ひま話 ウィーンの王宮宝物庫 2 (2022.11.19)


オーストリアに拠点を持ったハプスブルク家は、15世紀以来の長い時代を、神聖ローマ帝国皇帝の称号を担う存在としてヨーロッパに知られた。
同家のもとには、神聖ローマ帝国の標章・礼服、キリスト教信仰の聖遺物、また19世紀初のナポレオンとの関わりを示す華麗な品々、金羊毛騎士団の宝物など、ヨーロッパの歴史を物語って他に代えがたい財宝が集まった。
コレクションは 14世紀にはすでに宮廷礼拝堂で管理されていた。のちに王宮の翼部が宝物室とされて、今日に続く。17世紀に入ると、これらを世俗の宝物と宗教上の宝物とに分けて、有料で観覧に供したという。
現在、宝物庫にはオーストリア帝国、神聖ローマ帝国、ブルゴーニュ公国の遺産を継ぐ君主としてのハプスブルク家の相貌を示す財宝(の一部)が分類展示されており、その他の膨大なコレクションは分類ごとにさまざまな美術館に分けて管理されている。

ハプスブルク家はヨーロッパ最大の王家の威厳を示すために、高価な表章や勲章、宝石類・装身具・礼服を多数製作して用いた。上の画像は蓋付きのエメラルドの容器で、帝室宝物庫でもっとも有名な作品の一つと目されている。 2,680カラットの一個の巨大な結晶塊から作られた器物で、こぶしほどの大きさ。高さは約 12cm。
エメラルドは 近世ヨーロッパでは 16世紀にスペインが新大陸を席巻した時から大量に流入してきたエキゾチックな宝石だが、これほど巨大なものは稀といえる。(その以前には、エジプトの ワジ・シカイトのクレオパトラ鉱山と、オーストリアのハバックタールが産地としてあったそうだが、宝石の流通はかなり限られた。)

本品はコロンビアのムッソー産で、フェルディナント三世の時代(1637-56)に王家の手に入った。プラハの細工師ディオニッシオ・ミッセローニが 2年間かけて加工したが、石の目減りを抑えるために輪郭はほぼ結晶の自然形状を留めている。蓋の部分は結晶の中心部を削り出して仕立てられた。
フェルディナント三世は、大金が必要になった時にこのエメラルドを担保に借金しようと目論み、ジェノヴァの宝石商に見積りを依頼したことがあったが、宝石商たちは「こんな大きな石は扱ったことがないので、分かりましぇ〜ん」と上手に断りを入れた、との逸話がある。

イシュトヴァーン・ボチカイ(ボガスキョイ)(1577-1606) の王冠。
ボチカイ家はルーマニア地方の貴族名家で、イシュトヴァーンはトランシルバニア公に仕えて、当時オスマン帝国と同盟を結んでいた公に神聖ローマ帝国との同盟を進言していた。その後、公に憎まれて領地を没収されたため、ルドルフ二世の宮廷に身を寄せた。
ところがルドルフ二世が王領ハンガリーにおいてプロテスタントの弾圧を始めたため、一転、トランシルバニアの独立を守る必要からトルコ人支持に回ることになった。そして神聖ローマ帝国軍を追い出した功により、 1605年にトランシルバニア公に選出された。この報に接したオスマン帝国のスルタン・アフメト一世は、ルドルフ二世に敵対する彼の即位を祝して豪華な宝冠を贈った。
イシュトヴァーンはトルコ人との同盟を有効に利用したが、一方で神聖ローマ帝国のマティアス大公(ルドルフ二世の弟)はハンガリー領を保持するために、 1606年にイシュトヴァーンとの間にウィーン和約を結んで、ハンガリーやトランシルバニア地方の人々の宗教的権利を保障した。またアフメト一世とも和約を結んだ。
イシュトヴァーンの死後、1608年にマティアスはハンガリー王となり(兄の死後に神聖ローマ皇帝になる)、この王冠を手に入れた。

金やニエロ(黒色合金)の地金にルビー、エメラルド、トルコ石などが象嵌されており、頂部に向かって真珠綱の装飾が施され、天頂にエメラルドが置かれている。東方正教会の司教帽を手本にオスマン朝の細工師が製作したもの。

