739.クルックス鉱 Crookesite (スウェーデン産)

 

 

Berzelianite Crookesite

方解石中のクルックス鉱とベルセリウス鉱 -スウェーデン、カルマー、スクリケルム産

 

イギリスの化学者ウィリアム・クルックス卿(1832-1919)は、16歳のとき王立化学大学に入学し、1850年から54年にかけて主任教授ホフマンの助手を務めた。
クルックスは学生時代から写真術に関心を抱き、余暇にはカメラを手に撮影にいそしんでいたという(補記1)

最初の論文「セレノシアニドについて」を書いたのはその時期のことで、写真に夢中の彼をみていたホフマンが、ハルツ山地ティルケローデの硫酸工場で生じた大量のスラッジを与えて研究を勧めたのである。スラッジにはセレンが含まれており、クルックスは抽出したセレンからセレノシアニドを作って性質を調べることになった。
というのも当時、写真の現像にシアン酸(-OCN)塩や硫黄のシアン化合物であるチオシアン酸(-SCN) 塩が用いられていたが、ホフマンは硫黄と性質の似たセレンのシアニド(-SeCN)にも同様の用途が期待できるのではないかと考えたのだ。
セレンはある種の(産地の)原料から硫黄と共に大量に得られるので、回収して有効活用しようというわけだった。 

実験が終わった後もクルックスはセレンを抽出した残滓をとっておいた。化学反応から推して、(セレンだけでなく)テルルが含まれているはずと考えたからだ。
やがて彼は化学の教職に就いたが、父の遺産を相続したのでほどなく辞した。ロンドンに私設の実験室を作って、1856年以降は気の向くまま好きな化学や物理に関する研究をして暮らした。そして1861年、例の残滓の分析をはじめた。
ドイツのキルヒホッフとブンゼンとが、スペクトル分光分析によって新元素セシウムとルビジウムを発見した頃で、微量元素の存在に敏感なこの手法を使えば、残滓からテルルの黄色の輝線を識別できるだろうと思ったのだ。ところが現れたのはテルルでなく、既知のどの元素にも属さない緑色の輝線だった。
クルックスはこの新元素をタリウムと名づけて、自身が創刊し編集していたケミカルニュースの1861年3月号で報告した。若芽吹く翠色の小枝を意味するギリシャ語のタロスに因んだのだ。 

実は同じ頃、やはりスペクトル分光によってタリウムの輝線を見つけていた人物がいた。フランス、リール大学教授のラミーである。彼は友人が経営するロスの硫酸工場で生じたスライム状の物質から緑色の分光を観察して、クルックスと同じ仮説を立てた。それはベルギー産の黄鉄鉱を原料に出たもので、ラミーはスライムから新元素のセスキクロライドを抽出し、また電解法によって新しい金属として単離した。この金属が 1862年にロンドンで開かれた万国博覧会に出展されて賞をとった。
驚いて厳重抗議したクルックスも後からメダルを受けた。両者の先取論争は1863年6月にクルックスが王立協会の会員に選ばれるまで続いた。

5年後(1866年)にスウェーデンのスクリケルム産の鉱石からタリウムを成分とする最初の独立鉱物が発見されたとき、記載者のノルデンショルドは彼を記念してクルックス鉱と名づけたのであった。クルックス鉱は銅とタリウム(と銀)のセレン化物で、理想組成は Cu7TlSe4 または Cu7(Tl,Ag)Se4とされる。
画像はスクリケルム産(原産地)のもの。ベルセリウス鉱(こちらも原産地)と不可分(肉眼判別不可ともいえる)に混じっているという。

補記1:クルックス卿の写真趣味は生涯続いて、(1856年に)妻帯した後は奥方を風景写真に配して撮ったりした。当時の写真感板の感度は鈍く、奥方はポーズをとったまま、20分以上も動かないでじっとしていなければならなかった。  

補記2:1863年、ドイツのライヒ(1799-1882)と助手のリヒター(1824-1894)とは、新元素タリウムを得るべく分析していた亜鉛鉱石から生じた化合物をスペクトル分光分析にかけて未知のパターンを得た。パターンを特徴づける美しい青色(インジゴ)の輝線は新元素から発するものと考えらえ、タリウムと同様その色彩から、ラテン語のインジクム(藍)に因んでインジウムと名づけられた。

補記3:ノルデンショルド男爵は、クルックス鉱の発見に先立ち、スクリケルム産のユーカイライトとベルセリウス鉱の試料の双方からタリウムを検出したため、さらに分析を進めて、ムーサンデルがセレン化銅と考えていた試料が新鉱物であることを発見したのだった。

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