オパールは、赤や黄色、緑や青色の美しい光を放つ宝石で、古くからとても縁起のいい石と考えられていた。とくに邪眼よけの効果、あるいは視力の回復に絶大な威力を発揮すると信じられた。
オパールの語源は、インドの古語で「ウパラ」−尊い石、にあるという。ローマ人たちは、オパリタス、オフタルミオスなどと呼んだ。「瞳の石」という意味で、オパールの持つ霊験を語っている。日本ではドイツ語の発音に由来して、オパールと呼ばれる。わが国の鉱物・宝石学が奈辺からもたらされたかが伺われる。宮沢賢治はオーパルと綴るのを好んだが、これは英語読み。
中世以降のヨーロッパでは、オパールの効用は奇妙な方向に特化し、泥棒たちのお守りとして珍重された。この石をもっていると、誰にも姿を見られないというのだ。オパールの美しい色彩に目を奪われ、他のものは目に入らなくなるというのが、その理由である。
当時、ヨーロッパ世界では、東欧、チェルウェニッツァ(現在スロバキアに属する)の火山性溶岩地帯が、オパールのほぼ唯一の産地として知られていた。より以前には、インドでしか採れないと信じられていたが、実はチェルウェニッツァで採掘されたオパールが、いったんトルコ方面に売られた後、商人たちによって東方からの宝玉として西方世界に売り込まれたというのが真相らしい。ルビー、ダイヤ、真珠など、貴重な宝石はみな、夢の国インドからやってくると信じられ、また、インドから来たという宝石を有難がる人々も多かったのである。ウパラというインド風の名前は、いずれトルコあたりの商人がつけたものだろう。アメリカ製のアイスクリームなのに、ハーゲンダッツというドイツ風の名前をつけたのに似ている(ドイツ発祥と思っている人が結構いるはず)。脱線ついでに、気仙沼あたりで水揚げされるフカのヒレは、いったん中国に売られてから、中華食材として日本に再輸入されるという。その方が有難がられて、何倍も高く売れるそうだ。ただしオパールの場合、真の産地が知られると、そんな方便は通用しなくなった。
チェルウェニッツァのオパールは色彩の豊かさで知られているが、産出量は少ない。現在、世界中のオパールの70%以上を供給しているのは、カンガルーの国オーストラリアである。ブラジル、グアテマラ、ホンデュラス、日本、アメリカのネバダ州などでもオパールが採れるが、メキシコのオパールは別として、オーストラリアの前ではいずれも影が薄い。
オーストラリア大陸の中央部には、大鑽井盆地と呼ばれる広い砂漠がある。白亜紀には、その大部分が内海の底にあった。時代が下って海が引くと、巨大な浅瀬が姿を現した。珪酸分を豊富に含んだ鉱液が岩床から染み出し、断層の裂け目や古代生物の骨や貝が溶けて出来たくぼみにたまっていった。こうしてハイドレート・シリカが固体化したものから、生きた炎のように煌くオパールが生まれたのである。
オパールの大半は、盆地にある3つの大きな鉱山地帯、クーバー・ペディ、アンダムッカ、ミンタビーで採れる。白い地に遊色の見える典型的なオーストラリアオパールだ。
ニューサウス・ウエールズ州の北西部、ホワイト・クリフ(白崖)とライトニング・リッジ(稲妻峰)にも大きな鉱山があり、珍しいブラック・オパールが採れる。ブラック・オパールは、宇宙創世の大爆発を想わせる輝かしい遊色が、暗い地から立ち上がって、ゆらめく。美しい上に数が少ないので、最高級品とされている。削るともったいないので形を整えたりせず、そのままの姿を活かして慎重にカットされる。
ブラックオパールが発見される以前、ヨーロッパでは、天然オパールの地は白いものと決まっていた。一方、地が黒い方が遊色が際立って見えることも知られていた。そこで一部の商人の手で、白いオパールを人工的に黒く染めたものが高級品として売られた。いわゆるシュガー・トリートメントを施したオパールで、有識者たちは眉をひそめていた。20世紀初頭にオーストラリアで黒オパールが発見されたとき、最初は誰も天然ものとは信じなかった。しかし、ひとたびアメリカで受け入れられるや、ヨーロッパでも、あっという間に人気が沸騰した。やっぱり綺麗だからで、人工処理は許せなくても、天然なら文句ないという人々は今も昔も多いのである。黒オパールの発見は、白鳥といえば白いものとされていたのが、17世紀末にやはりオーストラリアでブラック・スワンが発見されたのと好一対だ。この国は黒が好きなのか、あるいは人々が夢に見たものをオーストラリアの大地が形に変えるのか、不思議な気がする。
