959.水晶 Quartz (ブラジル産)

 

 

 

Quartrz Brazil

水晶 対向する一つの錐面が平行に伸びてタガネ状の頭部をなすもの
−ブラジル産

 

宿命としての未来を知る、あるいは未来をより善きものに変えるための占術や予言能力は、おそらく人類の意識の拡大、時間感覚の目覚めとともに生まれ、発達してきたに違いない。
占星術の始まりは、一般に約1万年前にチグリス・ユーフラテス川流域に定住して農耕を始めたシュメール人に遡るとされる。少なくとも我々が知る占星術に関する最古の文献はシュメールのギルガメシュ叙事詩であり、ノアの大洪水を月と太陽とほかの惑星の合の結果として語っている。ギルガメシュは前 3,000年頃にウルクを支配したシュメールの実在の王といわれる。叙事詩中の彼は不死の探究者である。

この粘土文書は前 7世紀に設立されたアッシリアの王宮文庫跡から発掘された。往時、書庫には多数の占星術文献があったといい、占星術師は毎夜星を観測して王に報告したと記録される。アッシリアを滅ぼしたカルデア・バニロニア王国はこうした伝統の上に暦法と占星術(天文学)を発達させ、その知識はエジプトに伝わった。新バビロニア王国やエジプト王国は前 6世紀にペルシャ帝国によって統一された。帝国を司祭したゾロアスター教(拝火教)の僧侶(マギ)はカルデア人と積極的に接触して、彼らの文化をミトラス信仰を含む民族の教えの中に吸収した。
アレクサンダー大王の遠征後、ギリシャ人はこれら東方の文化を自らの文化に融合させてヘレニズム世界を現出させた。かくて占星術/天文学は西アジアからギリシャ、ローマ、エジプト等の地中海世界に広く用いられ、信じられるようになったのだ。

ローマ帝国の属領ユダヤの都エルサレムにヘロデ王(BC73-4)が座った時代、東方にあったゾロアスター教の3人のマギは、天体の観測によって「ユダヤ人の王」の誕生を知って、礼拝のためにエルサレムを訪れた。宮廷に召集されたユダヤの学者や祭祀長らは古い予言の言葉を引いて、ユダの地ベツレヘムに生まれるべき牧者のことであろう、と王に奏上した。そこで3人のマギはベツレヘムに赴き、東方で見た星が上に留まる家に入ってみると、果たして幼児と母マリアがあったので、二人を拝し黄金・乳香・没薬などの礼物を捧げた。そして夢のお告げに、ヘロデ王のもとに戻るなと聞いて、別の路をとって国に帰った。
幼子の父もまた夢にお告げを聞き、迫害を逃れるため家族を連れてエジプトにいった。ヘロデの死後は戻ってナザレの町に住んだ。福音書はこれらを予言の成就に関連づけている。
幼子は長じてヨハネ(※「悔い改めよ、天国は近づいた」と先触れをなした)の洗礼を受けた。ヨハネが捕えられると異邦のガリラヤに退き、そこで自ら教えを説き始め弟子をとった。人々を治療して、死者を甦らせた。後にキリスト(救い主)、神の子と呼ばれるイエス(BC4-AD30?)である。イエスの生涯にはこのように占星術やいくつもの予言が付会されているが、彼は結局ユダヤ人の王とならずに昇天した。

その後の使徒たちの活躍は、イエスをむしろ刑死によって贖いをなす定めにあった者とし、かの神は特定の民族(ユダヤ人だけ)の神であることをやめて、誰であれ信じる者のための神となることに翻意したとの信仰を広めた。こうして世界宗教としてのキリスト教が、燎原の炎となって地中海世界を焼き尽くしたが、それには長い時間が必要であったし、多くの別の人々の物語が錯綜した。
初期の弟子たちが伝道した時代、ローマではその教えは数ある傍流宗教の一つとして漸く知られる程度だったが、ネロ帝(AD37-68)は彼らを不穏をなす者とみて断罪した。しかしその後は却って教えに関心を持つ者が市民の間に増えていったようである。度重なる迫害はむしろ麦踏み、錬鉄の鍛冶のようであった。

