ひま話 日本における鉱山世界のイメージ(2) −2013.8.16


1908年(明治41年)に朝日新聞に連載された「坑夫」は、「虞美人草」に続いて夏目漱石が職業作家として2番目に書いた新聞小説である。先に述べたように(→その1)足尾銅山がモデルとなっているが、漱石自身は足尾を訪れたことがなかったという。

前年の秋頃、漱石のもとに見知らぬ青年が訪ねてきた。自分は足尾銅山で働いた経験があるのだが、その体験を小説の材料として買ってもらえないか、信州に行くためにお金がほしいのだ、と言う。漱石は最初真に受けず、来客中だから今夜にでも話を聞かせてくれ、と適当に汽車賃を渡して帰らせた。
すると夜になってほんとに青年がやってきた。3時間ばかり話を聞いたが、坑夫になる前のことが主体で、漱石としては他人様のパーソナル・アフェアは小説にしたくなかった。それで「自分でお書きなさいよ」「おもしろかったら雑誌へ載せる力になろう」と断った。
その後も連絡をとっていたが、青年は信州へ行く様子も小説を書く様子もなかった。するうち新聞社の命で急なつなぎ仕事をしなければならなくなった。漱石は青年の話を思い出し、坑夫の生活のところだけを材料にもらいたいが、と申し込んだ。そして許しを得て「坑夫」を書き始めたという。当初30回くらいのつもりだったのが、90回を越える連載になった。
「あれに出てる坑夫は、むろんわたしがいいかげんに作った想像のもの」だと言っている。
連載中、青年は漱石のもとに寄宅していた様子で、銅山のあれこれについて適宜アドバイスを挟んだと思われるが、それにしても漱石自身は足尾に一度も足を運ばなかったのが事実であれば、そのことにある意思、作品における「銅山」の位置づけを象徴する意思を見ていいのではないか。

漱石は小説の中で「足尾」という固有名詞を一度も使っていない。
ただ東京の東の外れから少しく汽車に乗り、それから北に向かって一晩歩いて山越えした土地にある銅山で、新しく出来た町に1万人からの人が集まって働いているといった描写から、明治晩期の読者には−ある程度の事情通なら−これは足尾だと見当がついたであろう。
当時、足尾銅山は東洋一の大銅山と称えられる一方、鉱毒被害によって世間の注目を集めていた。また前年には暴動(と鎮圧)が起こってその記憶もまだ新しかった。銅山(やま)という言葉に足尾を連想しない、ということはありえなかったかもしれない。

しかし繰り返すが、漱石は銅山(やま)と呼び、足尾と書かなかった。言わずと知れたと考えるのも一方の見方であるし、差し障りを予防して伏せたと見るのも一つであろう。が、私としては、小説の舞台はモデルの存在する銅山であったけれども、そこが特定の(現実の)銅山でなければならない必然がそもそも漱石にはなかったのだと考えたい。

彼のテーマ/関心は最初から最後まで主人公の心の動き、モチーフの「解剖」にあった。状況に従って心が展開される場として、銅山のイメージ/鉱山のメタファーが効果的に運用出来れば事足りたのだ、と受け取られるのである。
言い換えれば、銅山への旅も、飯場での情景も、坑内への侵入も地上への帰還も、いずれも語り部の青年の体験を踏まえた強いリアリティを伴っているとしても、作品中では主人公の心の振れとつねに二重写しの像を結んでいる、と私には思われる。つまり、この銅山はイメージとして文学的に表出された−そのような意図のもとに再構成された−象徴的な銅山なのである。

あるいは作家漱石は、そのような形で呼応しうる外界(銅山)と内界(家出青年の心)の連関に感興を抱きつつ、作品を書き上げたかもしれない。
もしそうであれば、漱石は自分の心をたぐることによって、語り部から聞かされた銅山の有り様を、実地を訪れるまでもなく、創作の過程ですでに深く旅し了えていたと考えることも出来る。
イスラムの格言に「汝は鉱山なり」という言葉があるが、「坑夫」において、銅山は汝の心に等しいのだ。(補記2)

