トルコ石の話 アメリカ南西部のトルコ石愛好について


アメリカの先住民の間で古くからトルコ石が愛好された件とセリロスのトルコ石鉱山の歴史とチャルチェウェートル(チャルチウイトル)という呼び名に関する件、ひま話(トルコ石の伝承-2010.11.23)に続けて。

★北米大陸には小さなものを含めると星の数ほどのトルコ石産地があり、かつアメリカ中西部に集中しているが、とくに南西部(サウスウェスト)は歴史的にみてトルコ石文化の中心地といってよい。この地域の先住民、いわゆるインディアンによるトルコ石の使用はAD300年以前に遡るとみられ、美しい青色または緑色の石を加工した様々な製品がプエブロ(町)の遺構や墓所から発見されている。
アリゾナ州フェニックスの南方、ギラ河流域にあるスネークタウン遺跡はその代表的な例であろう。ここはBC300年からAD1500年頃までアメリカに住んだとされる主要先住民族のひとりホホカム族の文化遺構で、1930年代にエミリー・ハウリー、ハロルド・グラッドウィンらによって発掘された。夥しい数のトルコ石ビーズやペンダント、モザイク、骨片の上にトルコ石を貼り付けた装飾品が見出されており、長い年月にわたってこの石が愛用されたことを示している。(注:この遺跡の最古層の年代をハウリーらはBC300年と考えたが、現在はAD500年とするのが主流。最新層はAD1100-1450年)

今日、世界遺産に登録されているニュー・メキシコ州北西部のチャコ・キャニオンは19世紀末以降何度も発掘調査が行われた土地である。この一帯の遺跡からもモザイクや象嵌を施したトルコ石の儀礼用品、数万個のビーズが採集されている。1921年と27年にプエブロ・ボニートで行われた調査では、たった一つの埋葬遺構から56,000個ものトルコ石片が見つかった。その場所はチャコ古代民の「大きな家(カーサ・グランデ)」だったという。
またシャービックエスチーでもトルコ石ビーズのネックレスが見つかっており、AD500年頃のものとされている。1990年代にファハダ・ビュートで行われた調査では、大量の原石や半製品、完成品が発見され、この地に大規模なトルコ石工房が存在したことが明らかにされた。AD950〜1050年頃の遺構といい、少なくとも10世紀前後にはトルコ石製品が大量に製作され商業的に用いられたらしい。
トルコ石製品の流通がチャコ・キャニオン全域のプエブロに及んだことはもちろんだが、交易によって北方へはカナダに、東方にはミシシッピ河流域に住む先住民の文化圏まで、西方には太平洋岸からカリフォルニア湾岸地域まで広がっていたようである。(南方については後述)。
コロラド高原の先史時代の遺跡から見つかった最初期の装飾品の中には緑色や青色のトルコ石とカリフォルニアの海岸で採れる貝殻(red Spondylus:「トゲアリ牡蠣」 など)とを組み合わせたものがあり、交易と文化の醸成が双方向的・複合的なものだったことを窺わせる。

★古いトルコ石製品はナゲットや原石のビーズに穴を開けて素朴なネックレスやイヤリングに仕立てたものが主流であるが、時代が降ると加工技術が進歩し、より複雑な細工物も作られている。 AD1300年頃のホホカム族の遺跡からは、トルコ石片を木片や骨や貝殻に接着したモザイクの葬礼具が出土した。この製作技法は後にアリゾナ北部やニューメキシコに住むことになるホピ、ズニなどいくつかのプエブロ人の間で行われるものとそっくりである。
1917年と20年に考古学者フレデリック・ホッジはズニ・プエブロ付近で16世紀後半から17世紀初にかけてのトルコ石製品を発掘したが、その中には大量のトルコ石片をピニオン・パインのヤニで木や貝殻に接着した櫛などのモザイク品があった。ズニやサント・ドミンゴのプエブロでは今日なお同様の素材と技法とを用いた伝統工芸品が作られている。

