678.アラナイト Allanite (ノルウェイ産) |
No.676の続き。
1806年にギーゼッケが採集したグリーンランド産の標本を乗せた船フリューリン号は、翌年デンマークへの航海中にイギリスの駆逐艦に拿捕され、エジンバラに曳航された(フリューリン号をフランスの私掠船が襲い、これをさらにイギリス船が襲ったともいうが、いずれにせよ当時イギリスとデンマークは敵対していた)。当時ヨーロッパ各国の骨ある男たちは運を天に任せる海賊まがいの掠奪行為によって愛国心を発揚したもので、実際イギリスやフランスはスペインやポルトガルの商船を襲って大変な財産を国家にもたらした。敵味方の区別はころころと入れ替わった。イギリスがデンマークの商船を襲えば、デンマークはイギリスの商船を襲った。
ディネーセンの「エルシノーアの一夜」(横山貞子訳)にその有り様を少し引いてみる。
「時あたかもナポレオンの侵略戦争下で、全ヨーロッパは土台からゆすぶられていた。デンマークは英仏間の対立抗争の渦中で自由をたもとうとつとめ、独自の道を切りひらこうとしていた。そしてそのための犠牲を払わねばならなかった。コペンハーゲンは砲撃をうけて炎上した。九月のその夜、街を焼く炎は空を赤く染め、海岸地方一帯にその明るみを示した。…首都を救うためには、政府は敵艦隊に降服せねばならなかった。勝ち誇るイギリスのフリゲート船は、国民のいとおしんでやまぬデンマーク艦隊の軍艦を、一連の真珠のように、とらわれの白鳥さながらに、スンド海峡を抜けて連れ去った。艦隊を失った各港の嘆きの声は空にひびき、人びとの心は恥辱と憎しみに満ちた。」
「くすぶる焼け跡から飛び散った火の粉のように、ゲリラによる掠奪船の群れが現れたのは、翌1807年から1808年にかけての激動期のさなかのことだった。愛国心と復讐の念に燃え、おまけに欲得ずくもからんで、掠奪船はデンマークのありとあらゆる海岸や島々の港から出現した。乗り組むのは紳士、運輸船の船員、漁師、理想主義者、冒険家 −すべて侠気に富む海の男たちである。餌食になった商船の船員たちに、やおら敵国商船拿捕免許状を取りだして示すとき、個人的動機と、戦いの痛手に悩む祖国に奉仕することとが一体化できる。機会に恵まれ次第、敵に一撃を加える権限を与えられ、その戦闘に勝てば、一財産つくって帰ってこられるのだ。」
そういう時代なのであった。
話は戻って、掠奪されたギーゼッケのコレクションは1808年にレイス(エジンバラの近く)で競売に付された。
もちろんどれほどの価値があるものやら、売り主にはまったく判断のつかないことであった。鉱物学者のロバート・ジェームソンがコレクションを査定したが、(その時点では)来歴が不明だったため、標本としての価値はないとした。しかしコレクションに注目した人物もあった。銀行家トーマス・アラン(1777-1833)はその一人で、彼は鉱物学者でもあったのだが、コレクション中の白い標本は珍しい氷晶石であろうと考えた。彼はそのロットに
5000ポンドの値打ちがあると値踏みしたが、わずか40ポンドで競り落とすことが出来た。もちろん氷晶石が入っていた。同じくニニアン・イムリエという人物(軍人で当時中佐)も別のロットを買った。
これらの標本群は後にアール・グレイ卿の所蔵を経て、最終的にスコットランドのネールン博物館に収まり、何年か放置された後で研究され整理されたが、その中に高品質の氷晶石やアルベゾン閃石、ユージアル石などが認められる。ギーゼッケはグリーンランド上陸後まもない1806年9月にアルスク・フィヨルドの南岸を訪れ、氷晶石の鉱床を発見したとみられるのだが、コレクションはその証拠と言えそうである。
彼はまたフィスケナアセット村の湾部でサフィリンやコーネルピンを含む岩石を初めて調査したし(後にサフィリンは新鉱物と分かった-1819年記載)、アメラリク・フィヨルドにある有名なトルマリン産地クアルスリクを初めて訪れたのも彼だったという。