★「坑夫」は発表からすでに1世紀が過ぎ、ネット上で−「青空文庫」などで−全文を無料で読むことができる。オリジナルを読んでいただければいいと思うが、便宜のため、一応、私なりの読みとあらすじとを次のページに記しておく。
夏目漱石 「坑夫」 −還るための旅

「坑夫」ではあらゆる情景が、銅山の様子や出来事を含めて、青年の心の動きに呼応している、そして坑内深くへ降ってゆく道行きは青年の心の深層へ向かう過程につながっている、そう読めることがこの作品の真骨頂であり、漱石の意図でもあっただろう、と私は思う。目の前に現れる事態によって青年の心は揺れ動くが、青年の心の振れに応じて事態が進展するということも出来そうなのである。むしろそう考えなければ、医者の診断などはあまりにタイムリーすぎると言わねばならない。
とはいえ本ページでは作品の解釈にはこれ以上触れず、銅山のイメージがどう提示されているかについて、いくつかのポイントを指摘していきたいと思う。

まずひとつは、すでに述べた通り、銅山を示す固有名詞が作品に現れないことで、同時に足尾にまつわるジャーナリスティックな側面もまったく触れられていないことである。むしろ関心の外と言うべきで、作品で語られるトピックは坑夫たちがどんな場所でどんな風に仕事をし、どんな感情を抱えて、どんな生活をしているか、といった坑夫の眼で見た等身大の出来事に集中される。
これも上述の通りだが、作品に必要なのは「坑夫の生活のところだけ」だったのである。

その坑夫の生活はどんなものかというと、一言でいえば、牛馬なみのキツい肉体労働を強いられるが、銅山の仕組みや仕来りのあれこれに縛られてほとんど儲からない、病に臥せることになればもはや救いがない、といった底辺の生活であった。
それは多分、世間一般が抱く坑夫に対する通念でもあった。主人公のウブな青年でさえ、「世の中に労働者の種類はだいぶんあるだろうが、そのうちでもっとも苦しくって、もっとも下等なものが坑夫だ」くらいの知識は予め持っていたのであるから。

そもそも「坑夫」は、家出をした青年が周旋屋に掴まり、働くことを勧められるところから始まる。その会話は、
「御前さん、働く了簡はないかね。どうせ働かなくっちゃならないんだろう」
「働いてもいいですが、全体どんな事をするんですか」
「大変儲かるんだが、やって見る気はあるかい。儲かる事は受合なんだ」
「ええやって見ましょう」
と流れる。周旋屋は儲かる、儲かる、の一辺倒で青年を口説く。ただし銅山で働くということはなかなか切り出さない。不用意に切り出せば逃げられると思うからであろう。
而して釣られた青年が銅山に行き、飯場に入ると、今度は坑夫たちが、儲からない、儲からないのオンパレードで実態を教えるのである。友子(ともこ)、親分、兄弟分といった言葉も仄めかされる。
また(慢性的に人手の不足している)銅山で働くのは、主人公のように連れられてくる世間知らずの「椋鳥」もあるが、それぞれに事情を抱えて流れ着いた者も少なくないことが、坑夫らの言葉の端々に匂わされる。

「坑夫」の基調となっているのは、このように、むしろ鉱山(労働)のネガティブなイメージである。鉱山は経済的にも精神的にも宝が蔵された場所のイメージを帯びていることを以前に述べたが、仕事を請け負って働くばかりの一介の労働者にとっては、とてもそんな場所ではありえないのであった。といって銅山が世の中でもっともつらい働き場所というわけではないことも、作品中で「安さん」が語っている、とつけくわえておく。そこはある面では社会からの避難所なのである。

