ひま話 16世紀ヨーロッパの北方世界認識 (2016.2.28)


ヨーロッパ人によるグリーンランドの発見」の続き

◆15世紀末にコロンブスが西回り航路で西インド諸島に達した頃、世界はヨーロッパとアジアとアフリカの3大陸に区分して考えられていた。球体である世界の外周は3万キロに満たない距離で想定されていた(実際は約4万キロ)。地中海世界の東西はより大きく見積られ、アジアはずっと遠くにあると見積られた。ヨーロッパの西の海はまっすぐアジアの岸辺に(あるいは伝説の黄金島ジパングに)繋がっており、その隔たりは東周りの航海距離に比べてはるかに短いはずだと考えられたのだった。
しかし、それから数十年の間に行われた発見はヨーロッパの世界観に大きな修正を迫った。
西インド諸島の南に見つかった陸地(南米大陸)は思いがけず巨大で、今までまったく知られずにいた大陸に違いなかった。この「新世界」は 1507年以降アメリカの名で知られることになる。
コルテ=レアルやカボット父子が発見した陸地(北米)は、やがてコロンブスらのインディアス(新世界)に繋がっていることが分かった。ヨーロッパとアジアの間には南北に連なる長い大陸が立ち塞がって船の通行を阻んでいたのである。マゼランが率いたスペイン艦隊は 南米大陸の南端を発見し、1520年にマゼラン海峡を通過して太平洋に達した。そして世界周航を果たして1522年に帰国した。だがこの寒風の吹きすさぶ迷路のような海峡の通行はおそろしく難儀で、その先の太平洋航路はおそろしく長く、とても商用に向いているとは言えなかった。(商用にはパナマ地峡から太平洋を渡る航路が用いられた。しかし太平洋に出る捕鯨船はホーン岬を回った。)

北米大陸の内部はまだほとんど知られておらず、人々はその東西幅はさほど長くないだろうと漠然と考えていた。少し内陸に進めばほどなく太平洋の岸辺に達するだろうと。あるいは大陸の内部に大西洋と太平洋とを結ぶ河川が存在するかもしれなかった(そんな通路が存在しないことは後に明らかになるが)。1524年、フランス王の命で北米を東西に貫く航路を探索したヴェラツァーノは、現在のノースラロライナ州あたりで細い地峡を挟んだ向こうに大洋の広がりを見た。これはヴェラツァーノ海と呼ばれて、1世紀の間探検家に幻の航路を夢想させた。

ほかに考えられるのは北周りの航路だったが、それには冬季は氷に閉ざされて通行不能となる高緯度の海域を抜けてゆかねばならない。言い換えれば2、3ケ月の短い夏の間に流氷群をかき分けて通り抜けられなければ氷に閉じ込められてしまうであろう決死的な航路であった。結局のところ敢えて北方航路の探索を繰り返し試みたのはイギリスやオランダ、デンマークなどの遅れて世界の海に乗り出した国であり、また北方海域への地の利と多少なり寒冷地の旅の経験を持つ国々だった。

実際問題として当時これらの国がカタイとの直接接触を果たすには、スペインやポルトガルが経営し、軍事的に維持された南方航路を避けてゆくほかないのだった。オランダは後にアフリカ大陸南端(喜望峰)を回って、そのままの緯度で東進を続け、(インドに到るのでなく)、直接アジア諸島へ向けて北上する航路を開発するが、それでもなお北方航路には魅力があった。もし北方に通行可能な海域があるならば、その航路はカタイへの最短経路となるはずだったからである。そして貿易商人たちは通行が可能である方に賭けて組合を作り、資金を出し合って探検の船を出したのだ。

