ひま話 ウィーンの王宮宝物庫 1 (2022.11.6)


西洋の史観によれば、紀元前後の長い期間、この世の文明は地中海世界を中心に動いていた。近代以降に枢軸として活躍するオランダ・イギリス・フランス・ドイツといった北方の地域は未だ広大なローマ帝国の植民地として、局所的に先進文明に触れたに過ぎない。
しかし 4世紀に西ローマ帝国がキリスト教国家として体制を見直した頃から、アルプス北方の各地にゲルマン系諸部族の生活拠点が広がり始め、ローマ法やキリスト教の教えを受け入れながら勢力を蓄えてゆく。彼らはやがて帝国のくびきを脱して独自の軍事力・政体を持つようになった。特に 5世紀末にフランス北西部(ガリア北部)で建国したフランク王国は、キリスト教アタナシウス派を奉じてローマ・カトリック教会と結びつつ、周辺の諸部族を従えて版図を拡大していった。
 8世紀後半の王国の首領小ピピンは、当時有力な庇護者を求めていたローマ教皇の王位承認を受け、アルプスを越えて北イタリアに進軍した。そしてランゴバルト王国から都市ラヴェンナを奪って教皇に寄進した。これが最初のローマ教皇領である。
小ピピンを継いだカールはランゴバルドを滅ぼし、800年に教皇からローマ帝国皇帝位を授けられた。カール大帝(シャルルマーニュ)は生涯征戦を繰り返して、ほぼヨーロッパ全土を勢力下におさめた。ここに西ローマ帝国の衣鉢を継ぎ、キリスト教を信仰する統一的な文化圏がゲルマン民族によって出現したのだった。(西ローマ帝国は 5世紀には事実上の統治能力を失っており、最後の皇帝は 5世紀後半に退位していた。)

カールの死後、王国はゲルマン民族の慣習に則って分割相続されたが、そのひとつ東フランク王国では10世紀初にカロリング家の血統が絶えて、カールによって征服されたザクセン人の中から国王が選出された。ハインリッヒ一世はマジャール人の侵攻によく対処した。その子オットーはバイエルン侯等の有力諸侯を押さえて 936年にアーヘンで即位し、ザクセン朝 2代国王となった。955年にマジャール人を撃退して東方に勢力を伸ばし、961年にはローマに遠征した。翌962年、教皇から皇帝位を授けられた。
この皇統は 13世紀の20年間ほどの空位(非ドイツ人が帝位についた)を除いて、19世紀初に至るまで、王朝を変えながら 800年以上も続いてゆく。政治上はドイツ諸侯の上位に立つドイツ王として、精神的には古代ローマに繋がる伝統を帯び、キリスト教世界を護持する諸国を束ねるローマ皇帝として立ったのだった。

帝位は初期にはローマ教皇の承認の下に成立したが、1157年フリードリヒ一世バルバロッサは神から与えられた地位として教皇より上位に立つ者とし、神聖皇帝を名乗った。空位時代以降は神聖ローマ帝国の神聖ローマ皇帝と呼称されるようになった。
また前半期には時々の有力諸侯から帝位継承者が選定されたが、ルクセンブルク朝のカール 4世の時代、1356年に 7つの選帝侯位が定められ、以降ほぼ定着した。マインツ、トリアー、ケルンの大司教が務める 3聖職諸侯、そしてボヘミア王、ライン宮中伯、ザクセン侯、ブランデンブルク辺境伯の地位を持つ王が務める 4世俗諸侯である。
後に帝位を独占するハプスブルク家は、この時、選帝侯の地位を持たなかった。しかし 1438年にアルブレヒト 2世が選ばれて、同家から130年ぶりに神聖ローマ皇帝・ドイツ王が出た。彼はルクセンブルク朝との婚姻によってボヘミア王の地位を継承して選帝侯権を手に入れ、次いで子のフリードリヒ 3世が皇帝に選出されると、それから1806年の帝国解体まで、ハプスブルク家はほぼ帝位を手放すことがなかった。
1508年に皇帝となったマクシミリアン 1世は、ローマでのローマ教皇による戴冠を行わず、トレントで選定皇帝の称号を受ける選択をした。そして以降の同家の皇帝はみなこれを踏襲した。
同家は 15世紀に婚姻によってブルゴーニュ公の領土を手に入れ、またやはり婚姻によってスペインをも支配下に置いたが、この広大な領土の統治は実務的に一人の皇帝の下では困難だった。16世紀半ばにオーストリアとスペインとに分かれ、神聖ローマ皇帝位はオーストリアのハプスブルク家が継いでゆく流れとなった。

