ひま話 カレン・ブリクセン博物館 (2022.11.12)


カレン・ブリクセンは私がこよなく愛でるようになった作品を書かれた作家さんである。本というものは読んでみるまで内容を知らない、あるいは真価に気づいていないのが普通だから、それが運命的と思えるような出会いであるかどうかも、書店で見つけた時にはまだ分からないのが普通である。それでもなんだかびびっときて手にとって、読んでみて「おおおお!」と思うことが、ごく稀には起こるものだ。

それは 1992年か93年頃のことで、とある地方都市の駅前の、ちょっと趣味的な品揃えで知られた本屋さんで、「七つのゴシック物語」と副題された二冊の本が並んでいるのを見つけて、ふいと手にとったのだ。高価なハードカバーの本を買うのは私には随分珍しいことなのだが、ごくごく稀にそういうことが起こる。
そしてすっかり夢中になってしまったのだな。著者はアイザック・ディネーセンといい、ディネーセン・コレクションとして出版された4巻のうちの2冊だった。その1冊のタイトルは「夢みる人びと」で、当時私は坂田靖子「バジル氏」の「夢見る頃をすぎても」という作品がいたく気に入っていたし、私自身いつまでも夢みがちだったこともあってか(まあ今でもそうだが)、財布の紐がぷいと緩んでしまったのだと思う。
題名の中編、「夢みる人びと」のファム・ファタルな魅力にノックアウトされて、しばらくしてあとの2冊も手に入れた。その一冊が長編「アフリカの日々」(原題 OUT OF AFRICA)で、メリル・ストリープとロバート・レッドフォードが主演した 85年の映画「愛と哀しみの果て」の原作だった。言うまでもないけれど、とてつもない傑作である。後になって気づけば、サリンジャー「ライ麦畑」(1951年)の少年が、図書館で借りて読んでいたイサク・ディーニセンの「アフリカ便り」もこの本だった。映画とは大分別モノだ。

ついでに言えば、2010年に村上春樹「1Q84」の主人公が、猫の町の病院で「たまたま読んでいる本」が「アフリカの日々」で、看護婦さんに朗読をしてみせている。村上は「それはゆっくりと読まれなくてはならない種類の文章だった。アフリカの大地を流れる時間のように。」と連想的なコメントをしている。
絡めて言えば、ウィトゲンシュタインは、「文章は、正しいテンポで読むときにだけ、理解することができる。そういう場合がときおりある。わたしの文章は、すべて、ゆっくりと読まれるべきだ。」と書いている(その理由で彼は自分の書く文章に句読点をたくさん入れた)。私は、「アフリカの日々」は一つのテンポを守って、歌うように読むのがよいと思う。精神が洗われる。
この本の一節をギャラリーに引いたことがある。(cf. No.315)  また、「夢みる人びと」の冒初の短編「エルシノーアの一夜」も引いたことがある。(cf. No.281、 No.678
なんというか、物語を紡ぐ彼女の言葉の端々は、私の血の中でワインのように作用するのである。

「夢みる人びと」(※邦訳初版 1981年)の見開きは、著者について次のように紹介している。
「20世紀文学最大の物語作者の一人として、わが国でもその本格的紹介が長く待ち望まれていた幻の女性作家。北欧デンマークの名家ディネーセン家に生まれ、スウェーデンの貴族と結婚、「ブリクセン男爵夫人」として知られる。1914年アフリカに渡り、18年間をケニアのコーヒー農場の女主人として生きた。自らの死と転生を秘めたこのアフリカ体験は、畢生の大作『アフリカの日々』の中に見事に昇華されている。」

また 87年の映画「バベットの晩餐会」の原作者も彼女であることを知った。この映画はどこかでロードショーを見ているが(※日本では1989年上映)、その時分は原作を意識していなかったのだろうと思う。本作品のちくま文庫本の見開きには、こうある。
「1885年デンマークのルングステッズに生まれる。東アフリカでのコーヒー農園経営に失敗した後、帰国し、48歳から創作活動を始める。ほとんどの作品を英語とデンマーク語で書き、英語版はイサク・ディーネセンという男性名で、デンマーク語版はカレン・ブリクセンの名で発表した特異な作家。主著に『アフリカの日々』『七つのゴシック物語』。1962年没。」
そして私は、イサク・ディーネセンやカーレン・ブリクセン名で出たものを含めて、彼女のほとんどすべての邦訳本を入手して蔵書に貯えているのだ。彼女が自著を朗読した音源も持っている。優曇華の花が咲くほどに稀なことではないか。

この文庫本巻末の、訳者「あとがき」(1989年)を引くと、「デンマークの首都コペンハーゲンから、エーア海峡の向こうにスウェーデンを望みながら海岸沿いの国道を北上すると、ハムレットで有名なクロンボー城のあるヘルシンゲアに行き着くのだが、両市のほぼ中間にルングステッズという町があり、そこに国道に面してルングステッズルンと呼ばれる広大な地所がある。カレン・クリステンツェ・ディーネセンはその地所のぶなの林を背にした館に生まれ、1914年から 31年までの十七年間、東アフリカの英領植民地、現在のケニアで過ごした時期をのぞいて、生涯のほとんどをそこで過ごした。」
また訳者「文庫版に寄せて」(1992年)には、「昨年(1991年)の五月からルングステッズルンの彼女の生家が「カレン・ブリクセン博物館」となって一般に公開されているという。むろん映画「バベットの晩餐会」とその前に評判になったアメリカ映画「愛と悲しみ(ママ)の果て」のしからしめるところであったのはいうまでもない。つい先日読んだデンマークの新聞の記事によると、一年間に三万五千人の入場者を見込んだ開館だったそうだが、その予想をはるかに上回り、この半年ですでに七万五千人の人々がカレン・ブリクセン博物館を訪れているという。」とある。