◆世界の地誌はまだかなり茫漠としていた。アジアの地理はプトレマイオスの地図やマルコ・ポーロの見聞録によって判断するほかなく、アフリカの内陸部は未踏で、確実に分かっているのは海流と季節の風任せに定められた航路が通過する海域及び海岸線と河川付近のみと言って過言でなかった。航路外の海域は長く未知のまま残った。北極地方については2、3の古い旅行記の記述や航海帰還者を名乗る行きずりの人々の言葉を根拠にして、相当な希望的観測、ないし当てずっぽうが行われた。
若干の実際上の経験と、真贋の入り混じった多くの伝聞、またその地域の現地人が有する局地的な知識を寄せ集めて、それでもヨーロッパの地図製作者たちは地図を作り、地球儀を作った。それらはそれぞれの流儀で誤りを包含していたが、互いに似通ってもいた。地図が正確だったからでなく、誤りの元となるソースにあまり選択の余地がなかったからである。いったん記載されると、誤った情報でも容易には捨てられなかった。

次の図はメルカトルが1538年に作成した世界地図である。左側は北極を中心とした北半球を、右側は南極を中心とした南半球を描いている。左上にあるアジア大陸はマルコ・ポーロの記述から(先人によって)プロットされた地理である。大陸の左端(東岸)に大きな海峡があって北極大陸に向かって伸びている。反時計回りに(経度幅の狭い)北米大陸の北の海を回って、タラの国の狭い海峡を抜けると北大西洋に出る。これはまったくの想像であり、北極大陸自体が想像の産物だった。グリーンランドはこの大陸から南に突き出した半島として描かれている。北極大陸とスカンジナビア半島の間もまた狭い海峡として描かれているが、東に進むと河川の上流域となり、北方の山脈に閉ざされて、アジア大陸北岸に描かれた海(氷の海)には出てゆかない。
言い換えれば、この地図はカタイに到る北方航路は北西航路しかありえないことを示していた。
ついでに言うと、南半球の図で南米大陸の南端は南極を占める南方大陸(テラ・アウストラリス/メガラニカ)と境を接するように描かれているが、この境がマゼラン海峡である。しかし南方大陸もまた想像の産物なのだった。

メルカトルの世界地図 1538年
南方大陸はオロンティウス(オロンス・フィネ)の地図(1531年)の踏襲、ないし同じ典拠と思われる。
同上 北大西洋 北米大陸の東岸にカボットの「タラの国」、その東の海域にコルテ=レアルの名がみえる。
グリーンランドは北極にある陸地から突き出した半島として描かれている。

メルカトルは30年後の 1569年に名高いメルカトル図積法の祖型となる大世界地図を発表する。後で図を示すが、北方世界は様変わりしており、分画された北極大陸とユーラシア大陸の間に海が描かれ、北東航路が存在するように描かれている。
ちなみに希望峰が描かれた 1490年のマルテルスの地図はユーラシア大陸の北縁が「氷の海」でアジア東岸に繋がっていたし、分画された北極大陸が描かれた 1492年のベハイムの地球儀や、経度幅の異常に狭い北米大陸が描かれた 1507年のヴァルトゼーミュラーの地図(伝統的なプトレマイオス流儀の世界地図とアメリゴ・ヴェスプッチその他の地誌)もユーラシア北方は海域でアジア東岸に繋がっていた。1560年代にメルカトルと交誼のあったオルテリウスの世界地図(1570年)は 1569年のメルカトル地図と同様の極地方地誌を採用。 1531年のオロンティウスの地図は北米とアジア大陸が地続きとなっている。いずれにしろこれらはみな絵に描いた餅で、実際に航行し、あるいは路を確かめ得た者は未だ存在しなかったのであるが。

◆北方大陸や南方大陸などの未踏の地域を白紙のまま残した地図を描けば、1544年にセバスチャン・カボット(1474?-1557 : ジョン・カボットの子。ジョンが消息を絶った1498年の航海の時はブリストルに残っていた)がロンドンで発行した地図がこれに近いと思われる。カボットの地図は少なくとも北米大陸東岸に関しては次の世紀を迎えてもまだ群を抜いて精確であった。
1498年のブリストル商人の支援による北西航路探索の後、息子のカボットはブリストルに留まって航海士として技を磨いたらしい。1508年にイギリスを去ってスペインに仕えた時には天体観測による航海術の大家となっていた。セビリアで水先案内長(ピロタ・マホール)の任に就いた彼は、あらゆる航海日誌や新発見の報告を読み、スペインとポルトガルのすべての新しい地図に目を通していた。もっとも博識な地理学者として知られたのである。 
1526年には王命を受けて南米ラプラタ川流域を探検した。下の図ではあまりよく見えないが、南米大陸の内部に原住民の姿が描かれている。これは 1542年にフランシスコ・デ・オレリャーノの一行が本隊と離れてアマゾン川を下り、はるか河口まで旅をしたときに遭遇したアマゾン族であるが(cf.No.620)、セバスチャンがさんざん苦しめられた反抗的なインディオの姿も重なっていると思われる。アジアの東側の地形は(やはり先人の知見に拠るところが大きく)あまり正確でなく、北米大陸との距離は不相応に短い。北米西岸は未知で、北極地方はほぼ白紙となっている。グリーンランドも描かれていないが、少なくともその南端は若い日の彼が一度は目にしたはずのところである。

