ひま話 大航海時代とガラス玉の宝石 (2011.2.26)


15世紀から16世紀にかけて、ポルトガルやスペインが帆船を駆って長距離航海に乗り出し、かたや西アフリカから希望峰を回ってインドへそしてアジア諸島へと続く東回りルートを見出した時代、かたやヨーロッパにとって未知の大陸を発見し、マゼラン海峡を抜けて太平洋を臨み西回りルートでアジア諸島まで達した時代、そして世界一周が現実のものとなった時代を世に大航海時代という。このとき、世界のさまざまな土地・民族にあって、従来の文化や生活習慣、宗教や世界観、国家や部族間の勢力の均衡、物産の流通経路、物品の価値、要するにありとあるものが大きく揺れ、後には戻りようもないほど大きく変化した。

★15世紀、ポルトガルは航海王子エンリケ(1394-1460)の肝煎りで西アフリカ沿岸へ向け数次にわたる探検隊を送り出した。その長期的な目標は、北アフリカの中継業者を経由せずにスーダンの産金を手に入れること、また砂糖や小麦といった食料品、衣料品などの安定供給ルートを確保することにあったといわれる。後にはインド(アジア)の香辛料を直接入手する可能性も視野に入ってきた。
1458年にはディオゴ・ゴメスの率いるキャラベル船団がアフリカ西海岸を南下してリオ・グランデ河に達し、その後ガンビア河をさかのぼって地元の首長との交易に成功している。おりしもオスマン・トルコによって東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都コンスタンチノープルが陥落し(1453年)、イタリア諸都市の地中海艦隊も撃破されて、東方貿易に陰りがみえ始めた頃である。ジェノヴァ商人の支援を受けたゴメスらは織物やガラス玉との交換で180ポンドの砂金を得て帰国した。以来、ガラス玉はアフリカでの交易になくてはならない物品のひとつとなった。アフリカでは以前からイスラム商人がもたらすアラブや中国のガラス製品が流通していたが、ヨーロッパはその市場に参入したのである。

ポルトガルは1480年代には黄金海岸に要塞を築き、希望峰を回航し、1498年ついにインドのゴアに達した。やがてアラブやエジプトの商船隊を駆逐して制海権を握り、ベネチアのガラス細工やフランドルの織物などを輸出する一方でアフリカの砂金や象牙、インドの胡椒といった製品を直接ヨーロッパに持ち込んで巨利を上げるようになる。
またガラス玉はアフリカで奴隷を購うにもよい財源となった。奴隷貿易はたいへん有利なビジネスだった。 1450年から1500年の間に売買された黒人奴隷は約15万人にのぼったという。黒人たちはポルトガルに連れてゆかれて家内労働や農作業に従事した。しかし奴隷貿易の隆盛は後に述べるように南北アメリカ大陸において大規模農園の労働力として需要が膨らんだ16世紀以降のことで、19世紀に至る400年間に大西洋を渡った黒人奴隷の数は1000万人を超えた(1200-2000万人とも)。アフリカ人は交易で手に入れたヨーロッパ製の鉄砲を武器に他部族を捕獲し、商品として引き渡した。そしてガラス玉を手に入れて満足に浸った。それは世界のほかの地域で、歴代の王や領主たちが戦争の捕虜や罪人・奴隷を宝石の購い代にしたのと同じであった。金で支払うよりも容易だったのだ。

★ガラスといえば12世紀以来、ヴェネツィア・ムラノ島の工芸品が有名で、もとより重要な物産であったが、16世紀にはアフリカ人の嗜好にあわせた大型でカラフルな新しいスタイルのビーズが作られるようになった。またオランダ(当時スペイン王国の一部)を含む北ヨーロッパやスペインでも、ベネツィアの技術を取り入れたガラス製造が盛んになった。わりのよい交易品として大きな需要があったのである。

