526.緑鉛鉱 Pyromorphite (ドイツ産)

 

 

Pyromorphite var. Emser Ton

緑鉛鉱(Emser Ton) 表面は褐鉄鉱まぶし
−ドイツ、ヘッセン・ナッサウ、バート・エムス産
Pyromorphite var.braunbleierz 
 (ブラウンブライエルツ/茶色の鉛鉱石)
with Bergakademie Freiberg (1920-1950) label

    

「ラスト・ホリディ」という粋なハリウッド映画がある。
余命3週間と診断された主人公の女性が、人生の残りをめいっぱい楽しもうと心に決めて、将来を夢見て貯めたお金でチェコの有名な保養地に旅立つ。カルロヴィ・ヴァリの高級ホテル、プップにヘリコプタで乗りつける。VIPサービスを享け、憧れの料理人の特別料理を味わう。それまでの生き方を変えて、誰に対しても感じたとおりに振る舞い、語り、自分に正直に生きる。そんな彼女の姿が周囲の人々を惹きつけて…というお話。続きはどうぞ映画でお楽しみください。

カルロヴィ・ヴァリ(独名カールスバート)は、14世紀にカール4世が温泉を発見したことでその名(カールの温泉)のあるボヘミアの町。18世紀以降、温泉保養地として栄えた。近世ヨーロッパでは、こうした土地に長期滞在の富裕層が集まり、湯治とリゾートを兼ねた一種の高級社交場となっていたそうだが、映画に出てくるホテルもまた豪華絢爛にして華麗の極み。いつか行ってみたいものだと思った。シチュエーションは大分違うが、なんとなく「魔の山」と「プリティウーマン」を連想しながら鑑賞した。
入浴の風習は古代ローマ時代に広まったもので、ローマ軍の遠征するところ、各地に公衆浴場が作られた。ドイツでもアーヘンやハーデン・バーデンなどよく知られた温泉地は当時からの古い歴史を持っている。もっともヨーロッパに入浴が根づいたかというとそうでもなく、温泉は基本的に療養のためのもので、医師のアドバイスに従って、時間を決めてバスに浸ったり、温泉水を飲用したりといった使い方をされた。とはいえ、温泉地を訪れる富裕層の楽しみは、療養よりも良質のホテルサービス、そして魅力的な遊興と社交とにあった。

上の標本の産地バート・エムスもまた由緒ある温泉地のひとつである。トーマス・マンの「ブッテンブローク家の人びと」に貴族的な保養地として名が出てくる。(ドイツには Bad バートのつく地名が各地にあるが、たいてい温泉や入浴に関係がある)。フランクフルトから西に約70キロ、コブレンツから南西に数キロに位置している。町の基礎はローマ人が築いたもので、BC2〜3世紀のローマ人居留地の遺跡が発掘されている。ローマ人(ローマ軍)はこの地に湧く優良な水(炭酸水)に惹かれて居留地を作り、ほどなく泉水がもたらす別の宝に気がついたらしい。あたりには熱水が残した鉛の鉱床がほぼ16キロにわたって帯状に分布していたのである。居留地のそばから古代の製錬施設が、製錬のさまざまな段階にある鉛鉱石と共に見つかっている。バート・エムスの主要鉱石は含銀方鉛鉱で、鉱石から銀も抽出された。AD数世紀〜中世に至るまでの、いわゆる歴史の空白期間のことはよく分からないが、中世以降の鉱業活動は保管された文書(鉱山憲章や鉱業権授受の記録など)によって辿ることが出来る。

鉱山が大きく発展したのは19世紀の中頃であった。さまざまな機械設備と近代化技術が投入され、20世紀初まで盛んに稼動された。1854年から1927年(採掘が終わった年)の間に採掘された鉱石は約125万トン。ここから約200トンの銀と15,000トンの銅が製錬された。ちなみに鉱山の全歴史を通じて、掘られた坑道は延長200キロに達し、掘り出された鉱石は1,000万トンに上ると推算されている。
鉱脈は完全に枯渇したわけではないが、採掘コストの増加と折から台頭してきた安価な輸入鉱石との競争を勘案した結果、新たな開発は断念された。二次大戦の短い期間、一部の鉱脈が再び活発に採掘されたが、戦後の疲弊期に入るとインフラの不足もあって坑道が水没し、終焉を迎えた。なにしろ温泉地であるから、複雑な断層に切られた地下坑道の湧水は相当なもので、稼動中はともかく、いったん排水が止まってしまうと、水が坑道の闇を支配するのにどれほどの時間もかからないのだった。
その後、もっとも大きな鉱山のひとつだったフリードリヒスゼーゲンの浮遊選鉱施設は、さまざまな古いズリの処理に利用されて暫し余命を保った。またメルクール鉱山はエムス市が1971年に買取り、地下通廊は貯水施設として用いられることとなった。

鉱山の最盛期(1880年前後)、バート・エムスは素晴らしい緑鉛鉱を多産した。透明〜半透明の、あるいは鮮やかな緑色の、また褐色の、ときにはほとんど黒色の結晶が集って数センチ大の群晶をなした。フランスのLes Farges産と並んで、欧州の愛好家が高く評価する古典的標本である。
フリードリヒスゼーゲン鉱山で1867年に見つかった晶洞は記録的であった。長さ10m、幅2m、高さ10mの巨大な空間の内壁が緑鉛鉱でびっしり覆われていた。この鉱山では緑鉛鉱は茶色系のものが多く、緑色系は小ぶりで数も少なかった。また青灰色の珍しい結晶が出て、Blaubleierz (ブラオブライエルツ:青い鉛の鉱石)と呼ばれた。ケーニッヒスティエルでは上層部には緑の、下層には無色透明の結晶が出た。後者は日光に当たると曇った茶色に変化した。
北部の鉱山群ではむしろ緑色系の結晶が多かった。今日人気の高い最良の緑色系結晶は、プフィングストヴィーゼ、メルクール、ローゼンブルク鉱山などから出たものである。

バート・エムスの緑鉛鉱には六角柱状の結晶の柱の部分がビール樽のように外側に向かって膨らんだものが多く、エムザー・テンヒェン(Emser Tönnchen)、あるいはエムザー・テンと愛称された。エムスの樽という意味だ。
緑鉛鉱は鉛の塩化燐酸塩である。成分の燐がどこから供給されたかはっきりしないが、周辺の土地に大量の化石が出るということだから、あるいは生物起源であるかもしれない。

鉱物たちの庭 ホームへ