもいいが掟には従え」という。友子(ともこ)に入って親分・兄弟分に礼儀を尽くせというのだ。それは何かと聞き返すと、分からないなら帰ったほうがいい、親分も兄弟分もいるから儲けようたって、そう旨くいかないのだから、とまた諭される。
青年は身を縮めたまま黙って聞いている。するうちに食事が出るが、銀米でなく南京米(外米)だった。初めて味わう、土壁のようにまずい米。
外を葬礼の行列が通る。薄い金盥をシンバルのように打ち鳴らし、浪花節のような節をつけてお経を唄っている。すると坑夫たちは寝ついている病人を起こして、無理やり行列を見せる。
雨が降り出し、霧がこめて冷えてくる。青年は囲炉裏に寄って黙って暖まる。坑夫たちは葬礼を話題にする。死んだらどこへ行くのだろう、やっぱりこんなところだろうか。先の病人は病気をしてお金に困り、女房を質に仲間の坑夫にお金を借りた、といった事情が話される。
夕暮れになると部屋に電灯がついた。
昼の間坑内に入っていた坑夫たちがどんどん帰ってくる。紺の筒袖に、紺の細い股引(ももひき)。カンテラを放り出して、濡れて泥だらけの着物を着替える。みなチラと青年を見て、すぐに食事に降りていく。
ぼんやり火にあたっていると、お婆さんがきて、もう寝なさいと言う。戸棚から垢にまみれた布団を引き出して寝にかかる。刺された痛みで目が覚める。背中を掻くとざらざらと虫が落ちてくる。つぶすと青臭い匂いがする。潰す。指についた匂いを嗅ぐ。潰す。嗅ぐ。しまいにあきらめて布団をたたんで戸棚になおした。
それから柱に背を持たせて立った。背をずり落として足を投げ出すようにすわり込む。また立つ。訳もなく繰り返す。そのうち疲れて寝入った。
起きると朝で、また雨が降っていた。朝番で坑内に入る筒服の男たちが濡れて歩いている。自分も同じようになるのだと思うと、憐れな姿が情けなかった。みなが忙しく仕事のしたくをしている中、青年は顔を洗い(申し訳に頬を水で濡らすだけ−これを青年は進化したと称する)、お婆さんに朝ごはんの膳立てをしてもらって、南京米に味噌汁をかけて食べる。
坑内に連れていってくれる人(初さん)が待っていると急かされ、食事をそこそこに切り上げる。教えられて、お仕着せの筒袖を着る。股引をはく。尻に藁のアテシコを巻く。腰に鑿を挿す。草鞋を履き、饅頭笠を被り、カンテラを親指にはめて支度が出来た。
雨の中を歩く。汽車のトンネルのような坑口にきた。
「ここが地獄の入口だ。這入れるか」と初さんが聞く。むっとして、「電車が通るようなところくらい入れる」と答える。
「生意気を言うな」
初さんはずんずん中へ入ってゆく。後を追う。入ってみると急に暗くなっておっかない。足元も危うい。初さんは立ち止まる。「坑内では大人しくしないと、スノコの中へ放り込まれるぞ」「生きて出たいと思うくらいなら、生意気に這入ろうと思わないほうがましだ」。(スノコ:掘った鉱石をまとめて落とす穴)
また歩き出す。だんだん天井が低くなる。地面のレールが右に曲がったところからだらだら坂の降りが始まる。もう出口の明かりは見えない。だらだら坂が終わると平らな道。向こうに灯りがともっている。近づくと坑道が少し広がったところに見張り所がある。
「地獄の3丁目だ」と初さんが言う。
その先は坑道の様子がすっかり変わる。天井は頭に触れそうなほど低い。先を行く初さんが急に四つん這いになった。そうしないと通過出来ないのだ。坑道のどこかから鑿と槌を使う音が聞こえてくる。路が左に回りこみ、険しい坂になる。階段が刻まれた坂を、折れ曲がりながら降ってゆく。降りきる頃には息が苦しくなっている。
腰から先に体を入れないと通り抜けられない箇所がある。勾配が急で、落ちるように降るほかない。