1544年のカボットの世界地図 
同上 北大西洋の極地方はラブラドル半島以北が描かれていない。

地図の発刊から数年後、カボットはスペイン王から暇を出されて再びイギリスに渡り、エドワード6世から大水先案内長の称号と年金とを賜った。すでに老齢であったが、依然北方航路への情熱を燃やしていたらしい。その頃イギリス人の目は北西航路に向いていなかったが、カボットは一転して北東航路の可能性、有益性を説いた。1551年には共同設立者として「新天地冒険商人組合」を立ち上げ、北東航路への船を出した。1553年、ヒュー・ウィロビーとリチャード・チャンセラーの船団は結果的にモスクワ大公国との通商ルートを樹立し、モスクワとの交易が始まった。組合はモスクワ会社に発展した。後のハドソン湾会社(HBC)や東インド会社のモデルとなる特権商社である。その名誉総裁としてカボットは、スピッツベルゲン海域や白海、ノヴァヤ・ゼムリャへの探検隊を精力的に企画し、組織した。
とはいえ大局を言えば、イギリス商人はモスクワとの交易から上がる利潤に満足して、それ以遠の航路開発には積極的でなくなった。1557年にカボットが亡くなると、白海に臨むアルハンゲリスクから先の氷海の航行は著しく危険であり、経済的でもない(投資に見合わない)との判断が大勢を占めたのだった。だが入れ替わるように北西航路開発の気運が高まる。(補記1、2)

◆1558年にイタリアで風変わりな北方紀行書が出版された。著者はニッコロ・ゼーノという。
ゼーノ家はヴェネチアの名家で、4世代前のカルロ・ゼーノは14世紀末のジェノバとの戦争で勲功を樹てた人物であった。カルロと共に戦った弟のニッコロとアントニオは、戦争が終わると広い世界を見聞したい気持ちに動かされて旅に出た。ニッコロは1390年にジブラルタルを抜けて大西洋を北へ向かった。アイスランド付近で船が遭難し、フェロー諸島のひとつに漂着した。そこで島を治めるシンクレア卿の家来となり、その後アントニオもやって来た。ニッコロは1394年にグリーンランドへ向かい、やがて病を得て身罷った。

一方、島に残ったアントニオは、ある日、漂着した漁師から奇妙な話を聞く。26年前のことである。漁師の船は時化にあって漂流し、エストティランドという遠方の島に流れ着いた。友好的な島の住民たちと暮らす間に、彼らがドロゾ(ドロジオ)という土地への遠征を計画したので、ついて行った。ところが返り討ちにあって捕虜となった。捕まったエストティランドの住民はみな食べられてしまったが、漁師は長い捕虜生活の後なんとか逃げ出してきたのだという。アントニオとシンクレア卿は好奇心已みがたく、1400年に遠征に出てエストティランドまで辿り着いた。その後アントニオがフェロー諸島に戻ったところでゼーノ兄弟の手紙と記録は終わる。

この紀行を著した末裔のニッコロは 1515年生まれ。子供の頃、屋敷の中で遊んでいて古い記録を破ってしまったことがあった。歳月が過ぎ中年になった彼は、かつての出来事を思い出して古文書を手繰り、上述の記録と地図とを発見したのであった。これが後代に「ゼーノの地図」として知られる有名な北域地図で、北ヨーロッパの海岸線と地名が詳しく記載されているため、大いに信用を博した。現代の目で見ればかなり怪しいところがあるが、2世紀近くの間、北西方を目指す探検家は多くこの地図に(この地図を元にさまざまな発見が書き加えられた地図に)従った。(補記4)