アフリカ人の間ではガラス玉(ビーズ)の類は貴重品であったらしい。装身・装飾品であると同時に社会的なステータスを象徴する威信財として扱われた。別の言い方をすると、社会を構成する人々の地位、部族や身分階層、年齢といった区別が身につけるビーズの違いに現れ、人々の帰属と差異とを如実に表す「礼器」(これは中国古代に身分階級を示すために用いられた玉器に対する表現だが)として機能していた。
今日、アメリカのような物質主義の文明社会では、収入の多寡や社会的地位によって、乗るべき自動車、住むべき土地、家や家具や壁紙のスタイル、服装やアクセサリの選び方に使いこなし、子供に受けさせるべき教育、はては食習慣から贈り物の選び方、楽しむべき趣味に至るまで模範となるモデルが存在しているのが普通である。求める階層モデルに合わせた生活スタイルを模倣することは、中〜上流階級では特にその狭い社会に受け入れてもらうための基本的な条件だと言ってもよい。人の懐具合や社会的存在の質は、所有する物品や文化習慣の選択に現れると考えられるのであって、中身は容器によって判断される。

アフリカでのガラス玉は、言うなればこうした生活スタイルを規定する幾多の模範のひとつであり、文化や礼節を担う宝石であったのだ。当事者たちの執心は、時には外部の観察者の目に、あたかもガラス玉に聖性、霊力、呪術的な効力(例えば魔除け)を認めているもののように映ったが、そしてもちろん現地にはそれを肯定する伝統が存在していたのであろうが、こうした現象は未開の精神ゆえだとか、非文明的な社会でこそ生じる出来事というわけでなく、人間社会ではどこにでもありうることだと考えるべきであろう。

考古学者や宝石学者は古い遺跡や墓所から、例えば軟玉やひすい、トルコ石などの装身具や武器や道具やが出土することをもって、これらの石は社会的経済的な価値を持つ威信財だったとか、身分・階級を象徴するものだったとか、宗教的に尊崇されて祭祀や儀礼に用いられたとか、霊的な力があると信じられたというふうに推論するが、私が思うには、この種の宝石製品が果たした役割はアフリカでのガラス玉や現代社会でのある種の高級ブランド製品と似たものがあったはずである。
もちろん今日の工業製品が、必ずしも天地の神々や祖先の霊との霊的な交信ツールとなっているとか、宗教儀礼や典礼に欠くべからざる伝統的素材であるとか、病気の治癒に用いられる調律器または活力補給装置だと(信じられていると)いうわけではない。しかし物品に対する執着や尊崇の念が芽生えるモチーフは、昔も今も、また民族や文化度の違いによらず、ずいぶん同じような心の動きに拠っているだろうと思うのだ。

例えばもし我々が婚約の徴にダイヤモンドを贈り、合格祈願に木製の絵馬を神社に奉納し、イワシの頭を魔よけとして門口に飾り、お祝い事の席にめでたい鯛の焼き物をつけるとしたら、後代の人々は物的証拠によって、我々がこうした物品自体に、つまりダイヤモンドやある形に削られた木やある種の焼き魚に、それが用いられたシチュエーションの成就と維持を保証する力があると信じていた、と推論しないだろうか。我々が古代人に対して行っているのは、遺物を基準にしたそうした想像である。
逆に言えば我々が自分自身のモノ文化をその視点で考えない理由は、儀礼に用いられる物品が我々の心の在り方・願望を仮託された依り代であり、本来代替的な象徴物に過ぎないと自覚しているからであり、あるいはまた儀礼が形骸化してその本来の意味をわざわざ意識しないからにほかならない。
バレンタインデーに聖バレンチヌスや古代ローマのルペルカリア祭を偲ぶ日本人はまずいない。しかし一方バレンタインデーのチョコは明らかに聖別されたモノであろう。さらに言えば贈り物はチョコでなくガラス玉であってもなんら困らない(のにチョコである)。
それなら、なぜ過去の人々にとっても事情は同じだったと考えてはいけないか。物品に対して過剰な霊的意味づけを行うことも、また過度に物質的側面のみに視野を限ることもとりあえず保留して、人とモノとの関わりを眺めると、古代の宝石文化もアフリカのガラス玉文化も現代のモノ文化も、中間のどこか、おそらく我々の日常感覚にとても近いところに共通の出発点を見出すことが出来るのではないか。そしてはっきりと申し上げておくが、私は意中の人がお守りといって石をくれたら、科学的な効能があろうがなかろうが、そんなことはまったくどうでもよい。