それから数間ずつ右へ折れたり左へ折れたりする段々をいくつも降りる。何町降りたか分からなくなった頃、5,6畳ほどある空間に出る。鉱脈があると見込んで掘り広げていく場所、作事場である。
銅山では地中に路を作って、鉱脈を探す。見つかるとそこを作事場に定めて重点的に掘り進む。だから銅山の中は細い路だらけ、暗い坑だらけだ。その作事場には3人の坑夫がいて、賽を振っている。
「相変わらずやってるな」 初さんは腰をおろして休む。側に座る。坑夫らは「鉱山へ入ったらいつ死ぬか分からない、生きているうちだ」とか、しゃべっている。青年が東京から来たと知ると、ここには銅山の神様−達磨−がいて、いくら金を蓄めて出ていこうとしても、金は必ず銅山に戻ってしまう、儲からないよ、と笑う。
青年の方は、今の自分のこんな姿を、艶子さんと澄江さんに見せたら、二人はどう思うだろうと考えている。
凄まじい音がする。3人の坑夫が立ち上がる。「もう少しだ。やっちまうかな」と鑿を手にとる。発破を仕掛ける間の時間待ちをしていたらしい。
初さんと青年は作事場を出る。坑道に硝煙が押し寄せてくる。「ダイナマイトだ」
大丈夫ですかと聞くと、「大丈夫でねえかも知れねえが、シキへ這入った以上、仕方がねえ。ダイナマイトが恐ろしくっちゃ一日だって、シキへは這入れねえんだから」
息が苦しくなったが、ともかくついていく。胎内巡りのような、暗くて左右へ曲がる降りの階段をどんどん行く。路が二股になったところに出る。一方の奥の方から深い井戸に石を投げ込んだときのようなカラカラランいう音が聞こえる。スノコへ鉱石を落しているのだという。スノコを見せてもらう。
掘った鉱石をその穴に放り込むのが掘子(ほりこ)の仕事らしい。穴の縁からせり出すように胸を前へ突き出して鉱石の入った俵を放り込んでゆく。
「あの芸が出来るか」と初さんが聞く。「そうですねえ」と恐縮する。周りの者が笑う。
「何になっても修業は要るもんだ」
2,3度スノコへ落ちてみないと一人前になれない、と教えられる。
元の路へ戻る。またまっすぐ坂を下りていく。
「まだ下りられるか?」。実はもう降りられないが、断ると落第しそうだと判断して、下りましょうと答える。初さんは意外だったらしいが、「じゃあ、下りよう、少し危ないよ」という。切り立った屏風のような穴を梯子を伝って下りてゆく。
恐ろしくなって梯子の途中でつい下を覗いてしまう。とたんに頭がぐるぐる廻りだす。力が抜けそうになる。かじりついて目を瞑る。気を取り直してなんとかその梯子を下り終える。手を延ばせば届くあたりの向こう側に別の梯子がある。繰り返して、だいたい同じ長さの梯子を15段下りる。細い穴を這い出すと初さんがいた。
「苦しいか」、「苦しいです」。梯子はそこで終わりだった。
さらに坂を下っていくと、路に水が溜まっている。冷たい泥水。歩くと草鞋をつけたところから魚のヒレのような波が立つ。だんだん水が深くなってゆく。足の甲から、脛。右に折れると膝まで浸かった。膝で切る波が腿の方へあがってくる。
「大丈夫なんですか」。初さんは返事をしないで進んでゆく。水が腰まできたところでたまらなくなる。「まだ這入るんですか」。
振り返った顔が気遣いと笑いを含んでいる。少しほっとする。廃坑に連れ込まれたかと心配になっていた。
「八番坑だ。これがどん底だ。水ぐらいあるなあ当前だ。」
初さんはなおも進んでゆく。濡れた体から体温が奪われていくのを意識する。坑道に入って頭から冷えて、水で腹まで冷えて、まるで知らないところをついていく自分はナマコのようだと思う。
右に洞のように深く開いた穴がある。そこから水が流れてくる。岩を叩く音がする。作事場だ。「こんな底でも働いてるものがあるぜ。真似ができるか」
