ひま話 旅をする (2012.2.27)


出張先で持ってきた本を読み了えてしまい、なにか手頃な文庫本を買おうと本屋さんを覗いた。沢木耕太郎の「旅する力」−深夜特急ノート−が目に入ったので、これにした。以前、氏の「深夜特急」を読んだことがあったからだ。
「深夜特急」は沢木氏が1973年から74年にかけて、香港から旅を始め、インドのデリーからロンドンまで陸路をバスに乗って旅した紀行というか印象記である。1984年の6月からサンケイ新聞に連載され、その後新潮社で本になった(と、このテキストを書いている今になって知った)。
旅が好きだったり、スナフキンに共感を覚えたり、経験値を上げたいと思っていたり、若い旅に憧れを感じる人は一度は手にとってみるとよい本だと思う。そしてもちろん、未消化の旅の澱を、あるいは古い情熱を、身体の中に抱え込んだまま年をとってしまった人にも。
氏の切り口というかスタイルはつねに明晰である。文体や構成を戦略的に組み上げて、読ませる文章を書く。鋭く尖った自意識がいたるところに顔を出すテキストを透して、多くの読者は、旅にあった彼の熱病めいた感懐を、これからするだろう自分の旅の予知夢として、あるいはすでに生きてしまった出来事の意味を照らす現在進行形の並行世界 another world として体験するだろうと思う。

僕が「深夜特急」を手にしたのは、正確には覚えていないが、97年頃だったと思う。店頭で文庫を見つけて、帯と裏表紙のアオリ文句に惹かれて買った。本好きの方なら同意されるだろうが、出会うべき本はタイトルや表紙や帯を見たときになんとなく分かるものだ。もっとも、出会うべきかどうかということは人生のほかの選択肢と同じく予め定まっているわけでなく、手にとった瞬間に初めて、あるいは読み終えたずっと後になって初めて決まるのであるかもしれないが。
ただその頃僕は、本屋さんで海外紀行本を見かけると、意識して手にとってみる習慣があった。未知だが存在しているはずのある本が気に懸かっていたからだ。それはかつて「海外貧乏旅行」の邦人バックパッカーたちがバイブル的に手にした定番であると想像できる節があった。それで帯の写真を見たとき、これがそうかもしれない、と思ったのだった。

★その10年ほど前、1985年の暮れ、僕は初めてインドに行った。以前ひま話に書いたが、Kのパブリック・トークを聴きにいったのである(インド(異文化圏))。
アディヤール河にかかる橋の近くの安宿に泊まり、2週間ほどマドラスにいた。その間、オートリキシャに乗って市中の植民地時代の要塞やヒンドゥー寺院を見に行ったり、河の対岸にある神智学協会の敷地を散策したりと多少の観光もしたが、時間の半ばは国民会議の初代議長アニー・ベサントにゆかりの屋敷の庭で、ぼけっと座って過ごした。ホテルを出て左に折れ、馴染みになったチャイ屋さん、焼き飯屋さん、屋台のバナナ売り、道端にゴザを敷いて店を広げたココナツ売りなどの前を行き過ぎ、砂埃にまみれた通りを少し歩けば屋敷の門があった。鬱蒼とした巨木に囲まれた奥庭は市中の喧騒が嘘のように静かで、カルチャーショックに翻弄されてヘバっていた僕にはかっこうの避難所となった。木陰に寝そべると南インドの耐え難い蒸し暑さが梢を渡る風に幾分か払われ、ほっと息がつけた。だが夕方になるとカラスが次々とねぐらに戻って樹上に影を潜めた。鳴き声はかまびすしく不吉だった。

Kはマドラス近郊の小さな町に生まれた。神智学協会に職を求めた父親に連れられてマドラスに来た年、アディヤール河の岸辺で弟と遊んでいるところをリードピーターに見出され、協会に引き取られた。そしてリードピーターやベサント夫人の庇護の下で成人し、協会を離れた後も、母と仰いだ夫人とその屋敷、マドラスの町に終生心を寄せていた。
Kはリシ・バレーの学校で秋に開かれたトークの後、医師の診察を受けて入院を勧められたが、次のトークが予定されていたマドラス行きを強く願ったという(事実かどうかは知らない)。しかし体調は思わしくなく、マドラスでは日中も屋敷の部屋に籠って過ごしたようだ。外に姿を見せるのは毎夕の散歩の時間に限られていた。トークは行われたが予定の回数をこなせなかった。通例ならパブリック・トークのない日に行われるプライベート・トークはとり止めになっていた。