クイーンズランド州の南西、キルピーとウィントンでは、ボルダー・オパールが採れる。なお、現在ブラック・オパールの次に良質とされているのは、遊色を示す部分が何層にも重なったクリスタルオパールと呼ばれる透明な石だ。鉱物コレクターには、アンダムッカのマトリクス・オパールや珪岩オパールなども人気がある。
オーストラリアの産地は、19世紀後半、ゴールドラッシュの時代に発見された。発見者はたいてい金鉱掘りにやってきた人々だった。ヨーロッパ世界には、1889年、宝石商ウォラストン氏が、ロンドンに持ち込んだのが最初といわれている。(発見されたのは1863年とも、1872年とも)
ギャラリーNo.105に、クーバー・ペディからオパールが発見されたエピソードを書いたが、オーストラリア初のオパール産地ホワイトクリフにも同様の話がある。G.J.フーリーという男が、負傷したカンガルーを追っていたとき、つまづいて転んだ石が見事な虹色のオパールだったというのだ。これまた作り話くさいが、カンガルーとオパールの組み合わせは、オーストラリア精神の神話的構造を語っているようで興味深い。カンガルーは、いわば夢世界からのメッセンジャー、あるいはミディアム(媒体)を演じている。よく出来た物語はこうして一人で歩いていくものだ。
クーバー・ペディは、赤茶けた荒涼たる景色が蜿蜒と続く砂漠にあり、日中は非常な炎暑に見舞われる。熱風を孕んだ砂嵐も吹き荒れる。そのくせ、日が沈むと急に寒くなり、明け方は冷蔵庫の中みたいに冷える。砂漠の中に、ありの巣のような縦穴がぼこぼこ開いていて、傍らには、掘り出された白い砂が小山になっている。これがオパール鉱山である。穴の深さは5〜10m以上あり、底から横穴が掘られている。鉱区はスチュアート・レンジに沿って伸びている。頭の平たい丘の連なりが、ブレイクアウェイズと呼ばれるあたりで、ぼろぼろ崩れた石ころだらけの赤錆色の砂漠に変わる。実にシュールな風景だ。
オパールは、ふつう、白亜紀層の砂岩の裂け目に沿って出来ている。…ということは、科学的にわかっているが、実際に掘り出すのは、まったく運まかせの仕事だ。古代の占い杖(ダウジング・ロッド)を使ったオパール探しは、ここでは真剣な、むしろ、的中率の高い試みとさえいえる。大規模資本による巨大な鉱山会社は、こういう土地にはまったく向いていない。現実に、クーバー・ペディは、オパールの夢に憑かれて、世界40カ国以上(56カ国という説があるが、根拠がわからない)からやってきた屈強な人々が作った町だ。その多くは、ギリシャ、ボスニア、イタリアなどの貧しい移民で、大きく浮かろうとしてやってきたのだ。
丘の斜面の一方に、蜂の巣のような横穴が250個以上掘られている。町の住民の半数近くは、日中の猛暑と夜間の厳寒をしのぐため、ダグアウト・ハウスと呼ばれるこの穴で暮らしている。穴の中は、年中23〜25度に保たれていて実に快適なのである。初期の移民者たちは、その方便を知らずに苦労したが、第一次大戦で兵役に就き、塹壕掘りの技術を学んだ人々がやってきて以来、急速に穴住まいが普及した。モーテルも教会も商店も地下に作られている。ファミリー・サイズの家なら、100万円くらいで掘ってくれるそうだ。現在、町のエリア内で新しい鉱山を掘ることが禁止されているため、家そのものをどんどん長く掘っていく人もあるという…。
残りの半数は、ブリキの板とタールを塗った低層のモーテルや店が並んだ、もっと人間っぽい町で暮らしている。クーラーをがんがんかけている。店の脇には割石が積み上げられ、オパールを宣伝する看板が目白押しだ。水は深い井戸から汲み上げられ配水されるので、他の都市の5倍の料金がかけられている。電気代も高い。要するに地上に住んでいるのは、いくらかお金を持っている人たちなのだ。町のはずれにゴルフ場があるが、どうしてこんな砂漠の真ん中にきてまで、プレーしたいのか理解に苦しむ。カンガルーと鬼ごっこでもすればいいのに。
この町には、オパールを扱う店が30軒以上ある。商品の大半はホワイト・オパールの原石で、キロあたり8,000〜80,000円。たいてい香港に輸出され、そこで研磨される。オパール商人の多くは、資本力のある華僑たちで占められている。掘るのはヨーロッパ人、売るのは華僑、買うのは日本人という図式だ。
ちなみに、最高品質のブラックオパールは、キロあたり15万円から、1カラット80万円するものまであり、通常はオーストラリア内でカットされる。
砂漠に住みついた人々の生活は厳しい。優れた品質のオパールは、そう簡単には見つからないからだ。
その日の採掘を終えて穴から上がってきた鉱夫たちは、家路を辿りながら、ついついお互いの肩に注意を向けている。誰か、素晴らしい鉱脈を掘り当てた者はいないか?