ゼーノの地図の後代の複製。 グリーンランドとノルウェーとの間は「海及び未知の土地」
と記されている。しかし紀行書が出版された頃には、ノルウェーの北の氷に覆われて
いない水路を通ってロシア人漁師の往来のあることが知られており、オビ川あたりまでは
通行可能である(らしい)と信じられていた。
(1496年にグレゴリー・イストマが白海からノルウェー西海岸のトロニエムまで
氷海を航海した旅行記があり、北東航路の探索に乗り出したカボットらも
参考にしただろうと言われている)
ノルウェーの西のエストランドはフェロー諸島に比定されるが、フリスランドやイカリアは
実在しない島である。地図左端のエストティランドはニューファンドランド島、
その南のドロゾはニューイングランドか、と言われているが、
もともと架空の地誌に過ぎないともいう。

◆もう一つ、当時、半信半疑で語られていた極地方の地誌がある。北極点には磁石で出来た黒鉄に光る巨大な山が聳えており、高さは雲を突くほどで周囲は約300キロある。一掴みの土もなく、植物は何も生えていない。その周りは渦を巻く海、さらにその周囲をドーナツ状に陸地が取り囲んでいる。陸地は海峡(河川)によって4つに分画されている。その南岸とユーラシア大陸や北米大陸との間に外海が横たわっているが、外海の水は北方大陸を分画する海峡を通って北極点に向かって大変な勢いで吸い込まれている。この「引き込む海」に入った者はまず戻ってこられない。北極点に集中した内海の水は磁極山の回りで巨大な渦をなし、あたかもジョウゴに注ぐかのように底の割れ目を下って、地球内部の大空洞に消えるという。4つの北方大陸のうち2つには人が住んでいるが、ヨーロッパにもっとも近い陸地に住むのは背丈の低い人(ピグミー)である。

伝説の出所は14世紀頃にハーグのヤコブ・クノーエンというフランドル人が書いたとされる「紀行」である。この書は、イングランド王命により1360年頃にはるか北方を視察旅行したイギリス人フランシスコ会修道士の報告書「運に恵まれた発見」に記載された地誌を孫引きしている。というのは、クノーエンは修道士の書を直接手にしておらず、別のある僧からそこに書かれた事柄を聞いたのである。
この僧は 1364年に北大西洋の島からノルウェーに戻ってきた人々の一人で、クノーエンは、アーサー王の軍勢が北方の諸島に遠征してこれを掌握し、植民が始まった時から数えて5世代目の子孫だとしているが、この年グリーンランドから帰った実在の人物で、後にベルゲンの聖堂参事会員になったイヴァール・バルダーソンではないかとみられている。
いずれにせよ僧はオックスフォードから旅に出た修道士に会い、イギリス領である北方諸島の物産を視察して回り、さらに「引き込む海」に入って磁極山を望み、アストロラーベを用いて地図を作製した話を聞いたのである。そして一冊の聖書と引き換えにアストロラーベを受け取り、ノルウェーに持ち帰ったという。
「引き込む海」にはかつて4,000人の船乗りが進入したものだが、戻ってきたのはわずかで、その一人がかの修道士なのであった。

「運に恵まれた発見」は1490年代にはすでに失われており、「紀行」によって内容を知るほかなかったが、1492年のベハイムの地球儀の北極地方はこの書の記述に拠っているという。「紀行」もまた16世紀後半には失われたが、その片鱗は、北西航路探索の舞台回しを務めたジョン・ディー博士に、メルカトルが1577年に送った書簡等によって窺われる。(補記3)