ズニといえば、フェティッシュ(物神崇拝)の文化で知られるが、彼らの古いフェティッシュにはトルコ石の彫り物や、目や口などの器官にトルコ石を嵌めこんでその部分(の力)を強調したものがある。ズニやホピ族のカチナ(カツィナ精霊神)の舞い手はトルコ石の首飾りを帯びて舞いを奉納し、祈願者は粉末状のトルコ石を供物として捧げる習慣があったという。
アメリカ南西部のほかの先住民、ナバホ、アパッチ、ピーマ族ら(いずれもホホカム族の末裔と言われる)もトルコ石には特別な霊力が具わっていると信じたらしい。ナバホはトルコ石を身に着けていると幸運が訪れ、死者と精霊の世界の仲立ちをするイエイ(ナバホの神)の加護を受けることが出来ると考えた。
アパッチの狩猟者や戦士はかつて敵から身を守ってくれる護符としてトルコ石を身につけた。またトルコ石片を弓に添えて、矢が的に向かって真っ直ぐに飛ぶことを祈念した。ピーマ族はトルコ石には病気を退ける力があると考えていた。

アメリカ南西部のいたるところで古代墓地から大量のトルコ石が見つかっていることは、プエブロに住んだ人々がこの石にスピリチュアルな意義を与えたことの反映だと考えられている。トルコ石は美的価値と経済的(交換)価値を伴う装飾品・財産であると同時に、霊的な価値、すなわち薬効・魔力・神霊との通信を媒介する霊力といった超常的な効能を持つ石とみなされ、ために埋葬儀礼品や呪術アイテムとして活用されたというのである。(こうした信仰が生まれる基盤として、実際にトルコ石に呪術的効能が具わっているかどうかは重要な点ではない −むしろ人間の側(先住民または考古学者)がそういう方向に信仰(論理)を発達させる性向を持っているということなのだ)

★考古学者が発見した先史時代のトルコ石採掘跡は夥しい数に上るが、なかでもニュー・メキシコ州セリロスのチャルチェウェートル山(Mt. Chalchihuitl) は、もっともよく知られた場所のひとつだろう。先史時代から千年以上にわたって採掘が続いた北米最大規模のトルコ石鉱山であり、現代トルコ石文化のルーツといってもよい存在である。
サンタフェの南10マイルに位置するセリロスの語源は「丘陵の連なり」で、サンタフェと南方に高くそびえるオーティス山脈との間に広がる、うねり連なる起伏地形をそのまま表現している。
チャルチェウェートル山はセリロスの町の北方2,3マイルの小丘で、AD900年には先住民によるトルコ石採集が始まっていたという。最初は地表に落ちているカケラを拾い集めていたと思われるが、採り尽くしてしまうと露天掘りで石を採集するようになり、それからさらに鉱脈を追って地下へと向かったらしい。

スペイン人が来る以前の先史時代の採掘のピークはAD1300年から1500年にかけてで、後にサント・ドミンゴに移住したサン・マルコス・プエブロの住民の手で大規模な開発が行われた。当時、南西部のほかのトルコ石鉱山では地表採集または露天掘りが主流だったが、この丘では深く縦坑を掘って地下採掘がおこなわれた。中央縦坑の深さは40m以上(60mとも)あった。火の熱で固い岩にひびを入れ、石斧や大槌で砕き、枝角をつけたツルハシ、ノミなどを使って、20エーカーにわたる範囲で数万トンの岩石が掘り崩され、除去された。脈に沿って狭く曲がりくねった水平坑道が掘られ、トルコ石が地上に運び出された。坑内から丸太を刻んだ梯子や石斧などの道具類、陶器片などが見つかっている。北側の斜面は全面的に掘り返され、200ケ所以上の採掘跡が残っている。
この丘にはトルコ石だけでなく鉛・銀・亜鉛などの金属鉱石があった。彼らは上部酸化帯にある酸化鉛や炭酸鉛を掘った。リオ・グランデ・プエブロの伝統的な陶器、ガリステオ盆地の釉彩陶器は、こうした鉛鉱石を原料にして作った釉薬で美しく彩色された。