這入ってみるかと聞かれる。今度はあれこれ考えずに断る。
明日からここで働くのか、何時間くらい水に漬かっているのかと訊ねる。初さんは、1日3交代で決まった時間は働かされると脅かした後、「心配しなくってもいい」と言う。新米はたいてい二番坑か三番坑で働き、よほど様子が分かった者でないとここまで下りて来られないのだ。
「安心したか」
仕方なく「ええ」と返事をする。
少し歩くと水の下に上りの階段を捉えた。水嵩が退いてゆく。路を曲がるほどに地面が乾いてゆく。器械を見るかと訊かれる。明日からの自分には関わりがなさそうだから断る。初さんが帰ると告げる。今度は水の少ないところを通って梯子の下まで戻った。二度と通りたくないと思っていた場所だ。足が動かなくなった。
「ちょっと休め、俺は遊びに行ってくる」 初さんはどこかへ出てゆく。
暗い坑道で一人きりに置かれると、だんだん心が昏くなってくる。意識も少し薄くなるようだが、与えられた休息に淡い喜びを感じる。ずっとこのままでもいいと思う。
ところがだんだん意識が薄くなっていき、普段10のものが5になり、4になり、やがて零に近づいてくると、青年の中でなにかが発動する。これは死ぬ、死んでは大変、と気づいたとき、かっと眼が開いた。眼を開いたとき、「死ぬぞ」という声がまだ聴こえる気がした。
初さんが戻ってきた。
青年の意識はますますはっきりする。明日から自分が坑夫としてやっていかねばならない生活、鑿と槌を使う仕事、南京米の食事、布団の南京虫、葬礼、達磨、そうした一切が了解される。最後に自分がどこに落ちてきたかはっきりと理解できた。
2人は梯子を上っていく。一つ上るのも大変だ。初さんはどんどん上って見えなくなる。7つめの梯子を上る頃は息もたえだえだ。眼は熱い涙でいっぱいになる。動けない。いっそ手を離して落ちてしまおうかと考える。
さっき梯子の下では消極の極みから積極への転回があった。
今は上っていこうとする積極の極みから消極へ向かって気持ちが動いている。
当時を振り返る彼は、前者を「死を転じて活に帰す経験」、後者を「活上より死に入る作用」と呼んで、その二様の動きが魂の持ち前だと述べる。その二つともを、青年だった彼は鉱山の底で体験したのだ。
もちろん梯子から手を離さない。そうしようと思ったとたん別の考えが浮かんで、とにかく梯子を上っていく。一段一段上ることが生きることになり、すべての梯子を上りきる。
初さんは心配して待っていた。声をかけられたが、青年の気分は今度は凶暴になっている。もう坑夫になる気はない。坑を出たら華厳の滝に飛び込むんだと思っている。
だが傍目には顔色が悪く、元気が残っているように見えない。青年は先へ行くと言い出すが、初さんはとどめて先に立つ。初さんの進み方がむやみに急いでいるように思えるが、事実は青年がバテている。激しく体を使い、暗闇の中で怖い目にあい、水に漬かって冷え、すっかり消耗しているのだ。初さんの姿が見えなくなる。歌う声も聞こえなくなる。さすがに茫然とする。
長年に掘られた穴が土蜘蛛の巣のようにあちこちにあるから、うかつに踏み込むわけにいかない。どうやったら電車の通るところまで上がっていけるか考える。
ともかく上へ登る路を辿るか、作事場を見つけて路を聞くかだと思う。うろつきまわる。同じところを行ったりきたり迷っているのを意識する。天井の岩に頭をぶつけて割りたくなる。
向こうから掘り子が歩いてきた。その蒼い、いかにも坑夫らしい顔は、彼をあざ笑ったり、からかったり、なぶったりした坑夫たちと同じ顔だ。声をかけずに通り過ぎる。
右へも左へも真ん中へも進んだが、上へ出られない。
