ひま話 ヨーロッパ人によるグリーンランドの発見 (2016.2.24)


◆北大西洋に位置する世界最大の島グリーンランドは、ほぼ全域が北緯60度以北にあり、面積の80%が永久氷雪に覆われた極寒の地である(あった)が、沿岸部には夏になると植生の見られる土地があり、少数ながら古くから人が住んでいた。北部にはBC2,400年頃からBC1,000年頃にかけてインデペンデンスT文化が、またBC700年頃から AD70年にかけてインデペンデンスU文化が存在した。また中西部(ディスコ島あたり)にもほぼ同時期(BC2,500-BC800年)にサカク文化があった。サカク文化の後には中西部にドーセットT文化(BC700-AD200年)が続いた。

これらの人々の出自は必ずしも明確でないが、おそらくは北アメリカ大陸の北東部から陸(ないし島)伝いに渡ってきたとみられている。地理的にグリーンランド島の北西端は、カナダのエルズミーア島とネアズ海峡をはさんでわずか30キロの距離にあり、海峡が完全に凍結する冬季はソリで渡ることが出来た。
AD10世紀頃、後期ドーセット文化圏に属する人々がカナダ北東部から島の北西部に渡って居住したことは確からしい。この文化は1,300年頃に消滅したが、1,200年頃からはチューレ地方を中心にチューレ文化が起こり、その後、西部・東部の広い地域に分散して住んだ。彼らもまた西方からやって来た人々である。
チューレ文化圏の人々は現在のイヌイット(カラーリット)の祖先にあたるが、人種的にモンゴロイドであり、さらにその遠い祖先はシベリアからベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸にやってきたのである。グリーンランド島への人の流れはかつてはつねに北西方から起こり、島内では北から南へ、あるいは西から東へ向かっていた。

◆ヨーロッパ人にとって北大西洋/ノルウェー海で隔てられた大海の向こうのグリーンランドは、数世紀前にはおぼろげな伝説(サーガ)の中でのみ語られる土地であった。
最初の伝説は(といっても今日では歴史上の事実とみなされているが)、10世紀末頃、グリーンランドに渡ったノース人赤毛のエイリークの行跡である。950年頃ノルウェーに生まれたエイリークは、20歳のとき父とともに殺人の科を問われて故郷を離れ、植民が始まって数世代を経ていたアイスランド島に渡った。そこで妻を持って数年の間平穏に暮らしたが、33歳のとき再び三度と争いに巻き込まれて殺人に至り、民会によって追放刑を受けた(当時の人々の争いは容易に生命のやりとりに繋がったようである)。彼は西に向かって船出し3年後にまた戻ってきた。そして、西へ進み氷海の縁を回って南西へ進むと居住可能な土地があり、夏には牧畜に好適な草地がある、ここに新しい国を作ろう、と説いた。彼はその土地をグリーンランドと呼んだ。そこはサーガのひとつ、「定住の本」によれば、かつて鴉のウルブの息子グンビョルンという男がアイスランドから西の方角に漂流したときに見つけて、船乗りたちの間でグンビョルンの岩礁(グンビョルナルスケル)と呼ばれた陸地、またはその途中に見た島とみられる。エイリークは追放されたとき友人に、この地を探し出したら戻ってくると言い置いていた。

こうしてエリックは25隻の船団を組んで出発し、14隻を新天地に導いた。985年頃のことである。彼らは島の南端を回って西側の海岸線に居住地を定めた。その中心地は今日のカコトック(ジュリエイヌ・ハーブ/ユリアーネ・ホープ)にあたる。また1055年頃には西海岸をもう少し北上した今日のヌーク(ゴットホープ)あたりにも植民地を持った。前者を東植民地、後者を西植民地と呼んだ。
当時グリーンランドは温暖だったといわれるが、島の東側の海岸線は今日同様、険阻な崖から陸氷が迫り出し、また海氷がかみついて、とてもヨーロッパ人の暮らせるところではなかった。しかし西海岸はそれなりに暮らしやすかったようである。海岸から数十キロのあいだは氷のない陸地で、峡湾部の奥に暮らせば海風を避けることが出来た。ヤナギやカバの叢林があり、豊富な植生に恵まれていた。石造りの住居が築かれ、畜舎もまた石で造られた。
穀類が出来るほと暖かくはなかったが、牧畜で得られるミルク、バター、チーズがあり、クマ、トナカイ、アザラシなどを捕ることが出来た。タラも食べた。エイリークの息子のひとりレイフは若い頃、本国のノルウェーに渡ってオラヴ・トリグヴァソン王の宮廷で歓待を受けた。キリスト教徒となり、王に頼まれて伝道僧を連れ戻ってきた(補記1)。父のエイリークは古い宗教を守ったが、母は真っ先に改宗した。やがて島人は教化されて教会が建てられた。建築用の材木や鉄はアイスランドやノルウェー船との間の交易で得た。島には沼鉄鉱があったが、製錬に使えるほどの木材燃料は賄えなかったのである。セイウチの牙やアザラシの毛皮、干ダラなどが交易物産となった。 