その意味では現代にパワーストーン文化が存在するように、パワービーズと呼ぶべき概念が存在することはまったく不思議でない。「トルコ石の話」で書いたことだが、私自身はひすいやトルコ石(やガラス玉)自体に何らかの、科学的と言っておこうか、薬効、霊験、威力が具わっているかどうかは信仰が発生し存続する上で問題にならないと思っている人なのだが、もし実際に宝石や鉱物に効能があるとするならば、きっとガラス玉にも効能があるだろう。むしろガラス玉の方が波動が純粋で、色彩や模様による向精神効果がより高く、チューニングやアレンジメントが容易で、量産が効いて価格もはるかに適正だろうと思うし、運を呼び込んだり魔よけにしたりヒーリングを行うときにパワーストーンよりも優れた効果を発揮するに違いないと考える。
…過去に言ったり書いたりしてきたことと矛盾している気もするが、それはもう、バラカの色ガラスや薩摩切子やスワロフスキーのビーズと、天然石の磨き玉とを比べてみれば、そのあふれる光や洗練されたバイブレーションの違いは一目瞭然、鎧袖一触、問答無用、おとといおいで、ではないか。

★ま、冗談はこのくらいにして、話を戻そう。
当時のポルトガルはその勢力圏がポルトガル海上帝国という概念で示されるように、発見した陸地を政治的に支配することよりも制海権の確保を重視した。獲得した領土に比べて押し渡った海域の広さが特徴的であったし、安定した交易こそ勢力拡大を進める最大の目的であった。1511年にマラッカ王国を占領し、翌年モルッカ諸島(香料諸島)に達して丁子やニクズクなどの香辛料が手に入るようになるとポルトガルと出資したジェノヴァ商人は有卦に入り、リスボンは物流の中心地として大儲けに舞った。
一方、大航海時代のもうひとりの雄となるスペインは、ポルトガルに半世紀以上遅れて海への一歩を踏み出し、結果的に植民地経営に力を入れてゆくことになる。しかし、そのためにはまず数百年にわたって続いた戦い、イスラム勢力に支配されたイベリア半島を取り戻す戦いに決着をつける必要があった。1479年にカスティーリャ王国とアラゴン王国がひとつとなりスペイン(イスパーニャ)王国が誕生したのが大きな契機となった。強大な軍事力を擁したスペイン軍は、1492年、ついにイスラム最後の拠点グラナダを落してレコンキスタを完成させた。そしてこの年、カスティーリャのイザベラ女王はコロンブスの支援に踏み切り、彼を大西洋航路に送り出した。

★コロンブスの船団は歴史に残る1492年10月12日の朝、カリブ海に浮かぶグァナハニ島に上陸した。彼らは最初に遭遇したこの島でアラワク人に暖かく迎えられた。水や食料をふるまわれ、先住民が持ってきたオウムや綿の玉、槍をビーズなどと交換した。
しかしガラス玉は金と交換するためにこそ用意してきたものだ。彼らはそのことを分からせようと実力行使をいとわなかったが、残念ながらこの島に金はなかったので、略奪を終えると島を後にした。それからコルバ島(キューバ島)を発見し、イスパニョーラ島にも行った。島民には金製の装身具を身につけた者があり、またシバオという土地に砂金があることが判った。コロンブスはシバオをジパングだと思った。彼は少数の入植志願者を残して略奪した金銀や真珠を土産にスペインに戻り、大歓迎を受けた。獲得した財宝の10分の1をもらった。そういう契約だったのである。それからもっと多くの金を探すために西インド諸島へ向けて航海を繰り返したが、その後はもう期待したほどの金は見つからなかった。

