525.白鉛鉱  Cerussite (ナミビア産ほか)

 

 

白鉛鉱 Cerussite

白鉛鉱 −ナミビア、ツメブ産

Cerussite 白鉛鉱

セルサイト -モロッコ、Oujda、touissit産

白鉛鉱 Cerussite

白鉛鉱 −モロッコ、ミブラーデン産
黒っぽい部分は微小な方鉛鉱を含むためという

 

鉱物愛好家は誰でも、白鉛鉱の素晴らしさを知っている。と思う。
クリスタルガラスのように燦々と煌めく、裡にほとばしる七彩の炎を潜めた透明な結晶。雪か風車か法輪のような、あるいは矢筈のような、ときには斜格子か鉄塔の枠組みのような、建築美と未来的な霊感に満ちた造形。ずしりと持ち重りのする、圧倒的な存在感。こんな鉱物はほかにない。

白鉛鉱は方鉛鉱の分解によって生じる鉛の炭酸塩鉱物で、鉱床の酸化帯に硫酸鉛鉱緑鉛鉱などと共にふつうに見られる。こうした場所にはまた青鉛鉱や、方鉛鉱に含まれていた銀から晶出した自然銀なども産することがあって、それぞれに存在をアピールしている。しかし本鉱こそは鉛鉱床の白眉であり華であろう。
その名の通り白〜無色透明の結晶だが、内部に微細な方鉛鉱を多量に含有してその部分が黒く見えることがある。風化物の中に風化されない元の鉱物が分散して取り込まれているというのは、なんとなく不思議な気がする。

無色〜白色の鉱物の比重はそんなに大きくないのが通例である。重晶石(比重4.2)、毒重石(4.3)、灰重石(6)などは例外的に重たく、そのため和名に「重」がついているのだが、白鉛鉱の比重は6.5で、実にこれらの重石類よりまだ重い。名前に「重」がないのは、鉛という言葉によってその重さが自明であるからだろう。
熱塩酸に浸すと発泡して溶ける。木炭の上で熱すると、還元作用によって鉛の小球が生じる。(識別表 #97参照)

学名 Cerussite はラテン語のCerussa 白粉に因む。砕いて粉末にしたものが顔料として用いられたためらしい。もっとも、この顔料(鉛白)の供給源は人造品が主だったようで、ヨーロッパではプリニウスの時代にすでに製法が確立されていた。重ねた鉛の板を酢酸の蒸気にさらし、噴き出した白い粉を掻き集めて用いた(後に焼結した焼鉛白も作られた)。鉛白はシルクロードを通って中国に渡り、胡粉と呼ばれた。胡とは西域を指す言葉で、すなわち西方から来た粉。奈良時代には日本にも伝わった。持統天皇6(692)年閏5月4日、沙門観成(かんじょう)の造った鉛粉がよいものだったので褒美に何々を与えた、と日本書紀にある。一般的な解釈ではこの鉛粉は鉛白であり、日本で化粧品が作られた最初の記録ということだ。(備考1)
ちなみに唐から渡ってきた唐胡粉は鉛の炭酸水酸塩だったが、日本ではこれを真似た塩化鉛の倭胡粉も作られたというから、唐胡粉の製法自体はまだ一般には知られていなかったのだろう。鉛白は後々まで希少品であり、また湿度の高い日本では時間が経つと(硫黄分と反応して?)黒変することもあった。そのため、鎌倉時代までに貝殻を使った白色顔料が工夫され、以降、胡粉といえば貝殻胡粉を指すようになった。

明代に書かれた「天工開物」には、胡粉(鉛白)の製法としてプリニウスのそれと同じ方法が記されている。おそらく西方の技術が流れてきたのだろう。この方法が日本にも渡って漸く鉛白の入手が容易になった。江戸時代中期には化粧用の白粉(おしろい)が庶民の手に届くようになり、ために市井の女性や歌舞伎役者に鉛中毒が広がったというから皮肉なことだ。とはいえ、日本で鉛白化粧品の害が問題にされたのは明治時代の後半だそうで、法律によって製造が禁止されたのは1930年のことである。
一方、西洋では古くから鉛白が用いられたので、その害も早くに気づかれていた。ベックマンの「西洋事物起源」に、古代ギリシャの医家「ガレノスや他の医者たちが白鉛に関してしばしば警告を発している」とある。
しかし、鉛白の使用が制限されたわけではなく、その後も長い間、高級化粧品として愛用されたことは東洋に同じ。エリザベス1世女王は日々鉛白をふんだんに消費することで有名だった(cf.No.96)。美の前には医家の警告も空しかったのである。

人類はどうも鉛の害には鈍感だったように思われる。古代ローマでは鉛管で水道が引かれ、鍋や食器などにも鉛が多用されていた(付記1)。そのため金属製食器を使って食事をする富裕階級層に慢性的な鉛中毒が広がっていた。だが、中毒の原因が鉛にあるとは考えられなかったようなのだ。これに関連して、上記ベックマンの書から興味深いエピソードを紹介したい。「ブドウ酒の混ぜもの」の話である。