次の画像はメルカトルの 1569年の大世界地図で、これら極地方の地誌が取り入れられている。その下にオルテリウスの1570年の極地方地図を示したが、こちらも同様である。16世紀半ばのヨーロッパ人の北方世界認識は、(ノース人のグリーンランド植民地が存在していた)14世紀後半に行われた北方航海による伝聞に頼っていたわけである。
10世紀から14世紀初まで続いた「中世の温暖期」は終わり、当時のヨーロッパは小氷期を迎えていた。グリーンランドの海は凍り、北方へのアクセスは難しくなった。かつて北方の海の特産品だったタラは、今ではニューファンドランド沖で沢山手に入ったし、再びアフリカから入ってくるようになった象牙によってセイウチの牙の需要は減った。この海域で捕鯨が盛んになるのはまだ少し後のことである。

メルカトル 1569年の大世界地図
航海への利用を意図したもので、現在点と目的地の間に引いた直線が
目指す方位を示すように描かれた。
広大な北米大陸の中西部は未踏で、テキストで隠されている。

同上 グリーンランド島周辺部
フリスランドなどの島々の配置は「ヴェネチアで発行された地図」を採用している。
(メルカトルの1538年の地図では、ほとんど描かれていない)
グリーンランド島の北西にはグロックランドがある。
地図の天辺に展開された陸地は北極点を取り囲む分画大陸の一部。

同上 大地図左下に描かれた北極点を中心とした極地図
オルテリウスの極地方地図 (1570年)  やはりゼーノの地図を参照している。
1565年にエリザベス女王に北西航路探索を進言したギルバートは
オルテリウスの地図(1564年)を参考にしたという。
ノルウェーの北の海には鯨が描かれているが、ロシアとの貿易を始めたイギリス船団の
航海日誌にはこの海域での鯨目撃情報がたびたび記されている。

◆ジョン・ディー博士(1527-1608)はイギリスの哲学者、数学者、占星術師、そして錬金術師とも魔術師とも呼ばれたカリスマ的な人物で、ケンブリッジ大学で修士号を得た後、ルーヴェン大学に留学した時期にメルカトルやフリシウスらの地理学者と交流を結んだ。1551年にイギリスに戻って宮廷学者に迎えられ、占星術師として活躍した。1564年、モートレイクの母親の家に居を構えると、宗教改革の時期に修道院解散で四散した書物を集め、 4,000冊の蔵書を誇る私設図書館を作った。彼の家はイギリスにおける知識センターとなり、多くの人々を指導し、教育した。
ディーはゼーノの地図など古い北方探検の記録を丹念に調べて北方航路の可能性を説いた。かつてカボットその他の人々は北西航路の発見に失敗したが、それは氷海を航海する経験と技術が不足していたからである、自分は志願者に航海用数学や天文学を教えよう、と公言した。やがて野心のある北氷洋航海者たちがモートレイクを訪ねてくるようになった。マイケル・ロックのような貿易商人も出入りした。エリザベス女王の信頼が厚く宮廷で受けのよかった博士は勅許状の入手にも口利きが出来た。

こうして 1576年の春、マーチン・フロビッシャーが北西航路に向けて乗り出すこととなった。後にフロビッシャーの妻が女王に訴えたところによると、マイケル・ロックがフロビッシャーをディー博士の家に連れていって以来、夫は北西航路のことしか考えなくなった、という。
(wiki には、かつて海賊として鳴らしたフロビッシャーはもともとハンフリー・ギルバート(1537?-1583)の説く北西航路への夢を抱いており、自らモスクワ会社と交渉して株主ロックの資金援助を得た、とある。
ギルバートは 1565年にはもう北東航路に対する北西航路の優位を政府に進言していた。当時、彼が書いた「カタイへの新航路発見について」(1566)は 1576年に出版されるが、それに載った地図では、長く高緯度を進まねばならない北東航路に対して、北西航路はグリーンランドとラブラドルの間を抜けると温帯緯度を通る海が開けて、カタイへの出口海峡に続いているのであった。(補記1))

(「北西航路と北西鉱石」に続く)

補記1:1553年に北東航路探索が試みられた頃は、北東航路も途中からは温帯緯度の海を抜けてカタイに至れると主張されていた。スカンジナビア北端のノールカップ岬を東進して、北緯80度にプトレマイオスが定めたタビン岬まで行けば、そこからユーラシア大陸の岸辺は南東へ下って温帯水域に入る(アラブの地理学者アブルフェダの説)。そして「アニアン海峡」を抜けてカタイに至る、と。
なお、「北極圏の夏はいつも昼の明るさの中を航海できるので安全である」とか、「北極圏は寒くて人は住めないといわれるが、かつて北回帰線より南の海は暑すぎて人は住めないし、赤道付近では海が沸騰しているといわれていたが、実際にそんなことはなかった。北極圏も人が住めるはずである」、あるいは「極近くは太陽が低いが日照時間が長いので暖かい」などといった理屈も述べられていた。