★パブリック・トークの日は広い庭が聴衆で埋まった。地元のインド人が多かったが、イギリス人やニュージーランド人など、そのためにやってきた人たちもいた。インドを旅行中にKの評判を聞いて足を延ばした人たちもあった。たまたまマドラスに滞在していた人、リシケシュのアシュラム(精神的な修道場)からハイデラバードを経由し、何十時間も電車とバスを乗り継いで南下してきた人、ゴアで遊んだついでに立ち寄った人などなど。
そんな中に、ある日、庭で本を読んでいた僕に声をかけてきた若い日本人があった。テントが入りそうな帆布製の大きな袋を持ち歩いていて、1,2時間ほど荷物を見ていてほしいと言った。それがきっかけで少し話をした。彼はその汗くさい背嚢ひとつを負ってインド中をもう何ケ月も回っていた。ビザが切れると国外に出て、新しいビザを受けるとまた戻った。何が彼を惹きつけているにせよ、その先もまだずっとインドを回る様子だった。
僕にはとうてい出来そうにない旅である。想像するだに恐ろしい。しかしそんな気ままな海外貧乏一人旅には明らかに強い魅力があった。今でもそうかも知れないが、その頃、海外への旅行にはおしなべて未知の世界に飛び込むようなトキメキがあった。特に渡航経験の浅い日本人にとって、いわゆる先進国でない外地への初めての旅はイニシエーション的な妖しい輝きを帯びて映っていた(もちろんどこに行こうが、その土地にはその国の人々が普通に住んで普通に生活しているわけであるが)。
実際、若年層では風来坊旅行が流行っていたのだろうと思う。異郷を何ケ月も一人で歩いている人に会ったのは彼が初めてでも終りでもなかった。格安航空券が出回り始めていた。黄表紙の粗雑な紙に印刷された従来にない旅行ガイド本が本屋に並び、旅行社が主催するツアー旅行ではまず訪れないような土地の情報を、一旅行者の投稿という形で、つまり信じるも信じないも読者の判断に委ねて、紹介していた。
ともあれ、僕は彼のする旅の話を、いささかならず羨望と怖れの念を抱きながら聞いた。

僕のマドラス行きは、彼のようにリスクを背負ってする、旅すること自体を生きる旅ではなかった。貧乏旅行には違いなかったが、旅の目的は明確で期間も定まっていた。そもそもKのトークがなければ、インドに足を踏み入れる気になったとは思われない。
しかし彼は初めのうち僕が彼と同じような放浪の旅をしていると考えたようだ。というのは、その日僕はホテルを変わるためにたまたまフレームザックを持ち歩いていて、寝袋を枕替わりにザックにもたれて座っていたからだ。
彼は何の本を読んでいるのか訊ね、「臨済録」と答えると面喰っていた。それから、「○○を読んだか?」と訊いた。そのテキストに影響されて旅に出たのか?というのである。どうやら彼自身がそうだったらしい。だが僕が放浪者でないと了解すると問いを引っ込めた。どんな本なの?と訊き返しても言葉を濁した。自分にとって大切なことを理解のない者に話したくない気持ちが、僕は分かった。
書名も作者名も記憶に残らなかったが、そのときのことが何年か経った後もどこかに引っかかっていた。手がかりはないに等しいが、人をリスキーな旅、言い換えればいったん社会の枠を飛び出してしまう旅に駆り立てるキッカケになった本をいつか自分も読んでみたいと思った。

★「深夜特急」が果たしてその本だったのか、ほんとうのところは知りようがない。ただ裏表紙に旅のバイブルといった文句が躍っていたし、帯にバックパック姿の若者の写真があり、テレビで紀行が放映されると宣伝していた。内容的にもそうであっておかしくなかった。自分も旅に出たいという気持ちに駆られる本なのだ。ただこのテキストを書きながら知ったが、1985年には「深夜特急」はまだ単行本になっていない。しかし新聞連載されて間もない頃だから、あるいは彼は連載を読んで刺激を受けたのであったかもしれない。
あるいは別の時、別の状況で、マドラス行きから数年後に、例えばカルカッタの安宿でくすぶっていた経験のある知り合いが、ある晩の酔いに紛れて「深夜特急」というタイトルを口にしたことがあったのかもしれない。沈んで思い出せないその記憶が、文庫化された本を見たとき、そっと心のどこかを引っ張ったということだったかもしれない。僕の中ではいろんな出来事が混じり合って変質し、いくつかの体験を一つのカタチに再構成しているのかもしれない。
もちろん、まだ知らない別のテキストが存在する可能性もある。というか一生かかっても出会わないテキストは無数に存在するだろう。小田実の「何でも見てやろう」は沢木氏の「すべての始まり」の本だそうだが、ちょっと違う気がしてまだ手を出していない。(ちなみに金子光晴の「どくろ杯」や「ねむれ巴里」は読んだが、異様な迫力に満ちて人の心を鷲掴みにするが、後に倣おうという気を起させるとは言いがたい。)(最近、藤原新也「印度放浪」という文字を見て、そういえばそういう本もあったなと気づいた。読んでないが。2014.2)
いずれにせよ、僕は今も世界中をリュックを背負って歩いてゆく旅に心を惹かれ続けている。未だ見ない土地、いつか行きたい憧れの土地、言葉の通じない土地、異文化への旅、時間的にも空間的にも壮大な旅。怖くてやっぱり出来そうにない旅…