ブドウ酒の製造は、摘み取ったブドウから果汁を絞り出し、アルコール発酵に適した環境条件におくことで行われる。この過程で十分に注意を払わないと酢酸発酵が起こり、アルコールが酸(酢)に変化してしまうことがある。いったん酢酸発酵を起こした酸っぱいブドウ酒をもとに戻す方法はない。
しかし、この「悪いブドウ酒」の酸味を消したり、甘みを付加して味を調えたり、酢酸発酵の進行を止めたりするために、人々は昔からさまざまな工夫をこらしてきた(ベックマンははっきり詐欺と言っているが)。そのなかで、飲む人の健康を害する危険な手法の一つに、鉛の酸化物や炭酸塩類を混ぜものとして加えることがあった。(付記2)

「鉛とその酸化物、炭酸塩は、ブドウ酒が駄目になったときにできる酸に溶けるが、これらには不快に感じない甘みがあり、見た目にわかるほど色がついたりすることもなく、酢酸発酵の進行を止めるのである。しかし、そのようなブドウ酒は、鉛の多少により、また消費者の体質によって、速やかに、もしくは徐々に死に至るか、また激しい腹痛、何らかの障害、または他の慢性的な病気を引き起こす。」

鉛化合物の添加は、古代ギリシャや古代ローマの昔から知られていた経験的な酒の改質方法を発展させたものらしい。

「ギリシャ人とローマ人は、ブドウ酒を弱火で、半分か3分の1もしくは4分の1になるまで沸騰させたものを、悪いブドウ酒に混ぜて、悪いブドウ酒を改良する習慣があった。この操作で水分をとって蜂蜜と薬味を加えたものは、いくつかの名前で呼ばれた。(中略)
ブドウ酒を沸騰させるこの方法を記述した著者のほとんどが、とくに鉛や錫の容器を用いなければならないと言っている
(付記3)。なんとなればブドウ酒はそれによってより美味になり、もちが良くなり、さらに澄んでくるからだというのである。彼らは急に沸騰させてはいけないと説示しているが、酸っぱくなったブドウ酒をゆっくり沸騰させると、これら危険な金属の一部は必ず溶解するはずであり、そうしなければ好ましい効果が表れない。また、沸騰させる前に海水を多少加えるという著者もいたが、海水の塩分は必然的に鉛の溶解を早めることになる。」
「ブドウ酒の酸が、鉛を溶かす力のあることを昔の人たちが知らなかったのではない。というのは、ギリシャやローマのブドウ酒商人は、自分たちのブドウ酒が駄目になったかどうかを試すとき、その中に鉛の板を浸して試したからである。もし鉛の色が変わったならば(これは鉛板の表面が明らかに侵食されたのである)、ブドウ酒は駄目になったと考えられた。」

酢酸を含んだブドウ酒が鉛を侵食する反応は、プリニウスが記した鉛白の製法と基本的に同じである。当時すでに鉛白の害が知られていたのなら、鉛がブドウ酒に溶け込んだ時の危険性にも気づいていたのではないか、と思われる。だが、必ずしもそうではなかったとベックマンは言う。

「昔の人たちは、鉛が味の悪いブドウ酒をまろやかにし、酸化を防止することを知っていたが、それが毒であることに気がついていなかったのだと私は思う。それで鉛を信頼して長いこと用いていた。また鉛が毒であると知ったときも金属のせいではなく、別な理由のためだとした。」
「現在
(1800年頃)でも、このような不注意(水道への鉛の使用)がなされていることからすれば、昔の人たちが鉛の容器を用いていたと聞いても、われわれは驚くべきこととは思わない。しかしながら、この方法が普及したのは単に不注意によるものであるとは思えない。昔の人たちは、とくにプリニウスの時代に、ブドウ酒に関する種々の方法を知っていた。そのなかに、石灰または石膏と沸騰させるという方法がある。古代の医者は、われわれのような現代化学の知識をもっていなかったので、ブドウ酒が有害になるのは沸騰の際に使う容器ではなく、これら鉱物を加えることによるのであろうと考えていた。そして、それら鉱物の使用がもたらした致命的な実例があったので、彼らは鉱物有害説に多く傾いていた。したがって昔の人たちは、この鉱物を非難し、後になって人体にとって有毒かつ有害であるとして、法律でそれら鉱物の使用を禁止した。」

つまり、致命的な結果をもたらす別の鉱物の背後に紛れて、鉛の害は看過されていたか、あるいはその作用が緩やかなものとみなされたため、禁止に至らなかったということなのだろう。みんなで使えば怖くない。
もし鉛白を使って、なにか皮膚にトラブルが起こったとしても、それは粗悪品を使ったせいであり、水道水を飲んで体調を崩しても、それは水の中に含まれている他の有害鉱物が原因だ、といった説明が通ったのだろう。
水道への鉛の使用についてはさらに次の注釈がある。