いずれにせよ銅山は厳しい労働の場であり、出るに出られない人々が、毎日死を意識しながら生きている場所であることが示される。
青年を坑内に案内する「初さん」は、坑口で「ここが地獄の入り口だ」と教える。鉄軌が敷かれ、電車が通る広い一本道である。路が右へ曲がるとゆるやかな下り坂が続く。奥の闇の中に灯りのともる第一見張所がある。初さんは「地獄の3丁目だ」という。
その響きに含まれるイメージは、前回小坂鉱山の導入映像で触れた「怖い坂」に連なるように思われる。

見張所を通過すると、坑道は急に狭くなり、階段が刻まれた険しい坂が幾重にも折れ曲がって続いていく。這って通るしかない箇所もある。青年と初さんはやがて鉱脈を掘っている「作事場」に出て、ダイナマイトの煙に巻かれる。不安になった青年が大丈夫ですかと訊くと、初さんは「大丈夫でねえかも知れねえが、…仕方がねえ」と答える。
こうした会話を繰り返して、漱石は銅山での労働のイメージを紡いでいくのである。

一方、坑内の様子も克明に語られる。煙から逃れた二人は、胎内巡りのような、暗くて左右へ曲がる階段を降り続ける。それから15段続く梯子を伝って、屏風のような穴を深く深く降りてゆく。さらに坂を下ると、路は水に漬かっている。腹まで冷える水の中を歩いてゆくと、そんな先にも作事場があって坑夫が仕事をしている。八番坑。これがどん底である。
どれだけ降ってきたものか、字面を追っても見当はつかないが、なにしろ恐ろしく深い地の底であることははっきりしている。激しく湧水が噴き出す地底で、坑夫たちは水に漬かりながら鉱脈を刻んでいる。
これほど深く大規模な鉱山は、近代以降の機械化設備の導入によって初めて可能となったものでしかありえないが、一方どん底の闇の中で働く孤立した坑夫たちの姿は、近世以前の幾多の鉱山で行われてきた、古代から続く労働の姿とほとんど変わっていないだろうと思われる。鉱山(労働)のひとつの原イメージであろう。
青年は一段と黒い坑夫の姿と洞の様子にぞっと寒気がして、中に這入ることを拒む。

漱石が描写した坑内の様子が、現実の足尾を正確になぞっているかどうかは分からない。しかしその種の正確さは眼目ではなく、銅山のイメージがどれだけ深く読者に届くかが彼の関心事であろう。彼の意図は成功していると思う。「坑夫」を読んだ読者には、銅山というものに対する明確なイメージが定着するだろう。

★新聞小説「坑夫」は多くの読者の目に触れて、人々の鉱山に対するイメージを具体化し、また方向づけただろうと思われる。文豪に対する評価の高さを思い合わせると、決定づけたといっていいのかもしれない。
とはいえ、語り部の青年の助けを借りて漱石が緻密に紡いでみせた坑夫の生活が、読者にとってまったく目新しかったとか意外だった、というわけはないであろう。ただテキストの力によって、人々の通念に一層のリアリティを付与したのである。

いずれにせよ、「坑夫」が描いた銅山の光景は、その後も長く日本人の代表的な鉱山イメージとして残ったと思われる。それと同時に鉱山における坑夫の姿も、ひとつの力強いイメージを形成した。社会の底辺で過酷な労働に従事する人々を浮き彫りにする、元型的な労働者のイメージである。

(続く 「日本とドイツ 鉱山の鉱夫のイメージ」)

補記:夏目漱石は明治時代の作家の中で、(例外的に)現代でもよく読まれている一人である。
村上春樹の「海辺のカフカ」第13章には、「坑夫」を一読した家出少年が感想を述べるシーンがある。「『なにを言いたいのかわからない』という部分が不思議に心に残る」、と。村上春樹自身も夏目漱石の作品が好きだとインタビューで語っている。

補記2:汝は鉱山にして、汝によりて採掘せらるるものなり 「哲学者のバラ園」


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