補記2:カボートが亡くなると北東航路探索は 1580年にカラ海探検が行われるまで中断されたが、その間にモスクワから内陸ルートでカタイに至る道が探検された。1577年になるとオランダも白海経由のロシア貿易に着手したため、モスクワ会社の独占が破れた。そのためモスクワ会社にしても北西航路の探索や捕鯨、北米への植民などの新事業に目を向けざるをえなくなった。氷に閉ざされたカラ海はその後も長くヨーロッパ船の航行を阻み続けた。

補記3:この話は(ジョン・ディー経由で)後にハックルートがまとめた航海資料の中に、リンのニコラスの事績として扱われている。リンのニコラスはカルメル会修道士でオクスフォードに住んでいた。ハックルートによると、1360年頃、ニコラスはノルウェーから船を出して、北方の海を旅した。冬には凍ってしまう陸地に身の丈120センチに足りない住民が住んでいた。浜辺には昔の船の木材や崩れかけた古い農家などがあった、という。かつてのグリーンランド南部のノース人植民地跡のひとつでエスキモー(イニュイ)に逢ったのではないかとみられる。
航海から戻ったニコラスは北極地方の地図を描いたが、その様子は極点の黒い磁石岩と周囲の渦巻き、海峡で区切られた山並みが囲む内海といった上述の地図と同じである。
チョーサーの「アストロラーベ論」(1393年)はニコラスからの情報に多くを負っているらしいが、しかし実際に彼は極地を航海したわけではないようである。

補記4大航海時代以前はイタリアの諸都市が地中海交易の覇者として繁栄を恣ままにした。1453年のコンスタンチノープル陥落以降、ジェノヴァの商業は衰退したが、ヴェネチアは長く交易による利益を享受し続けた(cf. No.855)。
大航海時代に入って世界各地の地誌が報告されるようになると、ヴェネチアでは1550年にこれらの旅行記をまとめた全集が出版された。編纂にあたったのは政府最高機関である「十人委員会」(コンシーリオ・ディ・ディエチ/ある種の情報収集機関)の書記官ジョバンニ・バチスタ・ラムージオで、全6巻の大冊はイスラム圏、ロシア、インド、カタイ、アフリカ、アメリカ両大陸を網羅して、公正で緻密な情報を提供するものとなった。
その1巻にはフランシスコ・ザビエルらイエズス会宣教師がもたらした、日本からの五通の手紙が含まれている。6巻にはコルテスのメキシコ征服やピサロのペルー征服の報告がある。
カボート父子の大西洋航海記、ニッコロとアントニオ・ゼーノ(ゼン)のグリーンランド発見記は4巻に収められている。ジョン・ディーはこうした旅行記を読んでいたと思しい。
14世紀のニッコロ・ゼーノは実在の人物で、定期商船団の指揮官を務め、1385年にはフランドル航路を往復した記録が残っている。その後、モドーネ・コローネの総督時代に恐喝罪に問われて公職を離れることになった。そして西方航路の探検に出たらしい。発見記に記されたラブラドル半島のエスキモー住居やカヤックの描写は正確で、実体験の裏付けがあると信じられている。熱泉を利用して暖をとったり料理をしたりするキリスト教の僧院のある土地はグリーンランドだとみられる。
16世紀のヴェネチアは欧州出版文化の元締め的な存在だった。

ギルバートの世界地図 1576年に出版されてフロビッシャーの探検への世間の期待を盛り上げた。

 

1482年にヨーロッパで印刷されたプトレマイオスの地図。
彼の「地理学」は1409年にラテン語訳が作られた。
長らくアラブ人の手で保管されていた古代の知恵が、
15世紀には印刷術の発明とともにヨーロッパ人にも開かれた。

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