ひま話  (2001.1.28)


薔薇の名前。紅水晶のこと。

紅水晶は、英語圏ではローズ・クオーツと呼ばれている。淡いピンクの薔薇の色をした、やさしく控えめな雰囲気の水晶だ。日本語の「紅」は、紅鉛鉱とか紅玉(ルビー、リンゴ)とか紅蓮の炎とか紅葉とか紅の豚とか、鮮やかで強い赤色を指すのが普通なので、紅水晶の場合、語感と実物から受ける感じとの間には、かなり隔たりがある。名前から先に入った人は、きっと、真っ赤な水晶−合成ものにそういう色がある−を想像するのではないだろうか。ひょっとすると先人は、ローズ・クオーツは真紅の薔薇のような色の水晶だと信じて、この名前を選んだのかもしれない。

とはいえ、私は、むしろこの可憐な水晶に、よくぞ紅という言葉を冠してくれたと賞賛したい気持ちだ。実物を知ってから、この言葉を味わうと、水蜜桃のような柔らかい唇に薄くそっと紅を引く、そんな風情が漂っている気がするし、瑞々しい頬にほんのり朱みが差す様子も浮かんでくる気がする。無色透明の水晶は、硬くて鋭くて氷のように冷たいイメージだが、紅水晶は、暖かく柔らかい女性的な質感がある。紅水晶の若やいだ雰囲気が、女性の化粧紅とどこかで繋がって、この言葉に結実しているように思う。

紅水晶(結晶) ブラジル、ミナスゼラエス産紅水晶は、普通は塊状になって産出し、どういうわけだか、結晶したものは少ない。それでも、水晶の基本である六方晶系の結晶構造は、しっかりと守っている。その証拠に、微小なルチル(酸化チタン)を含んだ紅水晶を球形に磨くと、*印に似た六方へ放射する光条を放つことがしばしばある。このような光の魔術をスター効果と呼び、ほかの色の水晶でも現れるが、紅水晶には比較的多い現象だ。そのため紅水晶のピンク色は、含有物のチタンに起因すると考えられている。(補記1)

紅水晶の結晶は、たいていブラジルのペグマタイトから見つかっている。産状はさまざまで、雲母や電気石や曹長石と共に産出することもあれば、各種の燐酸塩鉱物を伴うこともある。雲母と煙水晶以外の鉱物がまったく共存しない場合もある。煙水晶が晶出した後から、表面を取り巻くように紅水晶の結晶が生まれているものは、ローズクオーツ・クラウンと呼ばれて、たいそう美しい。しかし、概して結晶面が整わない。みんな一緒に群れているのが好きみたいで、独立峰として結晶するのは嫌いなよう

最近(だと思うが)、我等が石博士の堀秀道氏は、紅水晶の色と成因について興味深い説を発表している。直接お話を伺ったわけではないのだが、氏がその考えを持つようになったのは、ロシアで宝飾用の紅水晶が合成されるようになったことと関係がある。前述のように、紅水晶の発色にはチタンが関与していると見られるが、これは塊状になった普通の水晶(専門家は紅石英という)の場合だ。一方結晶した紅水晶では、燐が発色に寄与しているとの説があった。あけぼの石などの燐酸塩鉱物と一緒に産出するケースが知られているからだ。そこで、燐を加えて水晶を合成してみたところ、きれいなピンク色の結晶が出来たのだという。
堀博士は、この知見を得て、塊状の紅水晶(紅石英)と、結晶した紅水晶では、発色原因が違うのではないかと考えられている。その含有物の違いが、結晶した紅水晶が少ないこととも繋がっているようだと見ている。
そして、塊状の紅水晶は、従来通りローズ・クオーツと呼び、結晶したものはピンク・クオーツと呼んで区別してはどうかと提案している。

堀博士は、今年の2月10日、ツーソン・ショーに併せて開催されるシンポジウムで、この件に関する講演をされるらしい。私がこのことを知ったのは、鉱物専門誌に載った摘要からだ。氏の提案が支持されれば、以後、日本でも新しい呼び名が創案されることになるかもしれない。
もっとも、すでに日本では、結晶は紅水晶、塊は紅石英という区別があるのだが、これは別の概念、つまり、結晶面(自形)を持っているかいないかについての分類にすぎないから、もし、発色要因によって区別するとすれば、別にふさわしい名前がほしいところだ。それに一般の市場では、紅石英と呼ぶべき(?)ものでも、紅水晶の名前で通っている。石英と水晶では言葉の響きが全然違うし、一般の人には石英では分からないからだろう。そこで、私の希望を言うならば、紅水晶という言葉はとても美しいので、どちらに振り分けるというのでなく、総称として残してくれたらいいなと思う。そんでもって、チタンのピンクは薔薇水晶、燐酸のピンクは桃水晶と区別するのである。どう?
やっぱり、塊は水晶じゃないから却下?
(アップ直後の訂正で申し訳ないですが、講演はキャンセルになったそうです。)
(後日談:安東伊三次郎著「鉱物界之現象」によれば、明治時代には紅石英のことを、薔薇水晶とも呼んでいたらしい。)