13世紀の最盛期には東植民地に190の、西植民地に90の牧場があって、人口は 2〜3,000人に達したという。教会は17あった(補記2)。植民地は 1261年にノルウェー国王の治下に入り、年2隻の定期送船を見返りに以降の交易は官営に限られることとなった。
ところがノルウェー王国の海上通行はハンザ同盟の興隆におされて衰退の一途を辿った。船数は次第に乏しくなり、やがてデンマークの傘下に入ると利益の薄い植民地への関心自体が薄れてきた。
1393年にグリーンランド交易の拠点だったベルゲンが焼かれたことは決定的な打撃で、1410年、最後の官船がグリーンランドに向かった後、植民地との音信は失われた。ノルウェーに残る記録は1408年にバルスレー教会で行われたノルウェー船の船長と植民地の娘との結婚式を最後に後を絶つ。
ちなみに14世紀半ばの東植民地はほぼ教会に牛耳られており、主要な牧地の3分の2は教会領であった。しかし 1378年に司教が亡くなった後、後任はついに派遣されなかった。

西植民地については不可解な話が伝わっている。 1341年に東植民地のガーダー(現イガリクあたり。司教館があった)に派遣された聖職者(司教監察官)イヴァール・バルダーソンは、1364年に本国に戻った後、現地の状況を記した報告書を国王に提出した(後世の写本が現存する)。それによると、(1350年頃に)バルダーソンが僧兵を率いて最北の植民地(西植民地)へ遠征したところ、かつて司教座が置かれたステンズネス教会はじめ、村の建築物はすっかり荒廃に帰していた。一人の入植者も異教徒も見ることがなく、半ば野生化した畜獣があたりを彷徨っているばかりだった。一行は思うさま狩りをし、獲物を船に満載して東植民地に戻った。

遠征の目的は、異教徒のスクレリングが西植民地の地域に侵入したとの報せを受けて、彼らを駆逐しキリスト教徒を保護するためだったと述べているが、それが本当かどうかは不明である。その以前にノース人とスクレリング(エルズミーア島から入ってグリーンランド島西部沿岸を次第に南進したチューレ文化のイヌイットとみられる)との間で何らかの争いがあった史実はない。考古学的な調査が示すところでは、西植民地が実際に終焉を迎えたのは 1360年から1400年までの期間だったとみられる。西植民地のとある村は最後まで東植民地との間に交流があり、人々は身の回りの品をしっかりまとめて居住地を去ったようだという。

東植民地はノルウェーからの船が来なくなった後も、アイスランド植民地との私交易を続けた形跡があるが、本国の記録には残っていない。16世紀後半にグリーンランド島に関する新たな(他国の)消息がノルウェーに伝わった時、ベルゲンの人々の間では、その昔彼らの一族が西方の島で暮らした生活が、非現実的な空想とないまぜになって語られるばかりだったという。

◆15世紀中葉から16世紀前半のヨーロッパはポルトガルやスペインが大西洋に乗り出した大航海時代だった。一方はアフリカ大陸を回って東に向かってインドに達し、一方は西に向かって中南米大陸に達した(ひま話 大航海時代とガラス玉の宝石)。
いずれもカタイ(中国)との通商路を開くために営々たる情報収集を積み重ねた結果であったが、その展望の中に、地球は球体であるという知識がしっかりと根を張っていた。1497-99年にバスコ・ダ・ガマがアフリカ周りでインドのカリカットに達すると、ポルトガルは東回り航路の整備を最優先としたが、北西航路が存在する可能性も忘れてはいなかった。つまり西方からカタイに至る航路が見つかるならば、より近回りとなるはずだと考えていたのである。

