446.ぶどう石2 Prehnite (インド産) |
小さい子供は石や動物や虫に対する自然な興味を持っている、という見方は、日本人には受け入れやすいように思う。我が身に覚えのあるものにとってはなおさらのこと。
それが生来の性質なのか、それとも環境的なものなのかは措くとして、自然への最初の興味は、早晩功利的な、あるいは文化的な関心に変化してしまいがちである。長ずるにつれその傾向に拍車がかかり、たいていの人は関心を抱く領域自体をもっと社会生活に即した事象へと移してゆく。それが精神の成長であるかどうか、これも今は考えないことにするが。
博物学への興味は、立派な学問だといってよい。しかし蒐集とか採集とかコレクションの拡大といった具体的な行為、それがあたかも人生最大の関心事であるかのような熱中振りは、趣味を同じくしない他者の理解をなかなか得難いのも事実だ。小遣い程度にせよお金を稼げるとか、学問的に評価される研究に結びつくとかいった世間に顔向けできるアドバンテージがあるなら別、さもなければ、幼稚だとか、変わっているとか、霞を食って生きているとか、なんの役にも立たないとか、とかく後ろ指を刺されがちである。
集団生活を営む人間の活動には、つねに社会に還元すべき成果が求められる。遊びといえども目的や達成すべき目標が設定される。もちろん、そういうことも含めて、遊びだよ、と笑って言えるようなら、なんの憂いもない…。
考えてみれば、そもそも自然物に対する博物学的興味の発展自体が、やはり文化的なものだったのではないか。よく冗談半分に言われることだが、中国人やフランス人は、あらゆるものを食べられるか食べられないかで線引きする、食べられないものには些かの関心も抱かないという。また、あらゆるものをどんな薬効があるかで考えるともいう。しかし、その性向は彼ら食の2大民族に限ったことではないだろう。
博物学の祖は本草学である。不老長寿や治癒の効果を持つ植物の探求に始まり、動物、鉱物などに裾野がのびて、自然科学全般を扱う学問になった。その昔、植物園は薬草園だったし、薬効の研究は宝石や鉱物学においても大きな領域を占めた。中世までの宝石書は、地誌兼家庭医学書といってもいいものだった。鉱物精錬の知識は近世に至り錬金術となって花開いた。また、鉱物・鉱石の「鉱(鑛)」という言葉は地中にある有用な(金属)資源を指すもので、鉱物学の目的は、鉱物の性質を究め、発見し、採集し、抽出し、加工し、実用に供するための知識を得ることにあった(ある)。
だから、我々のようにただ鉱物標本を愛でることを善しとし完結する非生産的な情熱は、生活上の必要や社会的な要請の上に育ったたくましい欲気と向学心の果ての退嬰、社会の片隅にひっそり咲いた徒花であるのかもしれない。
…神秘的な現象や美、珍奇なものに接したときに湧く、不可知の精神作用−個人的な至福の体験−が社会的に何の副産物をももたらさないと決めつけるのだとしたら。