今日ウィーンにある王宮の帝室宝物庫は、かつて絶大な権勢を誇ったオーストリア・ハプスブルク家の栄華を偲ばせる宝物を多数保管して、一般の観覧に供している。

王宮宝物庫 Imperial Treasury の出入り口。宝物庫の中は照明を抑えていて、とても暗い。

めのうの大皿。古代末期(AD 300-400年)にコンスタンチノープルで製作されたとされる器物。一塊のめのうから彫り出されたもので、この種のめのう製品としては最も寸法の大きなものという。表面のめのうの模様が光の加減によって 「XRISTO」(キリスト)の文字を描いてみえるといい、きわめて高く評価されている。(私にはそんな文字は見えないが)
製作年代が正しければ、キリスト教が古代ローマ帝国によって公認され、国教とされていった時代のもので、後には聖杯と結びつけた伝説も寄せられた。(cf. No.959)
神聖ローマ皇帝フェルディナント一世(1503-1564)の集めたコレクションに含まれる二つの重要な宝物の一つで、「門外不出の家宝」に定められ、売ってもならず贈ってもならないとされた。ちなみにもう一つの門外不出品は「一角獣の角」。1540年にポーランド王ジギスムンド二世アウグストからフェルディナント一世に贈られた。当時、一角獣はキリストの象徴とされ、その角は神聖な力のしるしであり、地上を支配する力を発するものであった。
どちらもキリストの栄光を放射する宝物というわけ。

神聖ローマ帝国の帝国宝器(レガリア)。
帝国の初期から盛期中世にかけて、各首長の位階を表すさまざまな王冠が作られた。その中でもっとも高位の証とされて、帝国統治を象徴したのが、画像中央にある帝国冠である。10C後半〜11C初にオットー一世のために製作されたとみられる。アーチ形の頭部を持つ8つの金のプレートを蝶番で結んで環状にしてあり、計144ケの貴石を嵌めてある。貴石は金を切り出した開口部に留められているので、背後から光が入ると内側から輝きを放つように見える。
正面のプレートには大きな色石が 3列 4段に並んでいて、ユダヤの大司祭の(支族を表す)12ケの石の並んだ胸当てを模したとも、来たるべき新エルサレムの土台を作る 12ケの石を示すともいわれる。中央上段にはかつて赤い火を放つ宝石があったが失われて久しく、代わりに青いサファイヤの三角石が置かれている。
前面と背面のプレートの間にアーチ状の橋が渡されている(※下のカール大帝の絵画参照)。アーチには真珠を連ねた文字で「コンラッド、神の恵みにより」、「ローマ皇帝アウグ(ストス)」とあり、コンラッド二世(1024-39統治)の時期に加えられたとみられる。正面プレート上の十字架もこの頃取り付けられたもので、元はハインリッヒ二世(973-1024)の所有した胸飾りの十字架だったと言われる。 ※補記1

後の神聖ローマ皇帝の多くはこの宝冠によって戴冠した。戴冠式の時だけ用いられる宝器中の宝器で、その間は厳重に保管されていた。1349年から1421年まではボヘミアにあり、1424年から1796年の間はフランコニアのニュルンベルクにあった。現在はウィーンの王宮にある。
このほか、帝国十字架、帝国剣、聖槍が(神の栄光を発散する)重要な宝器とされ、さらに宝珠(オーブ)や王笏(セプター)もレガリアに加えられた。