★16世紀に入るとスペイン人の時代が来た。 1521年にアステカ帝国を征服した彼らはまさに金に魅入られた人々だった。国王の財産を増やし、キリスト教を広め、割りのよいエンコミエンダを手に入れることに命を賭けた白き神たちは、シボラという黄金都市があるとの報告を耳にすると愛国心を燃えたたせ、早速アメリカ南西部への遠征を企てた。1540年である。連中はフランシスコ・バスケス・デ・コロナドに率いられてシボラを征服したが、この都市は実際にはズニが住むふつうのプエブロであり、黄金郷とは違っていた。彼らは金の採れる土地を探して周辺を回った。セリロスの丘ではわずかな金が見つかったが、偉大な征服者たちにはまったく取るに足らないものだった。なにしろ対価は自分の命だったのだから。
しかし、彼らとともにやってきたトラスカラ人ら(アステカ人に敵対した)メソアメリカ先住民にとっては別で、セリロスは宝の山に等しかった。彼らはことのほかトルコ石を珍重していたからだ。トラスカラ人はこの山をセロ・チャルチウイテと呼んだ。トルコ石の丘または麗しき緑の宝石の山の意味である。その名はスペイン人に引き継がれ、以来、セロ・チャルチキッテ Cerro Chalchiquite またはマウント・チャルチェウェートルという地名が定着した(らしい)。
チャルチウイテ/チャルチェウェートル/チャルチウイトル(Chalchihuitl)はナワトル語だが、ほかの言語を話す先住民の間でもトルコ石を指す語として通用したらしい。ナバホ族らアメリカ南西部の先住民族の間では19世紀の終わり頃まで、少なくとも数世紀にわたって広く用いられた。なので、トラスカラ人らが初めてこの名をつけたのか、その以前から地元の先住民がそう呼んでいたのかを言うのは難しい。日本人の言語感覚に置き換えてみると、この地名は金山、銀山、石岡、ひすいケ丘などというのに近いだろうと思われる。

ついでながら、この丘からさらに5マイル北方のローン・ビュート付近にはターコイス・ヒルという英名の丘があり、ここも先史時代からトルコ石が採集された。またニューメキシコ州ではシボラ郡ブルーウォーター付近にもチャルチウイトルTchalchihutl という場所があり、トルコ石が採集された。さらにつけ加えると、アルゼンチンのアンデス山脈にはヴァル・デ・チャルチャキス Valle de Chalchaquies、トルコ石の谷という産地がある。

★話を戻すと、1541年にコロナド卿はセリロス産のトルコ石の標本をスペインに送り、その石は王室の宝石コレクションに収蔵されたと伝説されるが、ほんとうかどうか分からない。遠征は失敗に終わり、コロナドは1542年にメキシコに戻った。本格的に入植が始まったのは1600年代に入る頃である。エル・レアル・デ・ロス・セリロスという小さなキャンプが生まれ、銀と鉛の組織的な採掘が行われた。その結果セリロスは記録に残るもっとも古いアメリカ西部の鉱山地域となった。
半世紀の間、スペイン人はセリロスで銀と鉛を採り、先住民はトルコ石(と酸化鉛)を得た。スペイン人は慣行的にエンコミエンダといって、征服し入植した先々で先住民の割り当てを受け、強制労働につかせる法的権利を持ったので、セリロスでも先住民が鉱山労働力となったと思われるが、アフリカから連れてきた黒人を働かせたこともあっただろう。その一方で、スペイン人は先住民をナバホやアパッチの襲撃から保護した。平和な時代には両者はそれなりの互恵関係を保ったが、信仰の問題などに絡む確執がなかったわけではない。
実際、1670年代に頻発した干ばつや疫病、宗教上のトラブルにより、1680年に「プエブロの反乱」が起こり、スペイン人はリオ・グランデ地域から一掃された。12年後に慰撫鎮圧されてレコンキスタ(失地回復)がなるが、この出来事を境に先住民文化が廃れ、鉛の採掘も伝統陶芸も終焉を迎えた。しかしトルコ石の採集はその後も長く続いたようだ(メキシコが独立した1820年代までとも、銀ブームに沸いた1870年代までともいう)。