とりとめのない話になるが、私は、モノに名前をつけるのはとても神聖な行為だという気がしている。
ギャラリーNo.48のカテドラル水晶のページで、そのあたりの消息を書きかけたが、あまりうまくまとめることが出来なかった。今のところ、私は命名に対して漠然とした感触を持っているだけで、はっきりと意識に載せた明快な言葉を紡ぐまでに至っていないのだ。しかし、名前について考えさせられる材料はいくらもあるから、ここに2、3の例をあげてみよう。その含むところを一緒に考えていただけると、うれしい。

最初に、ある美人画にまつわる不思議な出来事について。このお話は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、「光は東方より」(講談社学術文庫)の中で紹介している。
京都に篤敬という一人の若い学者がいて、ある日、古道具屋の店先に、古い衝立が出ているのを見つけた。表の紙貼りに一人の娘の全身像が描かれているのが気にいって、値段も安かったので買って帰った。そして、毎日その衝立の中の娘を眺めているうちに、これほど美しい人は、この世にまたとあるまいと思うようになった。恋に昇ったのである。「こんなひとを束の間でも抱くことが出来たら、命はいらぬ」と思うほどの焦がれようで、そうなると、叶わぬ想いに胸塞がり、腹熱し心忙しく奔波して道を訪うも、とうとう自分でもまもなく死んでしまうだろうと思うほどの重い病に臥せった。
ある年輩の学者が心配して、訪ねてきた。彼は、古い絵のことにも、人間の心情にも明るかったので、若者の病状と衝立をみて、おおよそを察した。若者は、信頼する友人にすべてを打ち明け、「この絵のような娘を見つけられなければ、自分は死ぬでしょう。」といった。
すると、年輩の学者は、「この絵は、名匠菱川吉兵衛が、人物を写生して描いたもので、描かれた娘はもうこの世にいません。けれど吉兵衛は、娘の姿だけでなく心も写しとったので、娘の魂はこの絵の中に生きているといわれています。だから、娘さんを勝ち得ることができると思います。」と言った。

篤敬は驚いて、起き上がった。学者は続けた。
「まず、娘さんに名前をつけてあげなくてはいけません。そして、絵の前に座って、娘さんのことに心を集中し、毎日、優しく名前を呼んであげなさい。娘さんが返事をするまでね。」
「返事をするですって?」
「そう。そして、返事があったら、すぐにお酒を勧めてあげなさい。すると、娘さんは、盃を受けるために衝立から抜け出てきます。そのあとのことは、多分、娘自身が指示してくれるでしょう。」

そして、篤敬はその通りに行った。娘は衝立から出てきた。
後の次第は、ハーンの著書であたって戴くことにして、ここでは、絵の中の娘に名前をつけることが、娘の魂が実体を持つことと何らかの因果関係にあったことを指摘したい。
ただ、それが何を意味するのか、私にはわからないけれども。

次は、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」(徳間書店)に登場する巨神兵の話(第7巻中のエピソード)。
巨神兵は、古代人が作った生物とメカのハイブリッドで、かつて火の七日間に世界を焼き尽くしたと伝えられていた。その生き残りが卵から孵ったとき、彼はナウシカを自分の母として受け入れた。彼の知能は、生まれたての赤ん坊と同じか、せいぜい幼児程度だった。けれども、立派な人になると約束し、ナウシカからオーマという名前をもらったとき、彼の知能は一瞬にして成熟した。そして、制御の利かない生物兵器から、人格を持った調停者にして戦士に変貌したのだった。オーマは、なぜ命名されることによって、成長したのだろう?