イリマウスアークで採集した標本からは、やがて方ソーダ石(1812年記載)、アルベゾン閃石(1823年記載)が記載される。
この2種の新鉱物はいずれもアランの買ったロット中の標本を研究した成果で、前者はトーマス・トムソン博士(1773-1852)が、後者はH.S.ブルック博士(1771-1857)が記載した。
トムソン博士はまたアランがガドリン石とした標本(1809年)を分析して新鉱物であることを認め、Allanite
(褐れん石)の名で記載した(1812年記載)。(楽しい図鑑は
1808年にアランが本鉱の論文を発表したと述べている。
Dana 8th は1810年記載としている。)
1812年、モルテン・ウォルムショルドという人物がエジンバラに抑留された。詳細は知らないが、その時モルテンは、アランらが買い取ったコレクションは標本商ギーゼッケが採集したものであり、グリーンランドから来たものだと明らかにしたという。そんな訳でギーゼッケが再びヨーロッパに戻った
1813年の夏、彼のコレクションの価値と功績はすでに(少なくともアランらには)認められていたのだった。
イギリスに上陸した彼がボロをまとっていたことは
No.676に述べたが、実際ギーゼッケは資産も収入のあても失くしていた。しかしアランが手を差し伸べ、エジンバラの自分の家に滞在するよう招いた。そして2、3週間後には伝手を辿ってロイヤルダブリン教会で準備されている鉱物学の教授職に志願出来るよう手配した。ギーゼッケはその年の内に教授に任命された。最初の講義はもちろんグリーンランドの博物誌についてだった。こうして彼はダブリンに居を構えて落ち着いた。
彼は旅の間に作成した調査記録を整理して発表し始めた。1814年にデンマーク王からナイト爵を受けた。彼には語学の才能があり、教授に任命された時には英語がまったく話せなかったのだが、すぐに使いこなせるようになって、やがて英語で論文を発表するようになる。
1817年、ギーゼッケは長期休暇を申請して旅に出た。最初にコペンハーゲンを訪れて標本商売の再起を図った。それから生地のアウグスブルクへ向かい、ドイツ各地を回った。最後にウィーンに戻って役者時代の友人たちと旧交を暖めた。彼は訪れた各地で大量の標本を寄付したり販売したりしたが、ウィーンでは(鉱物に限らず)大量の博物学標本をオーストリア皇帝に寄付した。その価値はおよそ6000-7000ギルダーと見積もられ、皇帝は彼に金貨1000デュカットと、宝石をちりばめて皇帝のイニシャルを綴った金の箱を贈った。
ギーゼッケは1819年の晩夏ダブリンに戻って復職した。それからは鉱物調査のためアイルランドの田舎を旅行した以外ダブリンにとどまり、72歳まで教授職を務めた。
1833年3月5日、彼は健康を害していたが、鉱物関係の友人たちとの会合に出た後、皆でワインを囲んで石談に耽った。その最中に突然イスからくずおれて身罷った。
彼は終生結婚せず、相続者をもたなかったが、多くの友人に恵まれたという。彼のコレクションは今日、ヨーロッパのいくつかの博物館に収蔵されており、オーストリア皇帝に寄贈されたコレクションの一部はベルリン民族博物館とコペンハーゲンの博物館とに入っている。
ギーゼッケはグリーンランド島探検のパイオニアの一人で、島のいくつかの地名や植物名にその名を残しているが、鉱物分野では、イガリコ・フィヨルドで採集された標本に
gieseckite ギーゼッケ石があることをサワビーが述べている(1817年)。これは
1813年にアランがギーゼッケに献名した鉱物ということで、上述のようにアランはギーゼッケのコレクションを入手したことから
Allanite
に名を残す栄誉に浴したのだったが、後になってコレクションの由来を知り、元の持ち主に報いたものとみられる(委細は不明だが)。
このgieseckite