★マドラスでは情けなくヘバっていた僕だが、帰国すると俄然昂揚感に包まれて気持ちがハイになった。しばらくはインドで見たことをしゃべりまくっていた覚えがある。第三者から見れば恥らしい所業というほかないが、人は困難を終えた後にそんな精神状態を迎えがちなものである。一種の生理的反動であって自制は難しい。それは大げさにいうと、カネッティが語る、戦場から生還した兵士が感じる生命の充実に等しい状況であろうと思う。
後に消防士を描いた「め組の大吾」を読んだときも、その状態を示唆するテキストに遇った。要救助者探索の後、火災現場から撤収しようとするときの荒教官の独白である、「生きて還る…何と素晴らしいことだ…俺たちは破滅するために炎に飛び込むのではない…生き残るために…」 
たしかに大げさだ。ただ僕としては、誰にだって深い印象を刻まれた「初めての」旅があるはずで、そこのところはお互い大目に見ましょうよ、とお茶を濁したい。
ハイな状態は1ケ月ほどで落ち着いたが、熱にうかされた感じはその後何年も去らなかった。

帰国して数週間が過ぎた。2月に入ったある日の夕方、一人家の中にいてなんとない寂しい気持ちに憑かれた。窓から外を見ると、カラスが何羽も飛んできて近所の屋根に止まるのが見えた。そして喧しく鳴き始めた。やけにカラスが多いな、普段こんなことはないのに、と思った。声を聞けば思い出すのはマドラスのベサント・ビハールの夕暮れ、Kのトークを遮るかのように激しく鳴き交わしていたカラスの大軍勢である。新聞の死亡欄にKの名前を見つけたのはその翌朝だった。Kは精密検査と療養のため1月半ばにカリフォルニアに渡ったと聞いていたが、オーハイの谷間で最期の時を迎えたらしい。なにかひとつの時が去ってしまった、という感慨があった。偶然だろうが、カラスは2、3日いて、またすっかりいなくなった。

★その後何度かインドに行ったが、やはりこの時に受けた衝撃は僕にしては破格であった。気持ちを落ち着かせるために(熱病を去らせるために)、印象を文字にしたいと思って何度か試みたが果たせなかった。今もどう書いていいか分からない。
沢木氏の「深夜特急」は旅が終わった後、執筆にかかるまで10年近い歳月を要している。そして、先日買った「旅する力」は、「深夜特急」の刊行からさらに20年近く経って、やっと作者に可能になった回顧であり、旅の意味づけであろう、と僕は思う。そのタイムラグは氏にとって必要な時間であった(単行本は2008年刊)。
この本の中に印象的な科白があったので書いておく。
沢木氏に檀一雄夫妻のありようを描いた「檀」という作品があり、妻ヨソ子さんのモノローグによって進むお話であるが、氏は作品を書き終わってしばらく後にヨソ子さんに会って、こう言われたそうだ。
「あなたに話し、書かれた文章を読んだことで、これまで自分の内部に確かに存在していた檀一雄が消えてしまった。」
そして氏は続ける。「それはよく理解できた。『深夜特急』の第三便を書き終えたときの私がそうだったからだ。第三便を書くまで、あの旅は私の内部で生きつづけていた。生々しくうごめいていたと言っていい。ところが、書いて、作品として定着することで、その生々しさは消えてしまった。そして、遠くなっていってしまった。たぶん、そのとき、あの旅はひとつの死を迎えることになったのだろう。」
だが死を迎えたと思えた旅は、まだ語るべきことを隠していた。そして第三便の後、十数年を潜って「旅する力」として再び表出したわけである。

書いたり話したりすることは、体験を整理し、消化し、深化し、昇華し、意味を与えて卒業する営みである。書ければラクになるだろう。それは分かっている。が、それにはやはり必要なだけ時間がかかるのに違いない。そしてもしかすると、そのプロセスには終りがないのかもしれない。

もうひとつ。沢木氏は自分の旅を振り返って言う。「異国をうろついていた私は、異国に在るという根源的な恐ろしさをまったく自覚しないまま歩いていた。自分の育った国の法律や論理や常識がまったく通用しない不条理な世界。」
一方、僕はと言えば、自分の常識がまったく通用しない不条理な世界に過剰なまでに反応していたように思われる。

cf. 旅のひとコマ マドラス

追記:黄表紙の旅行ガイド本が一世を風靡する以前は、いろんな旅行社が海外旅行ガイドを出していたが、私の考えではそうした本を執筆していたのは少数の旅行者で、彼はもちろん長い日数をかけてその国の各地を旅したものと思われる。その種のガイド本は事実上、抒情詩といっていいもので、昔の図鑑が抒情に満ちていたように、各地の案内に旅情が満ち満ちていた。憧れがこだましていた。

追記2:「しかし、冒険心を駆り立てるには、地図海図だけでは不十分である。記録が要る。旅行記でもなんでも、実際に見た人の記述が、まだ見ぬ人の心に火を点けるのだ。」(塩野七生「海の都の物語」第10話より)


このページ終り [ホームへ]