そのとき岩を刻む音が聞こえる。一人の坑夫がしきりに働いている。たくましい体つきの男だ。二重まぶたの大きな眼に鼻筋が通っている。ただの坑夫ではないと思う。声をかけられる。
昨夕銅山に着いたこと、様子を見せてもらいに坑道に降りてきたが案内にはぐれたこと、路に迷っていることを話す。すると男は送り届けてやるから待ってろ、と言う。
「今まで働いた事はねえんだろう。どうして来た」と訊かれる。今までとは違って素直に話をする気になる。その坑夫には教育があり、教育から生ずる上品な感情と見識、熱誠があると感じる。自分の話をちゃんと聞いてもらえると思ったのだ。
男の目に力がある。男(安さん)は、青年は「情」の時代だ、誰でも失敗するものだ、だから君の事情も察していると言い、身の上を話す。ある女性と親しくなったのがもとで罪を犯した、しかし正しいことをしたと思っているので制裁を逃れて鉱山に入った、6年間坑夫をしていた、来年になれば出られるが、昔のことは今でも腹の中にあるから出られない、と。
ここもひどいところだが、社会にはここよりまだ苦しいところがある、それを思うと辛抱できる、だが君は違う、学校も出て若くて理想もあるだろう、ここにいて生きて葬られてはいけない、出られなくなる前に出て日本のためになるような職業につけ、東京へ帰る旅費は俺が出してやる、と諭す。(安さんの「それから君は日本人だろう…」という科白は意味深長である)
青年は話すと泣き出しそうなので黙っていた。安さんも黙っている。少し経って落ち着いてから、また相談に上がりますといった。第一見張所まで送ってくれる。そこで別れた。
安さんが生きている以上は自分も死んではならない、あとのことはひとまず坑夫になってから考えよう、と青年は決心して長屋の前まで帰ってくる。石の上に初さんが腰をかけて待っている。「やあ出て来たな。よく路が分ったな」
飯場頭に会い、やっぱり坑夫になると告げる。医者で健康の証明をもらってくるように言われる。
後刻、別の長屋に安さんを訪ねていく。東京に帰らないでここにいると話す。安さんは帰るよう事を分けて諭す。青年はどうか帰さずに当分置いて貰えまいかと頼む。安さんに承知してほしいのだというと呆れ返っていたが、とうとう「せっかくそう云うんなら、当分にするがいい。長くいちゃいけない」と言った。
その晩も布団に入って虫に刺される。また柱のところに行って寄りかかる。澄江さんはぐうぐう寝ているだろう、艶子さんは起きて泣いているだろうと思っているうち、うとうとする。気がつくと夜が明けていた。
その朝、病院へ行って診察してもらう。気管支炎と診断される。坑夫にはなれないことが分かる。青年はこれは肺病の下地だから、自分は放っておいてもいずれ死ぬ身なんだと思う。そう思うとまた世界の見え方が違ってきた。何もかも意味がない気がする。
望まない死を迎えるのだと思って見る世界は、自ら死を望んだつもりで見る世界とは、まるで違っているのである。
親方の家へ行って診断書を見せる。無理じゃないかと言われる。何でもするからおいてくださいと頼む。
翌日、帳付けの仕事を世話してもらって(月給4円)、本人曰く、堕落の稽古を始めた。毎日、町から新しい椋鳥がやってくるのを見た。子供もやってくる。給与で菓子を買っては子供にやった。でも東京へ帰ろうと思ってからは断然やめた。5ケ月無事に勤めて、東京へ帰った。
「自分が坑夫についての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。」
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