帝国十字架。中に聖遺物を収める容器(レリカリー)になっている。聖遺物は、聖槍とイエスの磔刑に用いられた聖十字架の小片と。聖槍は 10C頃、これを掲げて戦いに出れば勝利間違いなしの超常兵器として名を馳せたもので、14Cにはキリスト受難の槍として崇拝されるようになった。
聖十字架の小片は 1029年にビザンチンからもたらされたと言われている(聖十字架の発見は、4C、古代ローマのコンスタンティヌス帝の母ヘレナに帰された伝説があり、ウォラギネの「黄金伝説」に詳しい。十字軍の遠征を経て西方にもたらされたという。)
コンラート二世はこれら2つの聖遺物の容器としてこの豪華な十字架を作らせた。

アーヘンの大聖堂に置かれたカール大帝の墓がAD1000年に開かれ、3つの品が世に出たという。画像はその一つ、聖ステファヌス(ステファノ)の聖血を収めた物入れ(聖遺物箱)。カボッションに磨いた宝石を嵌め込むのは当時の装飾様式らしい。口金部分のトップを飾るのは無色透明の水晶らしく、キリスト教聖人の清浄無垢な高潔さを象徴すると思われる。
ほかの2つはサーベルと福音書。いずれも戴冠式で用いられる儀礼用品となった。

カール大帝の肖像画。アルブレヒト・デューラーが 1511-13年頃に描いたもの。カール大帝はゲルマン民族によるヨーロッパ統一を初めて成し遂げたことから、しばしば神聖ローマ帝国の始祖に擬される。デューラーはその伝説に拠って帝国冠を戴いた大帝の肖像を描いたのだろう。こうしたイメージによって、帝国冠は長い間、カール大帝の所有物と考えられてきたが、今日では後の時代に作られたものとされている。
右手に帝国剣、左手に宝珠(オーブ)を持つ。球形の宝珠は地球を、また全世界を表し、彼はそれを支配しているのだ。宝珠の上部には十字架があり、キリスト教による統治を示す。帝国剣はおそらく柄の部分の内部に聖遺物を収めたと考えられる。神の威力を具えた武器である。
胸の前で交差させた長いスカーフは、古代のビザンチンとノルマン朝の「ロロス」を模したもので、14Cに製作されたという。黄色の絹に帝国を象徴する黒い鷲がメダイヨン模様に刺繍されている。祭司の礼服ストラのような着用法はロロスの使い方とは異なる。鷲は神聖ローマ帝国の紋章動物で、正当な継承者の証として着用した。

ハプスブルク家はスイスの一地方の領主として始まったが、1282年に現在のオーストリア地方での統治が確立した。1453年にはオーストリア大公国の呼称が正式に用いられるようになり、王は大公と呼ばれた。
大公位はルドルフ 4世(1339-1365)の時代にすでにあった位階だが、この時に王の称号として認知され、大公冠は世襲国オーストリアの支配権を象徴するものとなった。
画像は 1764年にヨーゼフ 2世のために中世の手本に倣って製作された大公冠。今は金の骨組みだけが残るが、往時はさまざまな宝石で飾られていた。
冠の上部に橋が渡り、その上に十字架を載せた宝珠が鎮座しているのが、帝国宝器を模したようでもある。

王家の侍従が身に着けた礼服。
ハプスブルク家の侍従は君主の部屋に出入りを許された特権階級で、第一階級に属する貴族のみがその役職に就いた。鷲の紋章入りの陣羽織は着用者の地位をいやがうえにも誇示するものだった。

 

補記1:シーザーの死後、共和制ローマの三頭政治の一翼を担ったオクタビウス(オクタビアヌス)は、エジプトのクレオパトラと結婚したアントニウスの軍を各地で破った。エジプト王国を滅ぼして属州とし、エジプトの膨大な富を奪ってローマにもたらした。そうしてアウグストスの称号を初めて授かり、徳を讃えられた。アウグストスとは尊者、秀でた尊厳者の意で、彼は多くの職権を束ねて BC27年から実質的な帝政を始めることになった。以来、帝位に上った後継者はみなアウグストスと呼ばれた。ディオクレティアヌス帝以降、アウグストスは正帝の、カエサルは副帝の称号となった。

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