はかすみ石の一種で、六角柱状の結晶(仮晶?)、半透明暗緑色で脂状光沢を示すイーレオライト(Eleolite)と目されている。モースの「鉱物界」はギーゼッケ石を載せているが、今日では種名として扱われない。鉱物和名辞典(1959)には、ギーセック石の項があり、ピニ石の一種で霞石の仮晶をなす、とある。
(最近 Carlgieseckeite-(Nd)
カール・ギーゼッケ石という鉱物が提唱されたという。
2010年 IMA承認。原産地イリマウサアクのクヴァネフィヨルド。)
画像の標本は アラナイト(Allanite)。緑れん石の仲間なので、和名はふつう「褐れん石」と呼ばれる。希土類元素のセリウムを10-20%程度含む種で、黒〜褐色不透明の柱状結晶をなす。セリウムを含む緑れん石(エピドート)類似石の意で、
Cerepidote ( Cerium+ epidote) とも呼ばれた。
弱い放射能を持つため、非晶質化していることが多い。この標本も黒褐色の結晶周囲の母岩が茶色く変色しており、放射線による影響が効いているように見受けられる。
あいにくグリーンランド産を持たないのでノルウェイ産で紹介。本鉱が風化して赤褐色になったものは、ゴム石の一種となる。石川県長手産の長手石は燐を含む亜種。
cf. トーマス・トムソン博士は 1820年ブルックが記載した thomsonite トムソン沸石 に、ブルック博士は 1825年記載のBrookite 板チタン石に名を残している。
cf2. ギーゼッケと同時代人だったゲーテは彼から標本を入手したことがあるらしく、「リッター・フォン・ギーゼッケ氏のおかげで私は、イギリスの錫洗鉱からの有効な追加標本のほか、マラヤ錫も入手することができた。」と書いている(「地質学、とくにボヘミヤの地質学のために」 1820 木村直司訳)
補記:コペンハーゲン炎上の経緯については、ヘーベル著「暦物語」中の一篇「コペンハーゲンの砲撃」(Die
Beschiessung von Kopenhagen: 1809)に言及がある。
「…イギリス人は、ロシアとプロイセンが自国から離れ敵国と和約を結んだこと、そしてフランス軍がバルト海沿岸のすべての港や要塞の覇権を握り、さらにデンマークへ進攻するようなことにでもなれば、事態が悪化しかねないとみてとるや、一片の通告もせず、艦隊を発進させたが、その行方はようとしてわからなかった。艦隊はしかしデンマーク沿岸に、すなわち王国の首都コペンハーゲンの前に碇泊した。」
「われらは互いにきわめて親密な友人である。このよしみで、あなた方の艦隊および要塞を平和になるまで、敵の手に落ちないよう進んでわれらに貸与願いたい。快諾なきときは、誠に遺憾ながら、われらはあなた方の頭上から町を砲撃し破壊するほかないであろう」(有内嘉宏訳)
ヘーベルはイギリスのふるまい方は、まるで誰かと裁判沙汰を起こしたどこかの市民か農民が、夜中に下男をひきつれて隣人のベッドに押しかけて、私はあんたの名親と裁判中なので、名親が使えないように片がつくまで馬を預からせてもらう。いやならあんたの家に火を放つよ、と言うようなものだ、と述べている。
要求を拒んだコペンハーゲンは9月2日の夕方7時から12時間、間断ない砲火にさらされた。明け方に砲火がやんで降伏の意志が問われた。司令官が拒むと午後4時に砲撃が再開され、翌日の正午まで続いた。その夜も同様だった。すでに300戸をこえる家屋が灰燼に帰し、800名以上の市民が死亡していた。司令官は9月7日に降伏した。イギリス軍は真っ先に艦隊を拿捕し、戦艦18隻、フリゲート艦15隻、小型艦数隻、その上かつてイギリス国王からデンマーク国王に贈られたフリゲート艦1隻までも曳航していった。コペンハーゲンに駐留した兵士たちは悪魔のように暴れた。
「デンマークはフランス人と同盟を結んだ。ナポレオン皇帝はイギリス軍が船を返還しコペンハーゲンに賠償金を支払うまで和睦に応じようとしなかった」