597.黄水晶2 Citrine (タンザニア産)

 

 

Citrine 黄水晶 シトリン

シトリン -タンザニア産

 

宝石に使われるシトリンはたいてい煙水晶や紫水晶を人工的に処理して作られているという。私は珍しいものを有難がる人なので、なるべくなら天然シトリンの標本を持ちたいと願っている。しかしそれは実際難しいことのようだ。
画像の標本はタンザニア産。鉱物ショーで手に入れた時、業者さんは「天然の色です」と言っていた。すっきりした淡い色なので、あるいはそうかもしれないが、いみじくも博士が述べたように証明することは出来ない。(No.596

普段の私は、標本は学術的価値以上にキレイさが大事、などと言っているけれど、キレイだったら処理品でもいいじゃない?と捌けた境地にはない。処理の技術は認めるにしても、また業者さんサイドは概ね容認の姿勢を見せているけれども、わざわざ「私が」コレクションする理由はないよね、と思う。そのわりに、はっきり処理品と言い切れないときには、「分からないじゃないか」と目をつぶってアヤシイ標本を買ったりするので、我ながら始末が悪い。趣味の世界にゼッタイはなく、石の魅力の前に理屈は引っ込みがちである。
それにつけても、熱処理はイヤ、放射線処理もイヤ、接着品はパス、磨いて整えた結晶面許すまじ、などと嘯いている実はファジイな愛好家は、改質技術にますます精妙さを増してゆく鉱物標本と業者さんを相手に、いつまで節を通していられるだろうか。いや、知らぬが仏で、きっともう掴んでいるよなあ

熱烈な石(宝石・鉱物・岩石)の愛好家だった宮澤賢治は、作品を読む限り、この種の世故の煩悩からわりと自由だったように見える。ダイヤモンドの流通と価格が、採れないふりしたシンジケートにコントロールされていることを知っていたが、金剛石への好意は翳らなかったし、シトリンが煙水晶から造られることは承知の上で、そのアカネがかった澄明な黄色を作品世界に詩的に昇華させている。

例えば次のような句や文章。
「暮れやらぬ黄水晶(シトリン)のそらに青みわびて 木は立てりあめまっすぐにふり」
「むしろこんな黄水晶(シトリン)の夕方に」(「春と修羅」[風景観察官])
やがて太陽は落ち、黄水晶(シトリン)の薄明 穹も沈み、星々光りそめ、空は青黝い淵になりました」(「まなずるとダリア」)
夕空の色が(おそらく暗みを帯びた)シトリンに見立てられている。また、暁に射す光や雨露、星空の描写にシトリンを用いた句もある。

「雲がちぎれてまた夜があけて/ そらは黄水晶(シトリン)ひでり あめ」(「春と修羅」[青い槍の葉])
「わたくしはいますきとほってうすらつめたく/シトリンの天と浅黄の山と/青々つづく稲の氈/わが岩手県へ帰って来た」(「装飾手記」[澱った光の澱の底])
「眼には黄いろの天の川/黄水晶の砂利でも渡って見せやう/空間も一つではない」 (「補遺詩篇I」[松の針はいま白光に溶ける])
「まるでけむりの草のたねほどの黄水晶のかけらまでごく精巧のピンセットできちんとひろはれてきれいにちりばめられ」 (「インドラの網」、星空の描写)

これらの心象風景は、天然の淡い淡い黄水晶ではなくて、くっきりした黄色の熱処理石あってこそ連想の広がった世界だろう。また、美しいものを偏見を離れて美しいと感じられる心、邪知を超えた無邪気さによって初めて綴りうる表現だろう。かくありたいもの。

賢治は宝石の名前をある種のこだわりを持って愛した。オパールを「オウパル」、トパーズを「トパース」「トパアス」「トッパァス」、トルコ石を「トウコイス」、「ターキス」などと好んで書いた。黄水晶にシトリンとルビを振ったのも、賢治一流の感覚がなせる意識的な選択のはずだ。彼の時代、黄水晶はむしろ「○○トパーズ」の名で市場に出回り、一般に知られていたと思われるが、トパーズに似たその石をあえてシトリンと(正しく)表記し、シトリンの響きが醸し出す世界を呈示したところに賢治らしさがあるのだと思う。それは彼にとって、「トパアス」や「イエロークオーツ」が展開してみせる風景とはまったく違ったものだったろう。
ルビを振らない黄水晶は逆に、心の中で「きずいしょう」と詠んでいたのかもしれない。

シトリンの着色要因にはいろいろな要素があるという。基本は鉄イオンによるものだが、アルミニウムイオンが関与することもある。これらの(+3価の電荷を持つ)元素が水晶の本来の成分である(+4価の電荷を持つ)珪素を置き換えると、+1価分の電荷が不足して水晶の構造は不安定になる。
バランスを補償するために水晶のもうひとつの成分である酸素(マイナスの電荷を持つ)の一部が脱落したり、電子を失って電気的中性が保たれるが、そのとき鉄(構造を置換するか、介在物として含まれるもの)と酸素との間で電荷移動が起こると、紫色に相当する光エネルギーを吸収しやすくなって、光があたったときに補色である黄色を呈する。つまり黄水晶が生じる。単にアルミニウムが珪素を置換する一方で酸素に属する電子が欠落した場合は、結晶が黒っぽく曇り、煙水晶や黒水晶が生じる。
また、3価の鉄イオンから、例えば放射線のエネルギーによって電子が跳ね飛ばされ4価の状態になると、水晶は紫色を呈し紫水晶(アメシスト)となる。

このように煙水晶、黄水晶、紫水晶は発色要因的に近い関係にあるが、紫水晶は比較的産出が多く、煙水晶はやや少なく、黄水晶は珍しい。ありふれた無色の水晶にごく微量の不純物が混ざることで色が生じ、わずかな条件の違いで色合いが変化するのはやはり不思議なことではないか。とくに黄水晶の色は自然界では不安定かつごく微妙なバランスの下でのみ発現する奇跡ともいうべきものではないか。
その奇跡に対して、「こんなのオートクレーブがあればいくらでも作れるよ〜ん」と舌を出してみせるのが人間の知恵であり、処理宝石の商業世界であり、狭量な鉱物愛好家の癪に障るところなのだと思う。
ちなみにウラル産のシトリン(処理品)は、アルミニウムやリチウムを含んだ無色の水晶に放射線をあててカラーセンターを形成したものだという。一般にコバルト60のγ線が用いられる。

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