ルドルフ二世の冠。
11世紀初頃に作られた帝国宝器の皇帝冠は公器で、戴冠式の時のみ使用が許されていた。
一方、この冠は皇帝ルドルフ二世(1552-1612)が自ら発注して作らせたもので、個人的な威厳を象徴するものだった。
彼は 1583年に首都をウィーンからプラハに移して住んだが、あまり政治向きの気質でなく、自然科学者や芸術家を都に集めて、保護して暮らすことを専らにした。
王冠はプラハの金細工師が製作して 1602年に完成した。ルドルフ二世は公務の際にこれをかぶって豊かな気持ちになった。白い真珠の縁取りがたいへん優美な冠である。側面にフルール・ド・リス形の大きな装飾突起が4ケ、小さな突起が4ケ交互に並んでいる。大きな突起の中央には大きなルビーの卓石があり、四辺をダイヤモンドが囲んでいる。
フードの部分は左右に二つに分かれて、その間を前後に橋が渡っている。アーチ橋の中央に小さな十字架があり、その上に深い青色のサファイアの大石が飾られている。「世界で最も美しい冠」の呼び声がある。

ルドルフ二世の死後も、ハプスブルク家の後継者たちは皆、この個人冠を使い続けた。
1792年に即位したフランツ二世(1768-1835)は最後の神聖ローマ皇帝となった。即位からまもなくオーストリアはフランス革命政府から宣戦布告を受けた。その後ナポレオン戦争に巻き込まれてアウステルリッツの戦いで惨敗し、1806年に皇帝の座を放棄した。こうして神聖ローマ帝国は終焉したが、その前夜 1804年にオーストリアの領土を再編してオーストリア帝国が形成されており、以降はオーストリア皇帝フランツ一世を名乗った。この冠は 1804年にオーストリア帝国公式の皇帝冠に定められた。

オーストリア帝国の宝器に定められたオーブ(宝珠)
ルドルフ二世の冠と同様のデザイン。

同じくオーストリア帝国宝器のセプター(帝笏)

フランス革命後の祖国の危機を救った英雄ナポレオン・ボナパルト(1762-1821)は、権力を手中にしてフランス帝国を宣言し、1804年にローマ教皇の眼前で自ら月桂冠を戴冠して人民の皇帝となった。
皇后ジョゼフィーヌとの間に子がなかった彼は結婚を解消して、 1810年にオーストリア皇帝フランツ一世の娘マリー・ルイーズと結婚した。翌年男子が生まれる。
この時、パリ市がお祝いに贈ったのが上の画像の揺りかご。280キロの銀を使って作られた。奥の枕側の背には月桂冠で囲まれたイニシャルNの星があり、皇帝ナポレオンを示す。手前の小さな鷲は生まれながらにローマ王の称号を与えられたハプスブルク家の血を引く男子を象徴して、いま月桂冠に向かって飛び立とうとしている。

フランスのナポレオン三世の主導で、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の弟フェルディナント・マクシミリアン大公が 1863年にメキシコ皇帝に選出された。上の画像はメキシコ皇帝位を表す笏の一つ。この帝位は短命に終わった。

キリスト教の洗礼道具
1571年に製作された金製の洗礼具。17世紀初から使用された。洗礼式で用いられる水には、イエスの洗礼を記念して、その都度ヨルダン川の水が加えられたという。

※余談だが、ヨルダン河の水は聖水と考えられて、4世紀にローマ帝国がキリスト教を国教とした頃から巡礼の記念品となっていた。しかし地中海の船乗りたちは、ヨルダン河の水は船に不運をもたらすと信じていたらしい。巡礼たちが小瓶に詰めて持ち帰る水が船内にある限り、海はおとなしくして少しも風を吹いて寄越さないので、船が進まず困るというのだ。

フランツ一世が 1808年に設立したレオポルト・オーストリア帝国騎士団の衣装。こうしたローブや胸の勲章、首に掛ける環飾り、剣等を揃えてメンバーの連帯感を高め、結束をかためた。フランツ一世は父親の記念としてレオポルト勲章を創設し、1816年には「鉄の王冠」勲章を作った。これらは 1850年まで宮廷の式典で用いられた。

ナポレオンが失墜した後、1814-15年にウィーン会議が開かれて、戦後の秩序が議論された。北イタリアはロンバルト=ヴェネト王国となり、ミラノとヴェネチアが二重首都になって、ハプスブルク家の支配に入った。1838年にフェルディナント一世(1793-1875)が国王に就いた。上の衣装はこの時、中世初期の「ロンバルディア鉄王冠」にふさわしい礼服として作られたもの。
オーストリアは 1859年の第二次イタリア独立戦争でロンバルディアを失い、1866年にはヴェネチアを失う。歴史的な鉄王冠は今日、モンツァの大聖堂にあるそうだ。

紋章の図柄が気になったので撮った。なんの意味なのか、そのうち調べたいなと思う。

 

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