その博物館に行ってきた。機会があろうとは夢にも思わなかったが、人生にはごくごくごく稀にそういうことが起こるのらしい。

コペンハーゲン駅から各停電車に乗って、約30分でルングステッズに着く。駅から15-20分ほど歩くと海峡前の道路に出る。

海峡の向こうはスウェーデン。道を挟んで陸側に博物館がある。

カレン・ブリクセン博物館。彼女が生まれ育ち、アフリカから帰った後、晩年まで作家活動を続けた屋敷である。

ディーネセン家は代々、高位の軍人として活躍し、田舎に大きな地所を持つ荘園地主だった。カレンが10歳のとき父が亡くなり、子供たちは家庭教師、母、祖母、伯母の教育を受けて育った。カレンはごく短期間、美術系の学校に行ったが結婚するまでほとんど屋敷にいて、自らを囚われの鳥とみて束縛を感じ、自由の翼を夢みていたらしい。

カレンは「鳥の眼をしたひと」とよく言われたらしい。鳥といってもその気質は臆病な小鳥でなく、むしろ猛禽という。またいとこのスウェーデン貴族と結婚して、アフリカに土地を買って、コーヒー農園の経営に乗り出す。資本はほぼディーネセン家方から出た。ただその土地は高原にあって、冷涼のためコーヒー栽培に向いていなかった。

夫と離婚した後、女領主として長く苦労したが、とうとう土地を手放し、故国の生家に身を寄せる憂き目をみた。居候の窮屈さを味わいつつ、弟に励まされて物語の執筆を始め、出版社を求めてイギリスまで足を運んだ。(作品は英語で書いたのだ)
やがて弟の知人を経てアメリカに引受け手が見つかり、1934年に「七つのゴシック物語」が出版されて大反響を呼んだ。(デンマーク語版は 1935年に出た。)

上は作家デビューの祝賀会の写真。 1935年、カレン 50歳。左は79歳の母。「アフリカの日々」は 1937年に出た。

米コロナ社のタイプライター。三段キーのポータブルタイプ。

「緑の間」。冬の書斎というか暖をとっていた部屋。左手に大きなストーブがある。窓の外は庭が広がって、奥はぶな林になっている。カレンは室内に花を絶やさなかったそうだ。

キッチン

食堂

広い居間。地主生活の豊かさがよく分かる感じがする。

イーヴァルの部屋。この海に面した部屋で、海峡を通る船を眺めながら執筆したらしい。弟のトーマスは農園時代に何度か姉を訪れて経営を手伝った。その時に集めた思い出の品々が飾られている。

客間、かな?

二階にある広い寝室。左手の衣装箪笥の手前に化粧台もある。窓からは美しい庭の眺めが。

カレンは 18歳のとき母たちの反対を押し切ってコペンハーゲンの王立美術学校に入学した。25歳のときにはパリの私立の画学校に籍をおいた。絵を描くことは終生の趣味になったらしい。

アフリカ時代の使用人を描いた絵がいくつかある。上は少年アブドゥラヒ・アハメド。
キクユの女性を描いた絵は、邦訳「草原に落ちる影」の表紙になっている。

二階部。当時のままかどうかよく分からないが、アトリエに使って絵を描いたのだろうか。

左は老年のカレン。より鳥らしい雰囲気に。
右の男性は農園時代の使用人だったカマンテ・ガトゥラ。子供の時にやってきてコックになった。カレンを慕って、後に Longing for darkness (闇への憧れ)という本を書いた。農園時代の生活を絵や手紙や写真とともに語る。邦訳はないので原書を持っている(←私の勘違い。1993年に邦訳本が出ていたらしい。ただ私がこういう本=「もう一つの『アフリカの日々』」があると知ったのはそれより随分に後になってから)。

なお、カレンは「アフリカの日々」では写真を入れることを拒み通したという。

庭側(海と反対側)に出たところ。屋敷の一階の一部とテラスがレストランになっていて、大勢の人たちが優雅に食事を楽しんでいた。

庭の奥(林の中)から眺めた屋敷。
1500年頃からここには旅籠があり、その後農園になった。現在の建屋は 1800年代初に遡り、1879年にカレンの父が買い取った。晩年のカレンは、死後も地所が残るように基金を設置した。地所は野鳥保護区となっている。

保護林を奥に歩いていく
樹木は樹齢 250-300年のブナが群生する。

牛がいたり、花畑があったり

奥の大きな樹の傍に、カレンの墓碑がある。

見事な枝ぶりの樹だ

もっと奥(駅に近づく)にいくと馬が草をはんでいた。

カレンはデンマークでは、アンデルセンと並ぶ国民的作家として著名で、50クローネ紙幣に彼女の肖像が使われていた(2009年まで)。彼女の名はデンマーク語ではカーアンに近い発音になる。博物館(または記念館)もカーアン・ブリクセン博物館と紹介されることがあるので付言しておく。


このページ 終わり [ホームへ]