(蒸留水のような純水が入っている、輝く鉛の容器を空気にさらすと、じきに酸化し、腐食する。そして鉛の酸化物が、検出される。しかし川や泉の水は溶解力がずっと少ないか、全くない。それは、その水に含まれる炭酸塩とか硫酸塩によるものである、鉛の容器をこのような不純物といっしょに使うのはそのためであり、金属の上にできた被膜がそれ以上の腐食作用を完全に防ぐ。ただ、この被膜は部分的に鉛の炭酸塩からできているが、これは非常に危険な毒物である。…鉛の水槽は鉄とか亜鉛の管を結合したり、中に入れたりすると、時として危険になる。それは電池の働きが起こり、これによって鉛が非常に溶けやすくなるためである)

こういう危険性は19世紀の中頃にはすでに指摘されていたのだ。それでも水道に鉛管や鉛の水槽が使用されなくなるという運びにはならなかった。日本でも鉛管が引かれなくなくなったのはつい最近のことである。(付記4)
万人が利用する水道にしてそうなのだから、化粧用の鉛白がその害を言われながら、長く使い続けられたとしても、さして不思議なことではなかったのかもしれない。

鉛の炭酸塩である白鉛鉱は、水に溶けると毒物である。
鉱物愛好家は誰でも、そんなことは気にしない。
こともないかな?

 

備考1:化粧用の白粉である「胡粉」は、炭酸鉛という説のほかに、汞粉(こうふん)=塩化水銀だという説もある。塩化水銀の白粉は古代から化粧用に用いられ、日本では伊勢白粉(いせおしろい)、伊勢軽粉(いせかるこ)と呼ばれた化粧料、薬料はみな塩化水銀で、平安朝のころは盛んに用いられたという。(吉田光邦「錬金術」 P.34)  左の書の中で、吉田氏は、文献に「鉛」とあっても、いきなり現在我々が知っている金属の鉛と考えるのはすこし早計だ、と言っている。

付記1:本文の意味は、実際に鉛製の鍋や酒器が使われたということだが、ローマ時代の容器はたいてい銅製だったという。オリエント文化圏で発明された青銅(スズ青銅)は、ギリシャ、ローマ文明では継承されなかった。スズが手に入りにくかったためと考えられている。しかしローマ帝国がイギリスに侵攻して以降は、コーンワルのスズを十分に利用することが出来たであろう。ベックマンは、コリント青銅、シラクサ青銅と呼ばれるものの半数以上は銅とスタンナム(後述、付記3)との合金だろうと考えていたが、現代の蛍光X線分析によって、これらの青銅が十数%程度の鉛を含むことが明らかになっている(ケルト錫もまた相当量の鉛を含む)。コーンワル以外にヨーロッパで知られたスズの産地はドナウ地方くらいだった。
当時、白い鉛、黒い鉛の名で区別されていた金属があり、前者はスズ、後者は鉛だったとベックマンは推論している。白い鉛は「鉛白」とも呼ばれたというから、話はややこしい。 cf. No.655
ちなみに、日本でも昔、錫は「なまり」と訓まれた。白鑞(しろめ)は「しろなまり」とも読み、錫、あるいは錫と鉛の合金を指した。鉛は「くろまなり」であった。偶然の一致だろうか?
付記2:酸っぱいワインの改質方法としては、ほかに、硫黄、ビスマス、硫酸塩類、水銀、異極鉱などが混ぜ物に使われ、それぞれ法律で禁じられてきた。澱をとってワインを澄ますために灰や雲母を用いることは、特に害がないので禁じられていない。
付記3:酒器としての錫 ⇒錫(スズ)の話 脚注2 
錫のことをスタンナムというが、ローマ時代にこの言葉が指していたものは、含銀方鉛鉱から一次製錬して溶出したハ(かわ)であり、銀と鉛の混合物(合金)だったようだ。錫と鉛の混同については、別に項を設けて述べることにしたい。ちなみに15世紀頃、ビスマスは鉛、スズ、アンチモンなどと混同されていた(⇒No.149)。その背景には、もともと鉛やスズが混同されていた事情があっただろう。スズの兵隊は、鉛の兵隊でもあったわけで(←これは冗談)。
付記4:鉛は加工性がよく比較的安価なありがたい金属素材である。重たいことは難であるが、鉛管として使う分には問題にならない。鉛管の安全性に危惧があったとしても、代わりになる素材が見あたらなければ、おいそれと使用禁止になるものでもなかっただろう。そのあたりは、産業素材として長らく無敵を誇った石綿(アスベスト)に通じる事情があるのかもしれない。
付記5: 中世ヨーロッパでは、赤色の顔料、鉛丹(Cerussa usta/酸化鉛)は、鉛白を加熱焼結する過程で得られた。
付記6:ベートーベンは、日常的にワインに混和されていた鉛化合物によって鉛中毒に罹っていたという説がある。耳が聞こえなくなったのもそのためだとか。

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