それにしてもスペイン人は金を求めていた。最初の頃、彼ら征服者はキリスト教国であるスペインの威を知らしめ、入植を有利に進めるべく、また楽しみのために先住民(インディオ)を無差別に殺していったが、武力による町の威嚇や捕虜の拷問によって、金の在り処を訊き出すことにも熱心だった。
コロンブスの後を継いだスペイン人たちは黄金探しを組織的に行った。接触したインディオには悉く、子供でない限り1人あたり決められた量の金を3ケ月以内に納めるよう通達した。金を持ってきた者にはスペインに臣従した証として標章を渡し、首にかけさせた。金を用意出来なかった者はここに書くのを憚られる目にあった。それからまた全員に金の要求をした。スペイン軍は大砲(軽砲)や鉄砲、騎兵、弩兵、歩兵、犬からなる強力な武装兵力を押し出して、まるでトルメキアの機甲戦団のように新世界に乗り込んだので、絶対数に優るインディオが相手でも十分に戦える戦力があった。先住民たちは自分の仕事よりも砂金探しを優先するか、町を捨てて逃げ隠れするほかなかった。
コロンブスに同行した宣教師は、スペイン人にとって残虐であることはスペイン人であることと同じだという意味のことを述べているが、こうした行状は彼らの敬虔なキリスト教精神に矛盾するものではなかった。彼らが強く残虐なのは主の御心であった。征服も御心であった。異教徒は人間とは認められなかった。ともかくスペイン人は金を集めるだけ集めたが、そのうちにも先住民は殺されてゆき、また過酷な労働を強いられて命を落とし、逃げ出したり、疫病や飢饉で死んでゆき、人口はどんどん減っていった。

★スペイン人は発見した島々に入植してインディオに臣従の礼をとらせ、エンコミエンダ制を敷いて労働力に組み込んだ。そして大規模な農園経営によって砂糖やタバコなどの農産物を作り、本国へ送っておおいに利潤にありついた。先住民を使役することについて、スペイン人は奇妙な見解を持っていた。彼らがそもそも人間なのか、魂をもった存在であるかどうかが疑問視され、魂を持っていなければ牛や馬と同じであるから鉱山や農園で奴隷として働かせることに支障はないとしたのである。ついでに言うと、いったん臣従した島民が反抗したりスペイン人を侮辱すれば、奴隷の焼印を押す十分な理由になった。
しかし1510年代にはもう労働力の不足は明らかだった。スペイン政府はこれを解消するために奴隷供給契約許可証を発行した。許可証をもった商人はヨーロッパからガラス玉や綿製品、鉄砲などの工業品を積んで西アフリカに向かい、奴隷を買って西インド諸島へ送った。西インド諸島では奴隷と砂糖とを交換して本国に持ち帰った。サイクルの完了に1年から2年をかけるこの交易は三角貿易と呼ばれ、それぞれの地に必要なものをもたらした。
この頃には西インド諸島(のうちの大アンティル諸島)の征服はほぼ終わり、プエルトリコ、ハマイカ(ジャマイカ島)、クーバ(キューバ島)などに農園が造営されていた。南アメリカ大陸の調査が行われ、パナマ地峡にも植民地が建設された。

★1517年、当時クーバに住んでいたフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバは、エンコミエンダの割り当てに不満を持つ者たち(多くは一旗上げようと本国から渡ってきて芽の出なかった野心家たち)の懇請を受け、初代クーバ総督ベラスケスに対し、新しい土地を探しに遠征する許可と資金的な協力を求めた。大アンティル諸島の富は彼らの口にまで回らなかったが、まだ誰も向かったことのない西方へ行けばあるいは新しい豊かな土地があるかもしれないと思い立ち、資金を出し合い、運を天に任せて夢を実現する気になったのである。ベラスケスは激減したクーバ島の労働力補充(奴隷獲得)を条件に許可を与えたというが、遠征隊員たちはそれは神と国王陛下の命令に背くものだと答えたという。いずれにせよベラスケスは協力し、遠征隊は未知の海へ船出した。二日二晩暴風雨に翻弄された後、陸地(アメリカ大陸)を発見し、クーバ島では見たこともない大規模な集落を見つけて上陸を果たした。
彼らは先住民と接触し、身振り手振りで敵意のないことを示して緑色のガラス玉の数珠を持たせた。首長が友好的な態度で村に来るよう誘うのでついて行くと、待ち伏せにあった。激しく戦い、なんとか敵を撃退して船に戻った。同行した神父は戦いの間に村の神殿にあった純度の低い金製品や偶像などを船に運び上げた。彼らは金と石造りの建物を目にして、豊かな土地を発見できたと喜んだ。次に見つけた集落では神殿に案内された後、威嚇とともに退去を促された。従うほかなかった。さらに進んでチャンポトンという村に碇を降ろしたが、武装した先住民(マヤ族)が押し寄せてきた。激しい戦いとなり、大勢の死傷者が出た。仲間の半数を失ったコルドバは命からがらクーバに帰りついたものの、数日後に傷がもとで死んだ。未知の陸地への上陸はまさに命がけだった。