AD312年はキリスト教にとって一つの画期となった。当時のローマ帝国は長く動乱が続いていたが、後に(293年)カエサル(副帝)の一人となった軍人コンスタンティウスを父に、卑しい身分の(旅籠で酒注ぎをしていた平民だったという)ヘレナを母に生まれたコンスタンティヌスは戦に巧みな軍人として支持を集めた。 305年に正帝の一人に上った父が翌年に急死すると、彼は継承権者として自ら正帝を僭称した。 312年の夏には正帝が4人を数えたが(本来2人)、局面はやがてコンスタンティヌスとマクセンティウスとの決戦に収束した。
戦いの前、コンスタンティヌスは空に十字架、あるいはXとPの文字の組み合わせと、「汝これにて勝利せよ」の文字を見たという。XとPはキリストのギリシャ語綴りの最初の2文字である(最初の3文字はXPI)。別の説には、前の日の夢の中でXPの組み文字が現われ、汝この印の下に勝利せん(IHSV)」という天の声をきいた。ともあれ、コンスタンティヌスは XP十字の旗印を掲げて勝利し、ローマ入城を果たして合法的に西の正帝についたのだった。以来、このモノグラムはローマ正規軍の旗ラバルムとして知られる。
彼によってキリスト教は公認され、政治的・金銭的な補助を受けるようになった。コンスタンティヌス自身もやがて教徒になる。(※母ヘレナが教徒となったのは公認後の 313年とされるが怪しい。おそらくもっと早く、コンスタンティウスに離婚された頃からで、息子にもキリスト教の影響が及んだと考えられる。)
彼は 324年に単独の皇帝となった。ボスポラス海峡の要衝ビザンティオンをコンスタンチノープルと改称して都に定めた。325年、キリスト教の司教数百人を招集してニケーア公会議を開き、多数の派に分かれて争う教団の融和を試みた。
こうしてキリスト教は地中海世界に枝葉を伸ばして大きな影を落とし、392年にはテオドシウス帝によってアタナシウス派の教義がローマ帝国の国教となった。異教禁止令が出て、他宗教の神殿の破壊が合法となった。
そうして古代地中海世界の知識を集めたアレクサンドリアの図書館は 4世紀末、キリスト教徒によって激しく破壊された。

旧約聖書のユダヤの神、後のキリスト教の神は、古代に他民族が祭祀した多くの神々と似て、戦の神であり万軍の主である。もともと神の機能は旗下の民族を導いて勝ち抜かせること、よりよい生活を与えること、生き延びさせることにあった。神は力づくで未来を引き寄せ、御国を来たらす何かなのだ。
ただしこの神は他の神を信じる者への寛容性に著しく乏しかった。かつてローマの人々が愛したミトラス教は徹底的な弾圧の対象となって滅んだし、イエスの生誕劇にゆかりのゾロアスター教のマギも魔術師(マジシャン)として排斥された。他宗教の人々が奉じる教えや知識は、ひとしなみに悪魔の教えであり悪魔の知識とみなされ攻撃されるのだった。同じキリスト教徒の間でも派閥争いが激しく、敗れたものは異端として滅ぼされていった。均質集団存続機能の負の面である。
「テラビムは戯れ言を言い、占い師は偽りを見る。夢見る者は偽りの夢を語り、むなしい慰めを与える。このゆえに民は羊のようにさまよい、牧者がないために悩む」(ゼカリヤ書 10-2)

占星術は異教から出たがゆえに、ヨーロッパのキリスト教世界では長らく抑圧と忌避の対象となった。しかしキリスト教の(聖書の)予言やお告げが神の計画であり未来の約束であるなら、他の宗教の占星術や天文学もまた、(広義の)神の計画であり理念であるに違いない、と極東の島国の理系男子は思う。

占星術や予言から水晶玉占いにお話を進めたかったが、全然行き着かないので、このページはこれで締めたい。標本の説明も、いずれ別のページでさせていただこうと思う。面目ありません。

cf. コンスタンティヌス帝以降のキリスト教教義の展開については、レジデンツ宝物庫2を参照。聖十字架の発見(ウィーン王宮宝物庫1


補記:普通、占いや予言が当たったかどうかを立証することは難しい。しかし予言というものは、あるコンステレーション(布置)の相の下に照らして、成就したとみなされるのがならいである。

補記2:空に金色をした十字架の紋様が現れたエピソードは、ここに紹介したのが一つの説で、ウォラギネの「黄金伝説」64 によると「教会史」に載っているものだそう。彼の父コンスタンティウスに現れたとの説もあって、ウォラギネはいくつかのお話を併記している。コンスタンティヌス帝がいつキリスト教の受洗の儀式を受けたかについてもいくつかの説があるが、概ね聖シルウェステルが教皇だった時期であるらしい。

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