ポルトガルのジョアン・バス・コルテ=レアルは 1473年にアイスランドからグリーンランドの海を経由してカタイを目指す航海に出た。ポルトガルとデンマークとの共同事業だった。彼が率いるデンマーク船団は流氷と濃霧と嵐とに阻まれてカタイに到らないまま帰国した。しかし北西海域がタラの豊富な漁場であることを知った彼は、総督であったテルセイラ島 (1430年頃発見されたアゾレス諸島のひとつ)からタラ漁に向かう船を出すようになった(1480年頃)。タラはかつてイベリア半島の海岸沿いでいくらでも獲れたものだが、気候の変動のせいか、15世紀にはすっかりいなくなっていた。干ダラ(バカリャウ)は長期保存の利く食糧として大きな需要がある一方、ハンザ同盟がノルウェー産干ダラの流通を押さえたため、その値段は大衆的でなくなっていたのである。漁場の島嶼群と海域はテラ・ド・バカリヤン(タラの国)の名で地図に描かれたが、今日のニューファンドランド島ないしその沖合だったと推測されている。(補記5)

ジョアンには3人の息子があり、先の航海に同行した末子のガスパールは、後に王命を受けて新しい領土と北西航路を発見するため北大西洋へ船を出した。 1500年のことである。スペインの支援を受けたコロンブスが 1492年に西周りの航海でインドの端に(実は西インド諸島に)達していたが、マルコ・ポーロの述べるジパング(日本)やカタイの都カンバリクに至った様子はなかったし、イギリスの支援を受けたカボットが 1497年の航海で発見した陸地は、1494年のトルデシリャス条約を根拠にポルトガル領を主張出来る可能性があったのである。
この航海についてはあまりはっきりした記録が残っていない。ガスパールはグリーンランド島(の南部)を望見して、「アジアの先っぽ」と命名したが、何らかの理由で上陸を果たさなかった。その後島の西岸を北上して、後にデイヴィスが「砂糖帽子」と呼んだ雪嶺を望んだとも、ニューファンドランド島の東岸に至ったとも説かれるが不明である。

翌年、次兄のミゲルと一緒に3隻の船団で同じ航路を辿り、同じ陸地を望見したが氷に阻まれてやはり上陸を果たさず、南進してやがて大きな河が何本も海に注ぐ、緑の森に覆われた陸地に至った。今日のラブラドール半島ともニューファンドランド島とも言われる。彼らは60人近い先住民を捕虜にして2隻の船で先に本国へ連れ戻った。残ったガスパールは行方不明となり、翌年彼を捜索に戻ったミゲルもそのまま消息を絶った(補記3)。長兄のバスコは1503年に捜索の旅を願ったが、認められなかった。スペインに配慮したポルトガル王は、ほどなく北西方面への遠征を禁じた。

1502年にポルトガルで描かれた世界地図。キャンティーノという人物が密かにベネチアに持ち出したという。
地図左辺の青色縦線がトルデシリャス条約で裁定された国境線(W46°37')。線の西側はスペイン領。
東側にあるブラジルはポルトガル領となっている。
  
同上 北大西洋の部分。コルテ=レアル兄弟の探検(1500-1502年)で得られた新領土(森の地)と、
ポンタ・ダジア(アジアの先っぽ)とされたグリーンランド島南部にポルトガルの旗が揚がっている

  

北大西洋の現代の地図。 ニューファンドランド島もラブラドル半島も
トルデシリャス条約の裁定線(W46°37')の西側にある。

ヴェネチアのジョン・カボット(1450?-1498)とセバスチャン・カボット(1474?-1557)父子が、ブリストル商人の支援を受けて 1497年から始めた航海は、グリーンランド島南海域を東から西へ回った後、南西に進路をとってラブラドール半島やニューファンドランド島に向かうものだった。本来は北方海域を目指したのだが、厳寒の気候と夏でも押し寄せる流氷に恐怖した船員を抑えかねて南下を余儀なくされ、今日のバフィン島付近から北米大陸沿岸を下ってチェサピーク湾に至る探検行となったのだ。1498年の探検ではグリーンランド島西岸を北上して北極圏まで進んだと言われるが、定かでない。(補記6)
これ以降、グリーンランド島の南海域(ラブラドル海)からニューファンドランド(カボットはテラ・ノヴァと呼んだ)沖は豊かな漁場として各国の漁船や捕鯨船の押し寄せるところとなったが(補記4)、グリーンランド島自体は関心の外におかれた。
ノース人植民地は依然デンマーク=ノルウェーの領土として彼らの地図上に、また教会の帳簿上に載っていたが、消息が確認されることはなかった。
今日考古学的調査を経て推測されているところでは、西植民地が1400年頃までに放棄された後、東植民地もまた 1440-70年頃には住む者がなくなったようである。だとすれば、北西航路を探索したポルトガルやイギリスの船が、また彼らの航跡を追った幾多の漁船団が、この島に住むノース人の末裔に出逢うはずもなかったであろう。