黄金があり文明も進んでいるらしいユカタン半島発見をうけ、ベラスケスは第二次探検隊を募り、1518年4月、親戚のフアン・デ・グリハルバを隊長として送り出した。物々交換であっても略奪であってもいいので、ともかく金を入手するのが目的だった。彼らはチャンポトンで復讐戦を戦った後、グアニグアニコ岬に到着し、グリハルバ川(と勝手に命名された)の沿岸を回って先住民と接触した。ガラス玉との交換で純度の低い金細工を手に入れることが出来た。捕えた先住民から、もっと金を手に入れるには西方を目指せばよいということを聞き出した。そのとき「メシコ」(アステカ王国のこと)という言葉を何度も聞いたが何のことか分からなかった。
バンデーラス河というところでは、盛んに上陸するよう呼びかける人々に出会った。探検隊は非常に友好的な彼らを通じて、青や緑のガラス玉と交換で貨幣1万6千個に相当する大量の金の装飾品を手に入れる望外の収穫を得た。こうしてグリハルバは大成果を上げて揚々とクーバへ戻った。

★翌1519年にはエルナン・コルテスを指揮官として、数百人規模の第三次遠征隊が組まれた。彼らはベラクルスに上陸し、大冒険の末にメシカの征服に成功する。もっともその時まで生き延びられた者はほんの一握りに過ぎなかった。
探検隊の隊員は皆が皆、給金をもらって参加していたわけではない。行く先々で手に入る略奪品や、征服した土地で条件のよいエンコミエンダを受けたり、権勢を授かったり、つまりは将来手に入る戦利品をめあてに、自腹を切り借金をして旅装・武装を整え、募集に応じたものが大多数であった。
武装には大金が必要だった。馬は高価であり、騎兵は自ずと身分の高い者に限られた。遠征隊の指揮官はハイリスク・ハイリターンの人気職で、競争をくぐって任命を獲得するには資金も後援者も運も必要だった。任命を受けた後も足の引っ張り合いがあった。コルテスは怪しい雲行きを感じて装備が完全に整わないまま急いでクーバ島を出たが、後に残った競争者たちがいろいろな忠言をベラスケスに吹き込んだ結果、途中のハバナで解任を言い渡されている。ただし、隊をよく掌握していたコルテスは応じなかった。隊員は当然自分の利益に繋がると思われる人についてゆく。後になってベラスケスが探検隊の任務としたのは入植でなく交易だけだったと分かったときも、ハナから征服のつもりで参加していた隊員たちはコルテスを押し立ててメシコに進軍していった。それこそが神と陛下へのほんとうのご奉公だと言って。

ちなみに新しい土地で手にいれた財産の5分の1は同行する王室の財務官によって取り分けられ、スペイン王室の財産として徴収された。コルテスは残りからさらに5分の1をとった。経費も天引きされた。獲得品の分配は必ずしも公正に行われたわけでなく、王室や指揮官また味方につけるために指揮官が懐柔した有力者たちに多く流れた。金は分配前に明らかに目減りしていたし、捕虜にした女性は財務官が先回りして容姿の優れた者はみなどこかに消えてしまう理不尽さだった。一平卒として参加した隊員にとっては命を張ったわりに、手に入った利益は満足のいかないものだったようだ。
だが征服活動によって本当に得をしたのは、もっとも危険な段階が終わった後からやってきて、ちゃっかり要職を占めた、王室に有力なコネクションを持った人々であった。

