510.軟玉 Nephrite (USA産) |
コメントさせていただくと、アラスカに軟玉が産するという報告を博士は知っていたが、大陸に広がる古代軟玉石器の素材がそこからもたらされた、というふうには考えなかったらしい。またカナダ・BC州産の軟玉が、1850年代に中国人金鉱夫の手で上海に送り出されていたという説(⇒No.478)については、知ることがなかったか信用しなかったようだ。アメリカ各州の軟玉産地の多くは20世紀に入って発見された。
アラスカの先住民(エスキモー)は、昔から軟玉を加工した石器を使ってきた。極北、コバック川沿いの川岸で見つかる水磨礫を用いたもので、その伝統は部族によって数世紀も続いていた。一方、西洋人がアラスカに産地を確認したのは19世紀の終わり頃で、発見者はアメリカ海軍のジョージ・ストーニイ中尉だった。
エスキモーたちが軟玉製の道具や原石を沢山持っていることにストーニイが気づいたのは1883年だった。尋ねてみると、それらは「大いなる川」(コバック川)で採れるという。中尉はエスキモーたちに案内を求め、自ら産地(初生鉱床)の探索に出た。部落から川を約184キロ遡ったところで、エスキモーたちが北方に見える山を指して言った。「あの山こそ、我々のシャーマンが石を手に入れる場所です」。
彼らはしかしそこから先に進もうとしなかった。中尉は部下だけを連れて旅を続けた。そして彼がジェード・マウンテンと名づけたその山に辿りついた。いくつかの標本を採集して戻ったが、後になって軟玉というよりむしろ蛇紋石であることが分かった。
1886年、中尉は再びジェード・マウンテンを訪れる機会を得た。コスモス砦で冬を越し、7月になって砦を出発した。何を探すべきか、この時にはもっとよく知るようになっていた。首尾よく軟玉を持ち帰ることが出来た。
ジェード・マウンテンはアラスカ最大の軟玉産地と目される場所である。超塩基性岩帯が断続的に伸びた西端付近に位置し、およそ64キロに渡って蛇紋岩化作用が働いた巨大な鉱床があるという。(⇒No.511)
といっても、現在アラスカで採集される軟玉の量は、すべての産地を合わせてもさほどのものでない。商業ベースで継続的に採掘可能な埋蔵量があることは確かだが、作業シーズンが短い夏の間に限定される極地方の気象上の困難さ、また地理的な条件によって余分にかかる採掘・輸送コストが、積極的な開発を阻んでいるのだ。
アラスカに住んで野生動物や自然界の写真を撮り続けた写真家、星野道夫氏の本に、次のようなコバック川の描写がある。
「・・・西部アラスカ北極圏を流れるコバック川を下っている。ブルックス山脈にその水源を発し、チェコト海へと流れ込む全長500キロにも及ぶこの川沿いには、わずか5つのエスキモーの村が散在するだけだ。ノルビック、カイアナ、アンブラー、ショグナック、コバック…その人口はきっと千人にも満たない。
「早春の頃、雪解けと共にこの川が流れ始めるだろ。その時の風景がすさまじいんだ。押し合いながら流れてゆく氷の上に、時おりカリブーが取り残されていることがある。春の季節移動でちょうど川を渡っている時に氷が動き始めてしまったのさ。カリブーは氷の激流に飛び込むことも出来ず、その流れの中で呆然と立ち尽くしているんだ。…」
厳冬の自然の中の、遠いはるかな軟玉産地。そんな場所からアメリカ中に軟玉が広がっていった…とクンツ博士が考えなかったのも、思えばもっともなことだったかもしれない。
上の標本。アラスカ産ではあるが詳しい産地が分からない。業者さんは、自ら採集したというコレクターからこれを手に入れたが、それ以上の情報をお持ちでなかった。