1492年のローマ法王アレキサンダー6世の書簡は、グリーンランド植民者に触れて、彼らは干し魚とわずかのミルクでみじめな暮らしを細々と続けているが、この80年の間、ノルウェーからもアイスランドからもまったく船が出ていないと述べている。
半世紀ほど後になるが、1550年頃アイスランドに向かった船が流されて、その昔グンビョルンが見つけたとされるグリーンランド沖の小島に漂着した。そこには古い石づくりの農家があり、アザラシのフードをつけた粗末な毛織の服を着た一人のノース人が住んでいた(少し前に死んだと思われるうつ伏せの遺体の脇に、すっかりすり減ったナイフがあった)。これがヨーロッパ人の目に映った植民者の最後の末裔だろうと言われている。

(続く ⇒ 16世紀ヨーロッパの北方世界認識

補記1:北欧伝説−いわゆるサーガは、アイルランドの一聖職者が収集した伝承群とされる。それによると、アイスランドの商人ビョーニ・ヘルユルフセンという人物が、グリーンランドにいる父を訪ねてアイスランドを出航し、嵐に遭って見知らぬ土地に辿りついた。海岸に砂丘が続き、草と灌木の茂みにおおわれていたという。ヘルユルフセンは上陸せず、そのままグリーンランドを目指した。
噂を聞いたレイフ・エリクセンは、997-1000年頃の春、グリーンランドより木材が豊富と思われるこの土地を探しにゆき、木の茂る地に上陸して小屋を建てた。彼らは「岩の地」(ヘルランド)、「森の地」(マルクランド)、そしてブドウの木と実のある「葡萄の地」(ヴィンランド)を見つけた。ヴィンランドは小麦が自生し、サケが遡上する豊かな土地であった。後に(1005年頃)、ライフの弟が入植者たちと共にやってきたり、さらに下の弟がやってきたりと、サーガは続く。
かつてこれらのサーガは単なる作り話(おとぎ話)と考えられていた。今日ではノース人(バイキング)は11世紀頃には北米大陸を下ってニューイングランドの地まで踏み込んでいたと考えられている。ヘルランドはバフィン島、マルクランドはラブラドル半島ではないかという。そしてヴィンランドはニューファンドランド島ともニューイングランドのどこかとも言われるが定かでない。

補記2:数字は例によって文献により異なる。

補記3:行方不明のガスパールを探しに出たミゲル・コルテ=レアルはニューイングランド沿岸で遭難してマサチューセッツ州南部に逢着した、という説があるが真偽不明。

補記4:アイスランドからグリーンランド、ラブラドル海にかけての北方の海は、冬季には流氷のためほぼ航行不能となるため、夏季の3ケ月ほどが漁船や捕鯨船の活動期間だった。春にヨーロッパを出て、夏の終わりには帰路に着かねばならなかった(あるいはどこかの陸地で越冬するか)。
ニューファンドランド沖は北からのラブラドル海流(寒流)と南からのメキシコ湾流(暖流)が入り混じる潮目にあたり、夏でも濃い霧が立ち込め、またグリーンランドから下ってくる流氷が見られる。好漁場として名だたるこの海域をジョアン・コルテ=レアルは隠していたが、カボットの航海はその存在をヨーロッパ中に知らしめた。

補記5:魚のタラ(鱈)はポルトガルにバカリャウ(バカリャオ)という。リスボンの町で、魚屋へ買い物に出た日本人があまり言葉が通じないので「バカヤロー」とどなったら、「バカリャオ」をくれたという。(石井好子「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」(1963)より)

補記6:ジョン・カボット。ジョヴァンニ・カボート。ジェノヴァに生まれたが、若い頃からヴェネチアに住んでヴェネチア女と結婚し、 1472年にヴェネチア市民権を得た。香味料の交易のためイスラム世界を広く旅し、メッカにも行ったという。1493年、西インド諸島発見の旅から戻ってスペイン王宮に報告に向かうコロンブスとヴァレンシアで出会い、インドを発見したと主張するのを聞いた。カボートは自身の見聞に照らして、それはないだろう、と考えたが、カタイへの新航路発見の夢を持つようになったという。カボートは高緯度で大洋を越えるのが最短航路だと考えてイギリスへ渡った。ブリストルで北の海の航海に慣れた水夫を募集しようと決めたのだ。
97年の航海ではテッラ・ノーヴァ(ニューファンドランド島)を発見し、フロリダ半島あたりまで南下した。翌98年にも航海に出たが、五隻の船団は戻ってこなかった。⇒セバスチャン・カボット


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