★この三次にわたる探検(遠征)隊のすべてに兵卒として参加し、熾烈な戦闘を生き残った人物がある。ベルナル・ディアス・デル・カスティーリョといい、ずっと後になって「メキシコ征服記」を書き綴った。この記録は1568年までに一応の完成を見たが、彼の生前には出版されず、マドリードに送られた文書が1632年に発見されて日の目をみた。

その記録を読むと、彼らスペイン人が新大陸の住民(南大陸から移住して大アンティル諸島に住んだ人々とは別の民族であったらしい)がやはりガラス玉を好み、特に緑色や青色のビーズを喜ぶことに気づいていたことが分かる。遠征隊は接触した町の首長や有力者たちを呼び寄せては、友好のしるしに緑色のビーズを贈った。そして金とガラス玉の交換を求めた。
先住民たちは明るい緑色の石で装身具や小像を作っていた。鮮やかな緑色の小石を特に珍重して、チャルチウイテと呼んでいた。
例えばグリハルバ隊の遠征のときの様子をカスティーリョは次のように記している。
「グリハルバ川(タバスコ河)に着いた時、緑色のガラス玉で作った数珠や小さな鏡、青色のガラス玉などを住民たちに見せた。」 「彼らは自分たちが珍重するチャルチウイテだと思ったらしく、それまでより表情を和ませたようにみえた。」
このとき出会った先住民は、数日前に彼らがチャンポトンで200人以上の住人を殺したことを知っていたが、スペイン人の意向を探るために敢えて姿を見せたということだった。
その後、バンデーラス河で会った友好的な人々は、実はメシコ市の王モテクソーマ(モクテスマ)に命じられてやってきた者たちであった。モテクソーマは、「我々が海岸沿いに自分の領地へ向かっているのを知り、もし我々が立ち寄るようなら、金と我々のガラス玉、特に彼らの間で珍重されるチャルチウイテのような緑色の玉と交換するべく努めよとの命令を各地の役人に発していた。」
かくて遠征隊は村を巡り、ガラス玉と交換に金細工を差し出す住民たちに接触したのであった。
モテクソーマはスペイン人の目的は金だということが分かっていた。そしてあわよくば、欲しいだけの金を手に入れて機嫌よく引き上げ、メシコには来ないでほしいと願ったらしい。彼はスペイン人たちが何者であるか、金を手に入れる以外になにか狙いがあるかどうかをどうしても知りたいと考えていた。
ちなみにこの王は、スペイン人のガラス玉がチャルチウイテではないが、何か別の貴重なものだと考えていたらしい。
グリハルバ隊との交換で手に入れたガラス玉を何度も手元に運ばせ、指の間で転がしてはこう言ったという。
「これらの青い宝石は実にうっとりさせる魅力がある。宝石を納めた庫をしっかりと守れ。一つでも失くすようなことがあったら、お前たちの家も子供も妻も取り上げられるものと心得よ」
また、後にコルテスがモテクソーマ王の使者と接触したとき、彼は王への贈り物として使者にガラス玉を託した。モテクソーマはしかし王宮に持ち込まれた玉に手を触れず、それは神々のものだからと言って神殿に埋めさせたという。

メソアメリカ先住民が珍重した緑色の石チャルチウイテについて、次のひま話でさらに述べたいと思う。

追記:南米ペルー(インカ帝国)が征服された後、この地の地誌を記録したシエサ・デ・レオンによると、当時(1500年代半ば)は、3つか4つのガラスのダイヤモンドをインディオたちは200ペソ、300ペソという高値で買っていたという。ちなみに彼自身はあるインディオに小さな銅の斧を売ってそれと同じ重さの純金を得たが、それだけの価値が認められたからだとしている。


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