それから、アーシュラ・クローバー・ルグインの「ゲド戦記」(岩波書店)も、読まれた方が多いと思うので挙げておく。これは、多島海を舞台にした魔法使いの物語で、森羅万象に備わった「まことの名」を知ることが、魔法の力の源泉として想定されている。またすべての人間に、まことの名があり、その名前を知るものは、相手への支配力を持つことになると考えられている。主人公のゲドは、長い間鳥に変身していて、もとの自分に戻れなくなったが、恩師に名前を呼ばれることによって救われた。最強の敵の名前を発見することで、魔法使いとして成熟した。新しい名前の代償として幼少時の記憶を剥奪された少女に、古い名前を返し、自らの人生に踏み出す手助けをした。龍の名を支配して、竜王となり空を翔けた。てはぬー。
ナウシカやゲド戦記は作り話だけれど、その中で語られる名前についての知識は、現実の世界の人間たちのものだ。あしべゆうほの「クリスタル・ドラゴン」は、北欧神話を土台に据えているが、ここでも、人々は、まことの名を持ち、その名に呪術的な支配力を認めている。坂田靖子の洗練されたキャラクターである、優雅な生活を送るバジル氏は、「名前を知られると、魔力を失う悪魔の話がありましたね…。僕の名はバジル・ウォーレンというのです…」と知り合った女性に正体を明かす。西洋メルヒェンの「ランペル・スティルツキン」や「トムチット・トト」、日本昔話の「大工のおにろく」は、悪魔や鬼が課した取引条件を解消する手段として、期限内にその名前を当てよ、という課題が提出される。
ここに挙げた、まことの名を知るという概念、命名することにより対象を支配する力を得るという概念は、根拠のない遺風だろうか。私は違うと思う。名前を知る、あるいは命名するということには、本来大切な意義があったのだと思う(多分、今でもあるだろう)。

直接知っている例を挙げてみよう。私の昔の知り合いで、とても感じの良い方があった。その方が、生まれる2,3カ月前、占い師が両親に、「この子は、素晴らしい人気運を持っているから、○○○という名前をつけてあげなさい。そうすれば、きっと大スターになるでしょう。」と言ったそうだ。けれども、その方は別の名前で育てられた。生まれてきた赤ん坊の顔をみた両親が、「これは、ちょっと違う…」と思ったからだそうだ。それでも、その方は、本当に顔が広かったし、人望も厚かったから、私は、この話を信じている。
ここで、指摘したいのは、氏が持って生まれた能力を発揮するには、ある特定の名前が必要だった(らしい)という点である。

名前というのは、あだやおろそかにするものでない。ほかにも、幼名と元服(成人儀礼)に伴う名前、戒名、一定期間が経過するまで赤ん坊に名前をつけない風習など、いくつか事例を挙げることは出来るが、同じ考えの繰り返しになるので、このくらいにしておく。名前って、不思議でしょう? 鉱物名は、どうだと思いますか?

補記1:最近はチタンでなく、デュモルチェ石様の鉱物によるとも考えられている。cf.No.412 紅水晶

補記2:ナウシカと同じく宮崎駿の手になる「千と千尋の神隠し」では、ハクが千尋に警告する。「湯婆婆は相手の名を奪って支配するんだ。いつもは千でいて、本当の名前はしっかり隠しておくんだよ」と。そのハクは名前を奪われて(支配され)、思い出すことが出来ない。(とはいえ、湯婆婆と対をなす(二人で一人前の)銭婆は、「一度あったことは忘れないもんさ、思い出せないだけで」ともう一つの神秘を千尋に教え、ハクは名前を取り戻す。)

「正しい名だけが、すべての生きものや事がらをほんとうのものにすることができるのです。」幼ごころの君はいった。「誤った名は、すべてをほんとうでないものにしてしまいます。」 (ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」 邦訳 P238)
村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」では、人々は古い自分から新しい自分へ、あるいは単に別の存在へ変化するたびに、名前を得たり、変えたり、失ったりする。
モンゴメリの「赤毛のアン」では、アンはさまざまなものに自分の印象に沿った名前をつける。「歓喜の白路」とか「輝く湖水」とか。また木や花に名前を与える。
「あのね、あたしはたとえあおいの花でも一つ一つにハンドルがついているほうが好きなの。手がかりがあって、よけい親しい感じがするのよ。…けさは、寝部屋の窓の外にある桜の木にも名前をつけたのよ。雪の女王というのにしたの。真っ白なんですもの。」(村岡花子訳)
命名こそが彼女の世界認識の方法なのであろう。これに対して、マリラは「その人が正しい行いをするかぎり、名前などどうでもかまわないことです」と教訓を垂れる。
それはともかく、アンが初めて自分の家と呼ぶことが出来た家は、やはり「グリン・ゲイブルス」(緑色の切妻屋根)でなければならない気がする。


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