ひとたび豊かな鉱脈を見つけると、彼らは立坑の側で野営する。家には帰らない。そうしないと、ニュースを嗅ぎつけたナイト・シフター(「がらがら蛇」:密猟者)が、夜中にオパールを奪っていくからだ。ここでは、自分の命も財産も自分で守らなければならない。開拓時代のような荒々しい緊張が空気を震わせ、しばしば砂漠は血で染められる。いつ殺されたとも知れない死体(と蛇)が、捨てられた立坑の底から見つかることもある。現行犯で捕まったナイト・シフターたちは、裁判を待たずに処刑される。警察署や裁判所、新聞社にダイナマイトの束が投げ込まれるのだ。
運良くこうした暴力沙汰に巻き込まれなかったとしても、鉱夫たちの生活は、常に死と隣り合わせである。彼らにとって最悪の経験は、鉱山救助隊のサイレンを聞くことだ。その音は、背骨がばらばらになるような恐怖感なしには聞かれない。鉱山事故が発生したのだ。落盤、合図なしで行われた発破、爆煙による窒息…。どれほど経験を積んだ鉱夫でも、導火線に火をつけるのは命がけの気持ちがするという。ほんの小さな過ちが、死を招く。
それでも、彼らは、一攫千金を夢見てオパールを掘り続ける。
いくらかでも値打ちのあるオパールを見つけるのは、100人に2人くらいのものだという。鉱夫たちは、採集したオパールを香港から来た仲買人の店に持ってゆく。仲買人たちは本国の研磨商から注文を受け、希望にそった品質の石が必要な数量揃うまで、何ヶ月でも現地で粘っているのだ。品質や重さが厳しくチェックされ、相応の代金が支払われる。そして幸運を掴んだ鉱夫は、誰にも告げず、現金だけを懐に姿を消す…。
もう何年にもわたって、町の周囲は、ズリの山と廃坑の群れに取り巻かれている。住人は3500人を割った。鉱夫たちの人数は、今では2〜300人ほどで、それも確実に年齢が上がってきているという。彼らの老後を心配する人もある。しかし、1972年当時と比べると、掘削機や送風機の能力が格段に向上し、生産性は3倍以上になっている。掘削した土砂をブロワーで吸引して地表に上げ、サイクロン分離するマシンが主流になりつつある。これからは、ボイラー・メーカーや溶接技術者、倉庫番や企業家といった人たちが、どんな腕扱きの鉱夫より着実に稼ぐようになると予想する人もいる。実際、落盤事故で九死に一生を得た後、オパール掘りをやめて作業機器の補修業を始め、より安定した収入を得ている人もある。
だが、そんな心配こそ、彼らにとっては余計なお世話であろう。
明日、素晴らしいオパールが見つかれば、あとには優雅な引退生活が待っているじゃないか。だからこそ、彼らはこんな砂漠の中で、瞳を輝かせながらオパールを掘り続けているのだ。
備考:添付の写真は、EVA Airways の機内誌(2000年秋号)から。提供元はSATC,APLなど。
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