★1828年、メキシコ人の探鉱者がセリロス南方7マイルのオールド・プレーサーで砂金を発見し、西部最初のゴールドラッシュが起こった。この地で採集された金は2200万ドルに上った。やってきたにわか金鉱夫は2000人に達したが、彼らもスペイン人同様、トルコ石には関心を持たなかった。
1848年にニューメキシコはアメリカ(合衆国)に割譲された。セリロスはしばらく静穏を保ったが、1870年代に転機が訪れた。大資本を投下した近代的な鉱山プロジェクトがいくつか始まり、銀採掘がブームとなったのだ。このときコロラドで金・銀を掘っていた鉱夫たちが折からリードビルで起こった労働争議を避けて大勢この地に移ってきた。彼らはかつて先住民たちがトルコ石を掘った土地の上に1000区画以上の鉱区を立てて金属鉱石を掘った。
結果的に銀、鉛、亜鉛の生産はさほど大きなものにならなかったが、これを機にアメリカ人の間でもトルコ石の愛好が目覚めた。鉱夫たちの多くはトルコ石に気付いても、先のスペイン人やメキシコ人と同じくあまり価値があるものとは考えなかった。たしかにトルコ石には換金価値がなかったのだ。しかし好んでトルコ石を掘り集める鉱夫も現れるようになった。
一方、ズニ、リオグランデ・プエブロやナバホの先住民の側でも新しい文化が生まれた。白人がもたらした鍛冶技術を習得して伝統的なトルコ石細工に金属を組み合わせるようになったのだ。トルコ石を最初に銀に嵌め込んだのはキネシュド(Kineshde)という名の職人だったと言われている。
1880年代には南西部に大陸横断鉄道が繋がり、トルコ石の美しい銀細工がインディアン・ジュエリーとして中西部の住民や東部からの旅行者の関心を引くようになった。先住民にとってトルコ石細工は重要な現金収入源になっていった。

セリロスのトルコ石は火山性の土地に産するため、熱水に含まれる鉱物成分の影響でさまざまな色あいを示す。よく知られた空色をはじめ、濃青色、リンゴ緑、濃抹茶の緑、黄褐色、カーキ緑など、多くのニュアンスがあった。75種に細分した人まであったが、それは冗談としても、褐鉄鉱の筋が景色をなしたり錆がにじんで陰影を添えたり、黄鉄鉱のカケラが散らばって光っていたり、そのバリエーションは実に豊富だった。またセリロス産の石は硬いものが多く、磨き上げると豊かな光沢を放って見えるのだった。1880年代には7-8cmの太さの脈は珍しくなかったという。
セリロスのトルコ石はアメリカ南西部のシンボル的存在となり、アメリカ人の間でも(経済的)価値のある宝石(貴石)として認識されるようになった。
ニューヨークのティファニー宝石店は控えめに言って、これに大きな役割を果たした。

★1837年にチャールズ・ルイス・ティファニーが創始した宝石店は、今で言うカンパニー・カラーに爽やかなパステル調の青緑色を採用した。これはコマドリの卵の色であり、当時のビクトリア朝下のイギリスでは資産台帳の表紙など重要な書類によくこの色が使われていた。ティファニーは、自分の店の商品はどれも気品のあるものでなければならないという考えから、今日「ティファニー・ブルー」と呼ばれるコマドリの卵(ロビン・エッグ)色のギフトボックスを作った。

1889年、ティファニーの宝石学者クンツは、南西部のトルコ石のサンプルを得て素晴らしいアイディアを思いついた。トルコ石を「ティファニー・ブルー」の「宝石」として宣伝し、販売することにしたのだ。ティファニーはセリロスの鉱区を買い取り、1892年に宝石質の「ティファニー・ブルー・ターコイス」のキャンペーンを始めた。ジェームス・マクナルティ率いるアメリカン・ターコイス・カンパニーが採掘したロビンエッグ色のトルコ石を独占的に扱うことで(希少)価値を創造し、トルコ石の価格を宝石レベルに引き上げた。こうして 1892年から1899年の間に 200万ドル相当のトルコ石が掘り出されたが、その換金価値は彼らの商才によって生み出されたものである。
1890年代は有史以後のセリロスの最盛期となり、良質の原石が東部に送られ、カットされ磨かれ、ティファニーの店頭に並んだ。もっとも豊かだった鉱脈は1910年に尽きたが、この時代のセリロスはトルコ石の世界最大の産地と考えられた。ブルー・ベル、カスティリアン、ティファニー鉱山の名が広く知れ渡った。その後も1950年頃まで小規模な採掘が続き、現在も少量のトルコ石が掘り出されているが、程度のよいセリロス・ターコイズを市場で見かける機会はほとんどなくなっている。

★アメリカ(白)人の間でトルコ石が認められたのは19世紀も終わりに近づく頃だったが、先住民の間では古くからこの石が愛好されていた。すでに述べた通り、経済価値とともに精神的な価値が認められていたことはその文化の古さを物語っている。後年、ズニやリオ・グランデのプエブロ人は青いトルコ石を父なる空に、緑のトルコ石を母なる大地に結びつけて考えた。彼らにとってトルコ石は青いものばかりでなく、あるいはロビンエッグ色だけでなく、緑色のものにも価値があったのである。下の画像はトルコ石片をモザイク様に貼った先史時代の円筒であるが、空色と深い緑色のトルコ石が美しい景色を作りだしている。

ナワトル語のトルコ石名であるチャルチェウェートル/チャルチウイトルの語源にはいくつかの説があるが、Wiki には「Heart of the Earth (大地の心臓または大地の心)」と載っている。
緑のトルコ石が母なる大地だとすると、この語が指す石は、本来緑色系のものだったのだろうか。

では、青色のトルコ石は何と呼ばれていたのか、と聞かれると困ってしまうのだが、ひとつ逃げ道を示しておくと、16世紀のメソアメリカでは、チャルチウイトルは緑色の最上級の宝石を指す語であり、空色のトルコ石はシウイトル(xiuitl )またはシウという語で呼ばれていた。シウは青色(または緑色)を指し、シウイトルは青色(または緑色)の石ということになる。(フォーシャグ博士はトルコ石はテオシウイトル  Teoxihuitl とし、xihuitl は下記のようにハーブを指すとしている。)

メソアメリカ文化を研究している人には常識だと思われるのだが、この文化圏においてチャルチウィトルは今日では濃緑色のひすい(Jadeite)またはクロロメラナイトなどの緑色の類縁種を指すと考えられている。
もっともこの語にはシウイトルという音が含まれているようにも聞こえるので(チャル+シウイトル)、青色の石を指していない、と言い切るのも難しそうである。あるいは、古くは純粋な青色から純粋な緑色までのさまざまなニュアンスの青緑色の石が含まれていたのかもしれない。
トラスカラ人がセリロスのトルコ石をシウイトルでなくチャルチウイテと呼んだことも考え合わせてみる必要があろう。
この件については、稿を改めて取り上げる(⇒ひま話 アステカの宝石チャルチウイテとシウイトル)。

チャルチウイトルの語源について他の説を紹介すると、AMNHのフォーシャグ博士は、非常に古い起源の言葉なので幾通りにも解釈が可能だがと断った上で、「ハーブの色の粒状の石 xalli+ xihuitl」、「緑または青い鳥の羽の色の砂粒 xalli+ xuihtic」という2つの説を取り上げた(前者には否定的で後者を推した)。この鳥には特にメソアメリカで珍重されたケツアル鳥が想定されている。
別の研究者は、この語は分解不可能な言葉であり、単にさまざまな種類の「緑色の高貴な石」を指し、「こよなく貴重な存在」「いとしいしと my precious」といった含意を持つとしている。
トルコ石系のショップでは「空(色)の石」を意味すると説明していることもある。公平に言って、チャルチウイトルの語源はすでに辿りようがなくなっているのであろう。今日、「北米ではチャルチウイトルはトルコ石を指し、中米ではヒスイを指す」という折衷的な解説が一般に行われているが、私はもともとチャルチウイトルはさまざまな鉱物種の美しい緑色または青色の石の中で特に素晴らしいものを指すジェネラル・タームだったのだと思う。日本語にあてれば緑貴石、緑青石くらいのニュアンスか。

最後にトルコ石文化の南方への広がりだが、メキシコやグアテマラ、ホンデュラスの先史時代の主要な遺跡のいくつかで大量のトルコ石製品が見つかっていることから判断して、マヤやアステカ文化圏でも、北アメリカ南西部のプエブロでと同様に、トルコ石愛好は精神文化にまで高まっていたようである。アステカ人(メシカ人)やトラスカラ人の武器、例えば盾にはトルコ石の鋲飾りが打たれ、祭礼の神々はトルコ石の装束で着飾り、葬礼の仮面にもトルコ石(やひすい)が用いられていた。病人の舌にふくませて快癒を願ったり、古くは死者の口に入れて埋葬する風習もあったらしい。まるで古代中国における軟玉の葬儀礼、含蝉のようである。

中央アメリカではラ・バランカやサンタ・ローザなどが重要なトルコ石産地であったが、この地域の需要をすべてまかなったとはみられていない。メキシコの先住民は大量のオウムやコンゴウインコの羽、銅の鈴、貝殻、そのほかさまざまな珍しい交易品を携えて北方へ旅をし、彼らが彫刻に用いたトルコ石と交換していたと考えられる。こうした中米産の物品が北アメリカ南西部の多くの古代集落、例えばチャコ・キャニオンやペコス・プエブロで発見されているからである。 (2011.2.12)


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